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神代の子 ―鬼―

八.

 不次に戒羅の恐怖を見せた翌々日、村雲は例によって雨の座禅の最中に伊丹老人に話しかけられていた。
「で、その後どうじゃ?」
 伊丹が部屋の隅に置かれている蝋燭に火をともしながら聞く。今日の雨は障子を閉めても音が漏れるほどに粒が大きく、雲の層も厚いようで、昼過ぎにもかかわらず日没後のように薄暗い。
 不次を引き取ってから会うたびにその言葉を聞かされて、うっとうしくもなってきた。新入りの手配を担う老人にとって、色々気になるところも多いに違いないが、度というものがある。
「不次のここにある問題は解決したかの?」
 伊丹が心臓近くを叩いた。
「……あまり変わっていない。むしろ俺がそれに慣れてきた」
「ほほ、お主がか。じゃが、やる気があるに越したことはないじゃろう?」
「確かに、壬生の試合を見せても変わらなかったのは褒めてやるべきだろう」
 さすがにあの直後の不次の様子はおかしかった。夕餉はほとんど食べず、あまり喋ることもなくさっさと寝てしまったところを見ると、少なからず衝撃を受けたのだろう。しかし翌日には、すべて今朝の夢だったかのように元に戻っていた、……ように振る舞っていただけかもしれない。いずれにしても心を入れ替えたようには見えなかった。
 村雲がそう思い返しながら伊丹を見やると、隣に座った老人の表情があからさまに曇っていた。今日の空よりもドンヨリとしている。
「いきなり壬生の試合を見せるとは、お主何を考えておる」
 曇りは雷を秘めていた。
「いやなに。戒羅の怖い部分の一つぐらい見せておかないとな。後で知ったら可哀そうだろう」
 久しぶりにみる伊丹の怒り顔に、村雲は肩をすくめる。
「ふん。知ったところで不次が怖気づくとは思わんがの」
 声こそ抑え目だが、眉間に寄ったしわの深さたるは尋常でない。芝居ががって滑稽でさえある。
「……ずいぶん不次を買ってるんだな、爺さん」
「儂が目を付けた男じゃ。お前さんがどう思うかは知らんが、儂は立派な姫守に成れると確信しておるわい」
 唾と一緒に老人の口から出てきた言葉に、村雲は苛立った。
 そうまでいうなら伊丹が不次を育てたらいい。人に任せたのなら黙って見ていてほしいものだ。そう言いたくもあったが、老人の気持ちも理解できないでもない。老夫婦が息子夫婦の子育てに口をはさむようなものだ。黙れと言うのも難しい。
 こうした場合は従順なふりをするのが一番楽だ。不次が村雲に対してそうするように。ただ、文句はともかく、風の強い日の霧雨のように降りかかってくる伊丹の唾には耐えられない。これなら外の雨に濡れたほうがよっぽどましだ。
 村雲が席を外そうとすると、伊丹が慌てて言った。
「ああ、待て。不次の試合が十日後に決まったそうじゃ」
「爺さん。それを先に言わないか」
 唾よりも大事な要件だ。
 村雲が受けた様に、通例ならば戦い手に試合が通達されるのは戒羅の二、三日前になる。この通例に当てはまらないのが、新入りである。彼らはたいてい十日ほど前に知らされるもので、戦う相手もそれから数日のうちに知らされることになっていた。これは少しでも新入りが有利になるようにという戒羅の規則だった。そのように櫓に申し出たというのが、伊丹の自慢話のひとつでもある。
「姫守は誰が? 鬼は不次だけか?」
 新入りは鬼手と決まっていて、贄姫も、初心者の戒羅に神代が出張ることがないために、どこぞの偽姫が務めることが分かりきっている。重要なのは誰と組んで誰と戦うのか、ということだ。
「それはまだじゃ」
 老人はまたも村雲の肩を使って立ち上がると、「不次をよろしく頼むぞ」と言って出て行った。
 村雲は袖で顔を拭い、そのままもうしばらく座禅を組んだ後、料理屋を出た。さすがに今日のどしゃぶりを全身で浴びるわけにはいかず、傘を指してねぐらを目指す。
 激しく傘にぶつかっていく雨音を聞きながら考えたのは、試合の日が決まったことを告げた時に不次がどう反応をしめすか、だった。切り詰めれば、喜々とするか否かだ。
 ところが家に戻ると不次は不在だった。
 昨日のまでの雨は書物を読んでやりすごしていたというのに、こんな雨の中を脚でも鍛えに行ったのだろうか。ということは、村雲が渡した戒羅に関わる書物には全て目を通したのだろう。確かに、毎晩遅くまで蝋燭に灯をともしていた。その勤勉さを手放しで褒めてやりたくもあったが、村雲はまだそうしていない。
 不次が帰ってきたのは村雲が戻ってから四半刻ほど経った頃だった。
「おう。やっと戻ったか」
 真っ先に試合のことを伝えようとした村雲の鼻の前を御香の匂いが通り過ぎた。
 あまりに一瞬のことだったために気のせいかと思ったが、この大雨の日に白粉の匂いを嗅ぎ間違えるほど、村雲の鼻は馬鹿ではない。不次に悟られないようにもう一度鼻を利かせてみるとやはり僅かではあるが匂う。
 御香を炊く習慣があるのは貴族と女だけだ。
 村雲の知る限り、そしてそのどちらも不次の知り合いにはいない。そのはずだ。
