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神代の子 ―鬼―

五.

 太鼓の音と同時に、村雲は石段を下りて朝の雨が濡らした砂利の上に立った。
 犬見も加々見はこちらを窺った後で、ゆっくりと一歩を踏んだ。その所作があまりにも落ち着き払っている。村雲は一層とその壮齢の男の正体が気になって、遠く離れて対峙する犬見の顔をじっと見つめた。
 新入りとは思えない不遜な態度は、年の功というべきものなのか。犬見には動じる気配がない。こちらを睨むのではなく、じっくりと見つめ返されている。身に着けた鬼面のおかげで、なおのことを表情が分からなかった。
 勝負がつかないまま半刻を過ぎれば鬼手の負けになる。あちらにどんな秘策があるにしても、このまま時を費やすつもりはないだろう。
 どうやら、あちらは村雲を引出そうとしているらしい。
 多くの鬼手は神代の力を恐れる。理由は簡単で、得体が知れないからだ。だから距離を置いて、姫守が誘い出されるのを待つ。そうすることで、神代の力をまともに受けることがなくなるのだ。村雲自身、鬼手を務める時にはそのようにして姫守を“引出し”、先に倒したことがある。
 向こうが出てこないのなら、こちらは出方を考えなければならない。
 勝手に飛び出して行けば、庵が無防備になる。それでもいいかという意味で、湖袖を振り返ると、贄姫は扇子を開いて軽く薙いだ。柔い風が湖袖の腰に下がった匂い袋から漏れる花の香りを伴って村雲の鼻っ柱に届く。「行ってらっしゃい」というのだ。
 村雲が一歩を踏むのに合わせて、犬見も歩き出した。加々見は犬見から二歩を引いた位置で、弓持ちのようについて来ている。やがて二人の歩みが村雲より先に止まった。
どういう狙いかと思えば、鬼手の二人が待ち構える所から二歩ほどこちらへ寄ったところに紙の札が置かれている。さきほど持ち場に向かう時に置いたのだろう。何か話していたのは、この算段だったのか。しかし、その程度なら村雲にとっては予想の範囲内だ。
 気になるのは、罠にしては堂々としすぎていることだ。普通罠といえば気付かれないところに仕掛けるものだからだ。
 村雲は警戒から足を止めた。
 ゆっくりと太刀を抜くと、合わせ鏡のように犬見も太刀を抜く。だが、村雲が一歩を勇むと犬見は一歩を退いてみせた。
 明らかに誘っていた。札を踏めというのだろう。
 その挑発に乗ってやりたくもあるが、得体のしれない札だ。確かめもせずに踏みつけるのは愚かしい。村雲は決して足元の札に目を向けないまま、犬見の顔だけを見つめ続けた。
「臆されたか? 村雲殿」
 鬼面を通じて犬見が言う。
 行動では足らず、言葉でけしかけてきた。無視してやれないことはないが、こうなると癪だ。
「……面白い。その誘い乗ってやろう!」
 加々見は幻術の使い手だと聞かされた。幻術程度の罠ならば、時が解いてくれる。そう信じて村雲は突進した――が、全くもってその結果は予想を裏切る形となった。
「掛かった!」
 そう言って大きな一歩を踏み、札を踏んだのは犬見だった。
 そしてその瞬間、犬見が消えた。姿かたちが見えなくなったのだ。
 村雲は愕然とした。
 犬見は最初から村雲と刃を交えるつもりなどなかった。一直線に庵を目指し、ろうそくの火を消すつもりだったのだ。
 幸いにも犬見が庵に向かって猛進するたびに、玉砂利が場所を知らせてくれる。肝を冷やされた一瞬の分だけ距離が空いてしまったが、一回り以上も年上の男の足だ。すぐに追いつける。
 村雲はすぐに駆けだした。
 正確には駆けだしたつもりだった。
 走っているはずなのに、風景が動かない。誰かが着物の裾を思い切り引っ張っているみたいだ。
 いや――。
 少しずつ実情をつかみ始める。
 動いていないのは風景ではない。自分の体だ。
 体が全く動いていない。魂と肉体を別々にされたみたいに村雲の思うことを体が聞いてくれない。
 慌てる村雲の耳元で「ふふふ」と笑い声が囁く。加々見の声だ。真後ろに気配を感じる。同時に鼻腔が激痛を訴えはじめた。
 毒牙にかかったのだ。幻覚をもたらす香などと言う甘いものではない。体にしびれをきたす危険なものだ。体が弱っていたら心の臓さえ止まりかねない。
 加々見が笑っていられるのは、仮面の下に濡らした布を当てているからに違いない。掛かったと言ったのは、村雲が毒牙の範囲内に踏み入れたからだ。神代の力から逃れるための引出し戦法に見せかけて、本当は加々見の毒牙が届くところへ引き込むための戦法だったといういうことだ。
「湖袖! 閉ざせ!」
 庵には、扉はおろか壁もない。贄姫が立て籠もったところで誰も面白くないから、庵は四方に開け放たれている。
