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神代の子 ―鬼―

鬼、高き山より出で、うら若き乙女の命を奪いて力を得んと渇望す――

一.

 梅雨。多くの者が水を欲しがる真夏を前にして、慈悲深い神が天から恵みを垂らしてくださる時節だ、と時の太政官が謳った季節に入っていた。太政官の言葉通りなら何故梅雨ですら暑いのかと、冬の前に火が降ってこないのかと、男は考えていた。心を無にするための座禅を組みながらのことだった。
 茅葺の屋根から滴り落ちる雨水が、玉砂利で埋め尽くされた庭と四十畳の大広間を隔てている。すべての障子が開け放たれた正面の窓から分かる雨脚は常に一定で、農夫の鍬鋤のごとく無駄がなかった。居るのか分からない慈悲深い神は、屋根や地面を濡らせる作業に余念がないようだ。
 雨の日は坐禅という男の慣習はいつから始めたことか記憶にない。少なくともここ五年は坐禅と雨音がともにあった。慣習に追われている気もしたが、やめる理由もない。しかし、いつまで続けようかと思うと悩むところもある。
 そんな下らないことばかりを考える緊張のない形ばかりの座禅だというのに、その男を邪魔するものはいなかった。今座っている大広間は、この集落に住まう者なら貧富を問わずに出入りする料理屋の二階にある一室にすぎない。それでも誰も足を踏み入れようとはしないのは、人一倍大きくて威圧感のある彼の背中のせいだろう。大広間に来る者は皆、開け放たれたふすまから覗ける様子を見て気まずそうに引き返していく。
 料理屋を営む側からすれば少々迷惑なその男は、名を村雲(むらくも)といった。
「邪魔をするよ」
 その村雲に声をかけたのは老人だった。
 静寂が割られるのを待っていたのか、大きな雨粒が屋根から落ち、庭の石畳に弾かれて軽い音が響く。
 村雲がゆっくりと目を開くと、一人の老人が大広間に入り、村雲に歩み寄って隣に座った。
「一昨日のことでの」
「……」
「おや、一言に拒絶せんということは引き受けてくれるのかの?」
 そう言われて、村雲はうっとうしそうに後髪を掻いた。口をへの字に曲げて、あからさまに嫌な顔を老人に見せつける。老人は楽しげにそれを眺めた。
「引き受ける前に一つだけ聞きたい」
「何じゃな?」
「どうして、俺なんだ?」
「お主が適しておるからじゃ」
 老人がきっぱりと言う。
「そりゃあ、ずるい答えだ」
「では、何と言ってほしいのじゃ?」
「……」
 考えたが褒めてほしい訳でもない。
「まあ、いいや。どのみち爺さんの頼みじゃ、無下にもできん」
 言葉の前後で「仕方ない」と聞こえるようにつぶやきながら、村雲は老人の話を受けることにした。
「恩に着るわい。まあ安心せい、今度のは筋がいい。きっと姫守(ひめのかみ)にまで上がってくれよう」
「別に、禄(ろく)だって筋が悪かったわけじゃない」
 筋ではなく運が悪かった。禄という若者が悲運の最期を遂げた原因をどこかに当て込めるとしたら、それが最も都合の良い言い訳かもしれない。村雲の中ではあの悲劇をそう結論付けていた。
 村雲と老人の会話の中心にあるのは、“戒羅(いましら)”のことだ。
 平たく言うと戒羅は、古くから伝わる祭儀の中にある一つの儀式を試合として簡略化したものだ。
 生贄に差し出された姫君を鬼から守って戦ったという故事に倣って執り行われる戒羅は、姫守(ひめのかみ)と鬼手(おにて)に分かれて戦う。姫守は言葉の通りに贄姫(にえひめ)と呼ばれる一人の女を守ることが、鬼手は姫守を倒して贄姫を落とし入れることが目的だ。
 古くから戒羅は法家と呼ばれる斐川家の一族が取り仕切っていた。戒羅はもちろん、この集落における大きな取決めは彼ら法家の許可なく定めることも変えることもできない。法家が直接手を下すことはなくても、どこかで必ず繋がっている。
 一番手っ取り早くその繋がりを確かめたいのなら、贄姫の面々を見ればいい。法家が正式に巫女と定めた女性に限られている贄姫は、不思議とこの辺りにいる女にはない美麗さが備わっている。あれは法家の権力が見えに結び付いた結果の産物だ、と誰もが思っている。
 その一方、姫守や鬼手は直接法家が取り決めることはない。しかし、誰しもが務められるわけではない。相応の腕と身代を証明する者が必要とされている。
 村雲と老人が語る禄という人物は、老人の紹介で村雲が鍛えた青年だった。修行を重ねて戒羅に出たのだが、初陣というべき戦いで敢え無く落命してしまった。
