web clap

神代の子 ―鬼―

十四.

「どうなった?」
「間に合ったはずだ」
 額の汗をぬぐいながら糸蘇が言った。
 間に合ったということは、壬生にとどめを刺される直前に、不次はひと時だけ不死身の体を手に入れたということだ。
「しかし、起きないぞ?」
 不次は砂利の上に寝転んだままだ。
「すぐには無理だ。深手を負ったという衝撃がある。本当に効果があったかは近づいて確かめてみなければわからない」
 村雲は糸蘇の目を直視した。糸蘇は「我慢しろ」というように村雲を見返してくる。
 張り番は起き上がらない不次の様子から決着がついた見たらしく、四方に張り巡らされていた結界が解かれた。
「私はここまでだ」
 糸蘇がそう言って立ち上がった。静かに周囲を確かめている。遠くで朽果が暴れているおかげで、誰もこちらには気づいていないようだ。
「爺さんも行った方が良い」
 朽果と伊丹の今後のことを考えると、このまま行方を眩ますわけにはいかない。大人しく元の鞘に納めておけば、罰は受けてもそれ以上は傷つかずに済む。
「そのようじゃな」
 伊丹は折れた小太刀を村雲に返しながら、そうつぶやいた。
 村雲は二人と別れ、不次のもとに走り寄った。
 いつもなら、戒羅の役を持たない者が祭儀場に立ち入るのは、即座に張り番に制止される行為ではあるが、不次に縁がある者という名目が助けになって、村雲を遮る者はいなかった。
 近づいてみると血が匂っていた。人の体のどこに、これほどの血が潜んでいるのだろう。不次の躰を包む鮮血を見つめながら、村雲は思った。
 不次は横たえているというより、置かれた肉塊のように見える。左腕は損失したままだ。腕を落とされた後に不死身の術を受けたのだから、左腕はずっとこのままだろう。どのみち、戦い手としては生活していけまい。
 しかし、はたから見ていた限りでは、左腕以外に目立った傷はない。倒れる瞬間に裂かれたはずの腹もきちんとつながっている。これこそが糸蘇の力が働いた証拠だろう。
 ただ、体を抱き起しても不次は唸りさえしなかった。口元に耳を近づけても呼吸の音はしないし、心音もはっきりとは聞こえてこない。
 揺すり起こそうとして、村雲はその手を止めた。
 糸蘇の力が届いたとして、今目覚めては都合が悪い。この場で目覚められては、これまでに関わった者たち所業が暴かれて咎められることになる。さらに不次はまたこの場に引きづり出されてしまうに違いない。
 このまま亡骸として引き取った後で人知れず目覚めれば、事が露見せずに済む。生きているのか分からなくても、どうにかここを切り抜ける必要があるのだ。
 不次が死んだことにして、嘘くさいほどに動揺した芝居を見せていると、村雲の背後からうめき声が聞こえてきた。
 目を忍ばせると、そこでは壬生がもんどりうって、もがいている。地面を掻く両手は空だ。禍差を手放した途端に毒が効いて来たらしい。今さらだが、いい気味だった。
 そのみじめな壬生を冷静に観察している女がいる。浦春だった。薬術をかじった浦春なら、毒の中和も知っていることだろう。しかし、どうやらあまり興味はなさそうで、冷やかな視線はすぐにこちらに飛んできた。