 もっとも、不次が女目当てでこの集落に来たのだとしたら、話は別だ。それが本当なら、これまでの態度にも納得ができる。この集落で個人としての存在を示すには、戒羅で勝ち上がっていくことしかないのだから、戦うことに気がはやるのも無理はないということだ。
 女か。そういうことなのか? 不次やい。
 戒羅への意義に重きを置く村雲には楽しくないことのはずだが、何故か村雲はにやけた。
「なにか?」
「いや、なんでもない」
 匂いは捕まえたが、不次は見逃してやることにした。
 内裏でやたらと厠にいくのも、女に会うためだったのか、と村雲は隠れて笑った。それにしても、こんな大雨の日に目を盗んで密会に行くとは大それた行動だ。
 そんな一幕があって、試合のことを不次に伝えたのは、三度の料理屋で夕餉を囲ってからだった。
「そうですか」
 不次の反応は村雲の期待よりも大人しかった。待ち望んでいた試合の日が決まったのだから、もう少しぐらい喜んでもよさそうなものだ。不次はまだ、村雲に対して感情を隠すことに徹しているみたいだった。不次が村雲の所へ来てから二十日近く経つというのに、二十歳前の青年の心と肌を合わせるには時が足りていないようだ。それでも、気が付けば、不次が来てからもう二十日近くも立っている。
 村雲はふと思い出した。
 不次はもう、ひと月の三分の二も村雲の所に居候になっている。伊丹の言っていた住居の手配とやらは、一体どうなったのだろう。
 村雲が不次をあちこちに連れまわしていることもあるが、伊丹老人が不次と話している姿を見たことはない。もしかすると、伊丹の方で家の手配が上手く運ばず、不次から直接聞かれることを避けているのかもしれない。
 次に会ったら問いただしてみるか――。
「いつになったら……」
 そんなことを考えていると、不次が言い出した。
 こんな時に意思が通じたのかと思いきや、話は住居のことではなかった。
「いつになったら、稽古をつけていただけるのでしょうか?」
 実のところ、まだ不次との実戦練習をしていなかった。体の基礎を作ることに専念させていたためである。
 いつから実戦に取り掛かってくれるのか。不次にとっては家が決まるよりも大切なことだ。
「じゃ。明日からにしよう」
 あっけらかんと村雲が言うと、不次は箸から里芋を落として驚いた。
「……晴れますかね」
 驚きが勝ったようで、雨の中を走ってきた男が妙なことを言う。
「雨でもやるんだよ」
 大安なら吹雪でも行われるのが戒羅だ。悪天候をどう味方につけるかが一つの大きな分かれ目となる。先だっての村雲は梅雨晴れに恵まれたが、雨なら雨の戒羅があるということだ。
「そうだ。お前、得物は?」
 不次はしばらく考えた。武道の覚えはないということだろうか。
「鍬か、鋤です」
「……元は農民か?」
「はい」
 拍子抜けのする答えに、今度は村雲が芋を落とした。
 さんざん試合を急いていたのは自信の裏返しだと思っていたが、まったくの未経験だったとは驚きをはるかに飛び越える。今まで散々、よく勇んでものだと褒めてやったほうがいいぐらいだ。
 村雲は一時絶句し、それからタガが外れて苦笑した。鍬か鋤とは、似たようなことを言った奴がいたものだ。それはまさしく、禄がそう答えたのだった。
「じゃあ、太刀だな」
 鍬は力一杯に振り下ろして、引き上げるものだ。その動きは槍にはなく、形は薙刀が近いかもしれないが、薙刀は扱いが難しい。太刀ならば、力の使い方も足の使い方も活かすことができる。もともと、そのつもりで伊丹は刀使いの村雲の元に不次をよこしたはずだ。
 しかし……。
 大人しく食を進めながら、村雲は徐々に焦りを募らせた。
 勇むからには心得があると思い込んでいたせいで、二十日もの間、不次を育てるのを半ば放置していた。日取りが決まった後に実戦に備えた鍛錬をしても、十日あれば初戦を切り抜けるぐらいには十分だと思っていたのだ。
 しかし、ずぶの素人となると、たったの十日で刀の振り方を叩き込まなければならない。
 不次を従えて家路につきながら、村雲は後悔した。
 姫守が勝たねば盛り上がらない戒羅である。鬼手として参加する新入りが、初戦で勝つ可能性はもともと低い。大事なのは、少ない手傷で生き残ることだ。
 受け方と避け方に絞れば、十日で足りるだろうか……。いや、険しい。そう考えながら屋敷の戸を開けた村雲は、草鞋も整えずに押入れまで突き進んで、奥から一太刀を取り出した。
 村雲が差し出した朱塗りの鞘に納められた一振りを、不次はしっかりと両手に掴んだ。
「二尺二寸(約六十六センチ)、隠岐尚正だ。軽いが少し脆い。丁重にな」
 村雲が言い終えると、不次が深々と頭を垂れた。
「頂戴します」
「分かっていると思うが、集落で抜いていいのは祭儀場だけだ。戒羅以外で刃傷沙汰を起こせば、戦い手は失格になる。
 俺ら戦い手も戒羅の一部であり、儀を通じて神仏に身を捧げていること。忘れるなよ」
 村雲はもう一度不次が頭を下げるのを見届けてから、刀を手放した。
 不次は刀を抜こうとはしなかった。抜かずに目を細めて、じっと見つめた。
 その間に何を思ったのか、村雲には分からない。分からないが、期待してもよさそうな、そんな気がした。

続く