 あれから一年も経っていない。眼下に禄の亡骸を抱きかかえながら、何度も名前を叫んだ記憶は死ぬまで消えることはないだろう。
「そうじゃの。惜しい子を亡くした。じゃが、村雲。だからこそ、わしはもう一度お主に預けてみたいのじゃよ。それに不次ならば、きっとお主を忌まわしい記憶から救うてくれる」
 不次。どうやらそれが今度の新入りの名前らしい。
 老人は村雲の反応を待たずに肩を叩くと、その肩を杖代わりに、よいしょと立ち上がった。
「連れてくるゆえ、少し待っておれ」
 老人の足運びは遠目に見ても区別がつくほど際立っていて、片足を挫いた鶏のように均衡を失っていた。老いと彼の歩んできた経歴がそうさせるのだ。
 戒羅は法家の監督下にあるが、彼らよりも身近な運営陣がある。人々は、彼らのことを櫓(やぐら)と呼び、櫓に属する者を張り番(はりばん)と呼んでいた。なぜかというと、彼らが集落の北部にある櫓と呼ばれる小高い塔に陣取っているからだ。張り番の語源は“見張り番”にある。
 しかしその張り番も、村雲たちの生活を逐一監督しているかといえばそうではない。張り番の権限が及ぶのは戒羅の試合に関わるところだけに限られている。それ以外の――たとえばこの料理屋のような――集落での生活にかかわる部分などは、また別の者たちが運用していた。それぞれの都合で生滅する彼らに正式な名称などはないが、櫓にかかわる者ということで、梯子(はしご)と呼ばれている。
 先の老人は、伊丹という名の梯子だった。もともとは櫓に居たが、それは村雲が鬼手になるずっと以前のことで、隠居の齢を経て惚けが始まり、今に至ったらしい。伊丹の足が悪いのは何十年もの間、櫓の階段を上り下りしてきた結果、膝を消耗したせいだった。
 梯子としての伊丹の役割は櫓との伝手を生かして新入りを斡旋することだ。
 鬼手と姫守の戦い手は何のつてもなく櫓に申し込んで成れるものではない。神聖な儀式としての戒羅を守るためには、やたらめったら人を迎え入れるわけにはいかないからだ。いい戦い手になりそうな人材を厳選しなければならない。その厳選する手助けを伊丹がしているというわけだ。
 そもそも、昔は伊丹のような梯子が無くても困らなかったそうだ。何故かと言えば、それほどの戦い手を必要としていなかった。
 その事情が今に通じなくなった理由は背景の変化にある。
 ここ数十年の間に、年に一度だった戒羅の儀式が、人――つまるところ金や米――を集められるからという理由で増やされ、今や大安の日の年中行事になってしまった。そればかりか、半刻(一時間)毎に一戦ずつを五戦も行うせいで、一日に十人以上もの戦い手が必要になっている。
 張り番が言うところによると、公には五十人近くの戦い手が存在するそうで、それだと月に一度以上は出番がくることになる。待機がひと月という期間は十分なように思えるが、いくら勝者に金一封が出るからと言っても、武具も含めて無傷で済むことは珍しく、手傷を負うこともままある。修理にも治療にも金は欠かせない。勝てばよいのは道理だが、そうならずに金不足で辞めていく者は、決して少なくはないのだ。
 結果的に鬼手も姫守も人手不足だった。そのために、伊丹のような梯子が必要とされ、欠員を必死に補う老人の役割も、楽ではない。
 それでも、伊丹がそのような役目を村雲が入ったころから続けていられるということは、そんな苦労の絶えない戦い手でも、なろうと思う人間がいるということでもある。勝つことによって手に入る富と名声が、腕に覚えのある輩をお呼び寄せるのだ。
 不次もそうした類の輩だろうかと、村雲は案ずる。
 どちらかというと村雲は、富と名声を求めてくる人間を好んでいない。戒羅に出る者に求められているのは、報奨金への高い欲求でも天下一の名声への挑戦心でもなく、ただの気概だと思っていた。
 もともとは女子を鬼から守り、平穏を願うための儀式だ。腕を振るうのは金は名前のためではない。すべては平和への祈願だ。祈願のために己の腕を掲げる。それが気概というものだ。
 禄にはその気概があった。それだけに残念でならなかった。はたして不次はいかがなものか。
 しばらくして入ってきたのは禄よりも若く、ようやく少年期を終えたような印象を残した青年だった。後ろで一本に束ねた髪の根元がこめかみより高く、まだ甘さの残った面影なのだが、目つきだけはやけに鋭い。どこか悪いところがあるのかと声をかけたくなるくらいだ。
「不次と申します。ご指導のほど、宜しくお願い申し上げます」
