web clap

神代の子 ―守―

四.

 錆丸が物音に覚醒したのは、だいぶ時が過ぎてのことだった。晩秋の陽が斜めに走り出そうという頃合いだ。物音とは、文継が分厚い書物の柱を崩した時のものだ。起きて気が付いたが、錆丸の腹が減っている。どうやら昼餉の時刻は過ぎているようだ。ということは、文継は飯を抜いたのだろう。半ば眠っていたにしても、陶器の音がしていたら目を覚ましているだろうし、書蔵を出たことに気付かないほど愚鈍ではない。文継は今も眼下に座ったままで、あたりには食った後もなかった。飯も食わずに読み続けていたというなら、手を滑らせて柱を崩すこともある。
 文継はまさしくその状況に置かれているように見えたが、書柱とともに崩れたまま起き上がらないかった。空腹で力尽きたにしては、いささか大げさだ。
「うう」
 文継が呻いた。錆丸の耳にははっきり聞こえたが、か細い声が扉の外にいる武官にまで届いたかどうかは怪しい。
「たけなり……」
 武官の名だ。文継が助けを求めている。
 事態を観察しているうちに、錆丸はあることに気が付いた。文継の周囲に散乱する書物に血のような跡があるのだ。知る限りで、文継に血を垂らすような怪我はない。ということは、たった今喀血したということだ。
 血を吐くほどに内臓を悪くして、生き延びた人を錆丸は知らない。不憫な、とすぐにそう思った。同時に好都合でもある。死病を患ったというならば、暗殺する必要がなくなったわけだ。すなわち、主の愛する人を殺すという後ろめたい命令に従わずに済む。
 錆丸はすぐに頭を振った。苦しむ人を眼の前にして、冷徹な考えを浮かべた己が怖くなった。
 文継がもう一度声を振り絞ると、ようやく扉が開いて武官が大股で歩み寄り、すぐに書蔵を飛び出していった。
 書蔵の前の廊下を、バタバタと駆けまわる音が続く。その間も床を這ったままの文継は、どんどん息が荒げていく。錆丸はその様を静かに観察し続けた。
 いつから病魔に侵されていたのかは分からない。屋敷で文継を見ている限り、そのような変化は見られなかった。しかし、文継の様子を見るかぎり、少なくともここ数日の間に始まったことではないように見える。もし、武官が一人減った理由が文継の病気にあるのだとしたら、もう二月近くも経過していることになるだろう。波織の間では取り乱すことすらない文継が、御所ではこのような日々を繰り返していたのかと思うと、その健気さがますます不憫に思えた。
 少し経って、書蔵の外から数人の声が聞こえてきた。五感に鋭い錆丸でさえ、所々しか聞き取れない小さな囁き声で、これでは文継の耳にはまったく入ってこないだろう。よくよく聞き取ると、外の男たちはこの事態を恐ろしいことだと語り合っている。
 十分な人数が外にいるだろうに、一人も書蔵に入ってこないことに錆丸は苛立った。タケナリと下の名前を呼ばれた武官さえ、だ。
 錆丸は梁を伝って扉の真上まで移動した。すると経が聞こえてきた。ごく小さな声の読経だった。壁板の節から覗きこむと、数人の祈祷師が祓串を持って立っているのが見える。まるで傀儡を箱に閉じ込めるかのような有様だった。どうやら、伝染を恐れて見殺すつもりらしい。例の武官は、数人の武官に抑え込まれて泣いている。くしゃくしゃになった大男の泣き顔を見て、錆丸の胸がずきりと痛んだ。
 再び書蔵を覗きこめば、書物の上に転がる文継は手を震わせながら卓上に置かれた紙切り刀に手を伸ばしている。命ともに苦しみを絶とうというのだ。しかし、紙切り刀は刀とはいっても、人の躰に突き刺すには細く、命が果てるより先に刃折れてしまう代物だ。それでも、一つの救済に見えるのだろう。思い通りに定まらない自身の腕を懸命に伸ばし続けた文継は、やがて力を失った仰向けに転げた。
 ついに見ていられなくなった錆丸は、大きく息を吸って口あてに顔を埋め、音もなく下に降りた。
 崩れた書棚を見やると、落ちているのは疫病について書かれた書物から、薬術に関するものまで、多様だが病に共通していた。文継が必死になって探していたのは、病の治療法だったのだ。
 文継は荒く息を吐いている。一目して、助かりそうもないことが分かった。きつく閉ざした眼の奥で何を見ているのか。それは悪夢以上の苦しい現実にちがいない。