 その庵を閉ざすことができるのが水神に代わる巫女、湖袖である。瀧のような雨を降らせ、鬼手を遠ざけるのだ。ただし、長くは持たない。神代とは言え、人外の力を酷使すれば湖袖自身の命に係わる。
 結局窮地には変わりなく、村雲は汗をかいた。
 とはいえ、頭は働く。
 鼻の腔から脳髄を侵食する毒ならば、吸い込まなければいいだけだ。既に息苦しいのを我慢して、さらに息を止めるしかない。
 口を閉じ、舌を押し込めるようにして咽喉を圧迫して息を止めた。
 苦しい――。
 見開いた双眸が呼吸をはじめそうだ。同時に、痺れが抜けてきているのも分かる。指先から徐々に自由を得てきた。
 加々見の術にかかる前、犬見は村雲を二歩引きずり込んだ。その二歩が、加々見の扱う毒の範疇を分かつ境界だということになる。ならば、大きく逃げ出せば毒牙から逃れられる。
 息を止めるのも限界だというところまできて、村雲は息を吐き、吸う前に大きく飛んだ。その時、真横に立っていた油断だらけの加々見の鬼面を割ることを忘れなかった。
 外の空気が驚くほど旨い。かえってクラクラするぐらいだ。
 振り返ると鬼面を外された加々見が、自分の毒牙にかかって砂利の上でもがいている。
 一人は打ち破った。しかし、庵の様子がどうなっているのかは見えない。降り注ぐ豪雨を見る限り、まだ犬見は庵に入ることができずにいるらしい。
 村雲はどう出るべきか迷いながら庵に近づいた。すると、間抜けにも犬見の姿がぼんやりと透けて見えてきた。誰にあつらえてもらった札かは知らないが、ごく一時の効力しか持たないらしい。
 犬見もそれを自覚していたようで、近づいてきた村雲を視界に認めると、一気にこちらへ間を詰めてきた。先ほどの抜いた刀身が二人の手に握られている。
 横に薙いできた犬見の一太刀目を、村雲が刃を立ててしのぐ。
 力ならば負けまい、と鍔迫り合いに押し込もうとするも、犬見が刃を返していなした。どうやら力勝負は嫌いらしい。そのまま距離を置くものかと思ったが、村雲の顔面に飛んできたのは見事としか言いようのない蹴りだった。
 口角と鼻から血を垂らし、後じさりながら村雲は体感した。
 明らかに犬見は剣客の体さばきではなかった。もっとも、姫守も鬼手も剣士とは限らない。意表を突かれたわけではあるが、剣士でないならばないなりの戦い方がある。
 村雲は地の構え(下段)に移った。刃を下に向けることで、犬見の足を押し込むことができる。
 視界の隅では加々見がぐったりしている。村雲が犬見の面を割れば、勝負が決まるという大勢は簡単には覆されないはずだ。
 しかし、今日の鬼手はそれほど簡単ではなかった。
 目の前に立つ犬見の体から、桜の花がどんどん芽吹き、あっという間に花弁の塊になっていく。
 今度はなんだ、とうんざりしたところで桜花が乱れ散って、村雲の周囲は鮮やかに彩られた。ご丁寧に香まで付いている。むしろ、その香りこそが幻術の正体なのかもしれない。加々見は念入りに犬見の体にも仕掛けていたわけだ。
 視覚と嗅覚は遮られた。触覚が金属を、あるいは味覚が血の味を知るころには手遅れだ。
 紛い物の桜吹雪から、花弁と大気が擦れあう音は聞こえない。耳だけは現実のものだ。残された聴覚を最大限に生かすしかない。
 その時、左の鼓膜が玉砂利の弾ける音を聞き取った。
 上か――。
 村雲は腰を捻りながら身をかがめ、稲を刈るようにして刀の峰で後ろを払う。
 すると、確たる手ごたえと同時に小さな呻き声が聞こえた。
 視界が花見から解放されると、怪我を負った犬見の足が逃げようとしているのが見えた。村雲は右手でその足を掴むと、砂利の上の戦いに持ち込んだ。互いに二度三度拳を叩きつけあった後、首の付け根に刃を押し付けたのは、村雲のほうだった。
「ご苦労さん」
 村雲は鬼面の紐を断ち切って、勝敗を決した。
 犬見は肺が丸ごと出てきそうぐらいに息を切らしている。呼気の差はそのまま二人の齢の差だった。
「齢にはかなわん」
 ようやく呼気が落ち着いたところで、犬見は得物を手から放した。
 村雲は緊張を解くように頭をぐるりと回し、刀を納めた。穏やかに晴天を仰ぐことができたのは、今日になって初めてのことだ。
 村雲の後ろで湖袖は安堵の息を吐いた。額には雨粒に混じって汗がにじんでいる。
 村雲は知らない。その汗の理由を。刃を村雲の脳天に向けて振り下ろそうという寸でのところで、犬見の目に水滴が入ったことを。それに驚いた犬見が一瞬の隙をさらしたことを。
 その事実は、犬見と湖袖だけが知っている。
 湖袖の額で日光を跳ね返す細かい汗は、つややかな前髪の分け目を整えた巫女の小指にひとつ残らず吸われていった。

続く