 村雲はすぐに目をそむけた。そのせいで、余計に怪しく映ったのだろう。浦春は下賤者を追い詰めるべく近寄ってきた。
「何をしてござりましょう?」
 初めて聞いた浦春の言葉は、柔らかな丸みを帯びた公家言葉だった。
 村雲は意外に思った。
 はたから見ていた印象とは全く別だ。時の経過を忘れさせるほど麗らかに、言葉の余韻が響き渡っている。ここに来るまでの差し込むように尖った足取りがまるで幻だったかのようだ。
 いや、立ち振る舞いに騙されてはいけない。目の前にいる女は春に乱れる嵐だ。色欲にまかせて若者を誘い、揚句に殺した悪女だ。目元に宿る涼しさは狐のそれと同じではないか。
 村雲は不次を寝かせ、隠すようにして浦春の前に立った。
「弟子の死を悼んでおりましたところにございます」
 言葉だけでも釣り合うように、静かに答える。
 女狐の目はゆっくりと村雲を見下ろし、ついでに不次を見て、また村雲に目を合わせた。
 そこで妙な間が空いた。
 言い詰まった顔をした後で、浦春がわずかにかぶりを振った。そしてまたチラリと村雲を見て、今度は急に目を見開いた。
 なにがしたいのだと思った時、村雲の背筋をぞわりと何かが這った。そのこと、浦春が眉一つ動かさずに驚愕していることは決して無関係ではなかった。ゆらゆらと湯気のようで、しかしはっきりとした殺気が村雲の背後で沸き立っている。
 振り返ったその視線の先に不次が立っていた。
 壬生の兇刃に倒れた人間が糸蘇の力で立ち上がるのは何度も目にしたことがある。しかし、先日の白露でさえ、戸板に乗せられて運ばれていったのだ。今の不次のように剣幕をともなって立ち上がった者はいない。
 修羅のごとき不次の右手には、深紅に染まった鈍色の二尺二寸がいる。
 まずいと思うより先に村雲は二人の間に体を挟もうと動いた。
 たったの一歩だった。一歩を踏むだけで、無用な殺生をさせずに済んだのだ。
 しかし、無様にも村雲の腰は引けていた。踏み出した一歩は間に合わず、緋色の隠岐尚正は彼の抱くすべての憎悪を乗せて浦春に浴びせられた。
 ほとばしる鮮血が霧雨に混じり、赤い薄布が風に舞いあがるような情景の中、血の気を失っていく浦春の顔が見える。若い女の垂(しだ)れ髪は柳が切り倒されるようにして離れ離れに舞い、その黒髪に見え隠れする浦春の目は見開かれたままだった。
 不思議にもゆっくりと流れる情景の中で、村雲は浦春の茶色い眼が渦のように揺らいで、漆黒に変っていくのを見た。
 あまりに一瞬のことだったので、気のせいだったのかもしれない。少なからず動転していたこともある。けれども、その黒は魂を吸い込むような深さで、村雲は心を力一杯に絞られた気がした。
 浦春は玉砂利の上に伏して、わずかな間だけ息があった。仇の返り血を浴びてさらに赤黒くつやめく不次を見上げ、最期に何か一言だけ呟いて死んだ。
 村雲は、手の届くところで起こった姫守が法家の息女を殺すという一大事を、ただ眺めることしかできなかった。
 