 不次は言うなり深々と頭を下げた。まるで用意していたかのような声の張り方だ。対して村雲は軽く会釈をした。というより、顎を引いただけに近かった。
「伊丹のじいさんは?」
 見回したが、広間には不次と村雲しかいない。
「疲れたと言ってお引き取りに」
「そうか」
 無理もない、と思う。あの足で動き回るのは疲れる。
「飯は済んでいるのか?」
「いえ」
「なら、今ここで食おう」
 ちょうど、料理屋に人が入り始めた。二階まで上がってくるものは少なくとも、下はそれなりに賑わっている。それなりにとは、梅雨空の分だけ静かだということだ。
 初対面で共にした食膳に会話はなかった。一口置きに飛んでくる不次の視線を額で受けながら、村雲は黙々と箸を進めた。
 塩焼きにされた川魚がすぐに骨になる。不次は置いて行かれることを焦ったのか、村雲を気にするのをやめて箸を急いだ。
 昼餉を済ませた二人は会話もしないままにまだ霧雨の降る外へと出た。
 村雲をはじめ、戒羅に携わる者たちは皆、この集落で過ごしている。
 集落の中央には内裏(だいり)と呼ばれる社閣があり、そこには戒羅の行われる祭事場と神社や道場などがあった。二人が今いた料理屋もそこにある。内裏を北に出たところに櫓が建っていて、その他の場所が居住区になる。
 家に向かって傘も差さずに歩き出した村雲とすれ違う連中は、当然のこと顔見知りばかりになる。刃を交わせただけの者から酒を酌み交わした者まで様々だ。旅客が訪れる大安の日を除けば、知らない顔は珍しい。それを象徴するかのように、すれ違う人間は誰もが村雲よりも不次を見ていた。
 不次は明らかに固くなっていた。
 普通なら若い弟子の緊張を和らげるために「どこの出か」とか、「なぜここに来たのか」とか、打ち解けるためにいろいろなことを話しかけるものかもしれない。だが、村雲はあまりその手の内容に興味がない。禄の時もそうだった。
 だいたい身上のことは伊丹に話しているはずなのだ。何度も繰り返し話すのは面倒だろうと思う。それに、村雲が大事に思っている気概が不次に備わっているかどうかは、今聞いて知れるものではない。
 村雲は不次を連れたまま自分の屋敷に戻った。庭というには大げさな空き地を少しばかり抱えた、土間のほかに座敷が二間しかない狭い屋敷だ。
 それでも不次には立派に見えたのか、門の前で立ち止まって屋根を見上げた。
 この集落に建つ住居の形は様々だ。広大な庭を持つ屋敷もあれば、ひと間しかない庵のようなものもある。どこに住むかは好き好きだが、住処にこだわる戦い手はほとんどいない。早い話、寝食ができればそれでいい。体を動かしたいなら内裏に道場がある。戦い手は誰しもが生き抜くのに必死で、家の様相にかまっている暇はない。そこが法家に養護されている贄姫との大きな違いでもある。
「お前、家は?」
 無言のうちに連れて帰ったが、それで良かったのかが気になって、訊いてみると不次は首を横に振った。
「まだです。伊丹様が三日のうちに手配をする、と」
 つまり、しばらく置いてやれということか。村雲は鼻で笑いながら、半分物置になっている部屋を指さして「ここを使いな」と指示した。すると不次は荷物を置くなり、そこに直った。
「では、何を始めましょう」
 すでに腹を決めているような態度だった。
 日暮れまでたっぷりあるが、初日から叩き込むつもりは毛頭ない。せいぜい集落とその周辺地域をぶらついて案内するぐらいのものだ。禄がそうだった。それなのにこの若者は木刀での打ち合いを望むかのような獰猛な目をして村雲を睨んでくる。
 村雲は期待を通り越して不安になった。何かを急ぐ人間は足元を見ないものだ。
「まずは、知識を身に着けてもらおうか」
「知識、ですか?」
「そうだ。戒羅の規則を知らなければ、何も始まらんからな」
 不次は明らかに嫌そうな顔をした。そんなことよりももっと刺激的なことがしたい、と額に書かれかけたところで、急に表情とともに一変して消えた。
「わかりました」
 渋々、といったところだろうか。初っ端から反旗を翻すようなことにはならなかったものの、かえって気分を害した。一層のこと歯向かってくるほうが対処も楽だ。
 村雲に牙を剥かなかったのは、話が面倒になると感じ取ったからだろうか。だとすれば、感情に任せて突っ走っても可笑しくない年頃に見えるのにそうしなかったということだ。さっきの態度と相まって、それは感心だというより不気味に見えた。
 よく言えば算段ができる、か――。
 櫓が配布している戒羅の歴史や規定をまとめた文書を手渡しながら、村雲は眉をひそめていた。

続く