「話すことは何もない」
 浦春が殺された一件について張り番の調べを受けた時、村雲はそう答えた。
 浦春が崩れ落ちた後、不次は姿を消した。不次を振り返った時には、もういなかったのだ。異変に気づいて張り番が近づいてきた時に祭事場にいたのは、立ち尽くす村雲と毒で痙攣する壬生だけだった。
 そのせいで真っ先に村雲が疑われた。不次の師という立場からしても十分な疑惑がある。しかし、あるのはそれだけだ。村雲が腰に帯びていた刀には血が付いておらず、他に確たる証拠もない。そうして、すぐに釈放されたものの、張り番としてはそれで法家を納得させることができなかったのだろう。他に疑われる人物も挙がらなかったために、村雲はもう一度聴収を受けることになった。
 とはいえ、一度ふたを開けて空だと確認した箱をもう一度改めたところで、中身が入っているはずもない。わざわざ屋敷にまで訪いを入れてきた張り番は何も得るところなく引き上げていった。それがつい先ほどのことだ。
 本来なら二度の聴収はどちらも村雲が櫓に出向くところだ。そうせずに張り番が出向いてきたのは訳があってのことだった。何を隠そう、村雲はこの三日、腹を下して寝入っている。痺れを切らせた張り番が門戸を叩いてきたのだった。
 胃腸が流れ出しそうな激しい腹痛を医者に診せると、その医者は“暑気中り”だと言った。長かった梅雨の雨が切れ目を迎え、急に熱暑を迎えたせいで体がついて行かなくなったのだ、と。
 言われながらに村雲は「惜しいな」と思った。
 実は腹痛の原因を自分で心得ている。これは間違いなく“食中り”なのだ。それだけに惜しいと思う。たった一文字の違いが、その医者の評価をやぶに落としてしまったわけだ。
 もっとも医者がその微妙な違いを見抜けないのはごく当たり前のことだ。
 集落にいる数人ほどの医者たちは全員が法家が認定されているだけに、やぶ医者というのはあまり聞かない。しかし、どの医者も専らなのは外科である。戦い手の手傷を縫うために諸方からお呼ばれした者が多いからだ。そのため、五臓六腑に支障を訴えても正しく薬を処方してくれる者は少ない。そもそも体の健常でない者がこの集落にいても居場所がないのだから、櫓がそうした医者をかかえる理由はほとんどないのだ。村雲が呼んだ医者も例にもれず、首を傾げながら診察をしたものだった。
 診察の終わりに、その医者は村雲の腹に妙な紋様を書いた。曰く、村雲の腹に取りついた小鬼がこれ以上の悪さをしないように封じ込めるのだという。「陰陽師じゃあるまいし」と村雲は罵ったが、無駄だった。
 書かれた後でしげしげと見たが、仮名漢字ではなかった。文字らしく見えるが見たこともない字だ。いや、見覚えはある。似たような形の紋様が湖袖の着ていた衣に刺繍されていたのを見たことがある。
 湖袖ならこの奇妙な字面を知っていようかと思ったが、見せる気にはなれない。医者に書かれた時に、こそばゆくなって身をよじったせいで、妙な文様から妙な線が飛び出してもいる。書かれてから三日を経た今では、その突出した線と一部の紋様だけが残って腹芸の顔を雑にあつらえた具合になり、なおのこと人に晒せるものではなくなっていた。
 張り番を帰してから独りその腹を見ていると、腹の顔が「ぐう」と言った。どうやら三日分の食い物を受け付けるゆとりができたようだ。ちょうど昼前でもある。村雲は汗臭くなった着物を着換えて家を出た。
 戸をあけて初めて雨が降っていることに気が付いた。
 梅雨が終わったばかりだと思っていたのに、どうやら戻ってきたらしい。たった三日の家出とは、反抗期の子供にも劣る。
 梅雨でもこんなにあっさり戻るのなら、不次も戻ってくればいい。村雲が貸した部屋に几帳面に置かれたままの不次の荷物を眺めながらそう考え、すぐに改めた。
 ついさっき張り番が調べに出向いて来たばかりだ。法家は、集落の外にまで張り番をやっているはずだ。例え国を跨ぐことになっても、手段が考えられる限りは不次を追い詰めていくに違いない。村雲の目の前で起こったことが、法家の息女が死んだという大事変であることを忘れてはならない。この集落に居場所がないことぐらい、不次も察しているだろう。
 いつもの料理屋に入って飯を食い、食後の座禅を始めても、ずっとそのようなことを考えていた。もはや座禅とは名ばかりだった。それを分かりながら、村雲は目を閉じて思いにふけった。
 村雲の座禅ならぬ黙想を止めたのは、ひょっこり顔を出した伊丹だった。そして、その伊丹の口から意外なことが知らされた。
 法家は不次に追っ手を仕向けなかったというのだ。不次の残した左腕を不次の死んだ証拠として扱い、事態を収める向きにあるらしい。
「そりゃ嘘だろう。爺さん。ついさっき、俺のところに張り番が来たばっかりだぜ」
「それは妙な働きをする者がいないか、目を配っておるだけじゃろう。法家はもう、事をしまい込みたいようじゃ」
 確かに張り番は村雲にきつく尋問しなかった。話すことがないと言うと、ため息ひとつをついただけで静かに帰っていった。伊丹の言葉が正しいなら、あれもため息ではなく安堵の息だったかもしれない。あの時は横になったままで、張り番の顔は見なかったから、どちらとも取れる。つまるところ先の張り番は、もう一度箱の中身を確かめに来たのではなく、錠前を下ろしに来た、ということだ。
 村雲を二度訪ねて、二度とも答えが変わらなかったから、村雲の気持ちに揺らぎがないと分かり、引き下がっていったのだ。
 村雲はそれに気づいて拍子抜けした。

続く