 静かに近づくと、喘いでいた文継の吐息が急に途絶えた。絶命したようで、口元に手を当てると、かすかに対流がある。苦痛に耐えきれずに気を失ったようだ。
 錆丸は顔を近づけて症状を観察した。驚くほど白い顔色に加え、はだけた着物から覗ける体は人間とは思えない怪しげな凹凸にまみれて、赤黒く変色している。過去に焼死体を見たことがあるが、それに似ていた。文継の前を汚した血は、赤と言うより黒だ。
 数日の命だろうと診てとれる。果たしてとどめを刺すべきか。
 錆丸の心は三度揺れた。文継を殺せという与えられた使命は、数日待つだけで自然と果される。文継がこのまま放置されれば、衰弱して明日にも息絶えているかもしれない。廊下から書斎に響いている経文が今は無意味でも、そのうち本当の意味を持つことになる。
 果たして、それで良いものか。錆丸は考えた。錆丸の懐には、一時しか効果がないが、気付けになる秘薬が忍ばせてある。瀕死の文継が再び立ち上がろうものなら、文継を見殺しにしようとしている廊下の愚者どもは、仰天するに違いない。しかし、ひとしきり驚いた後に平伏することはないだろう。祈りをのせた経文が天に通じたのだと、偉そうに語るに決まっている。実際に彼らはそれ信じて、今そうしているかもしれない。連中はどうであれ、間違いなく波織と武官は涙を流して喜ぶ。下津留の国が望んでいる文継の死が数日以内にやってくると保証された今、成仏できる死に方を迎えさせてやることは罪ではないはずだ。それに、屋敷に残された波織にとっては、とどめを刺すよりもその方が良い。
 錆丸は懐から乾いた笹の葉の包みを取り出した。包みの中に入っている木の実は、乾燥後に種子を取り除いたもので、中身は薬草と漢方の練り物になっている。門外不出の煎じ方で作られる丸薬は、廃れ者の中でも影人だけに渡されるもので、本来は主の危機を救うためのものだ。それを主以外の人間に投じるのは後ろめたいところもあるが、丸薬は頭領に申し出れば都合してもらえる。
 殻を割って丸薬を取り出すと強烈なにおいが漂った。口布のおかげで直接嗅がずに済むとはいえ、それでも眼が潤う。胃の腑に落ちれば一気に鼻の奥から脳髄に響く悪臭だ。それが気付け薬の正体でもある。投じてどれほどで効き目が出るものか。また、効く時には病状よりも苦しいものか。その程は知らない。
 秘薬を文継に飲ませると、薬が咽喉を通る音がした後、うぐ、と文継が喘ぎ、すぐにむせた。次いで目を開けようとしたが、口ばかりが不器用に開き、途中で諦めたようだった。
「……そちは――」
 誰か、と訊きたいらしい。所縁の者が助けに来ないことは、文継も悟っているのだ。
 その問いに答えるつもりはなかった。ややこしい事情をここに持ち込むべきではないのだ。それを悟って、錆丸は既に梁の上に戻っている。誰もいないと気付けば、すぐに口を紡ぐことだろう。
 しかし、目の開けられない文継は続けて言った。
「錆丸か?」
 当て布の下にある錆丸の顔が凍った。己の名前がなぜ知られているかとは、考えるに及ばなかった。錆丸の名が文継に伝わる口は一つしかない。
 錆丸は失望した。口止めを願ったというのに、波織は我慢ならなかったというわけだ。
 残念ではあったが、正体を知られていながらも外に漏れていないというのは、幸いともいえる。現に、身近にいた武官たちでさえ、錆丸の気配には気づいていなかったのだ。波織が信じたとおり、文継の口は信用に足る堅さだったのだろう。ただし、文継の口が今後も閉ざされたままだという保証はない。文継はつい先ほど三途の川べりに立って、戻ってきた。一度死に瀕した人間はできる限りのものを現世において行こうとする。くだらない過去の自慢から、口にしてはならない禁忌に至る全ての物事を、己が生きた証として残そうとする。錆丸が与えた数日がどのように作用するか。それを考えると背筋が冷たくなった。
 文継の手が何かを掴もうと空を漂っている。錆丸という名の雲を掴もうとしているようだ。少しの間様子をうかがった後で、錆丸は意を決して下に降りた。今度も打算ではなく、憐みが起こさせた行動だった。
 錆丸が文継の近くにしゃがみ込むと、文継はようやく薄らと目を開いた。
「そちが……」
「錆丸にござります」
 文継の表情が歪む。奇形だが笑みだった。
「そうか。やはり、波織の言葉は、本当、であったか」
 錆止は表情を殺し、極力無言を貫くことにした。
「そちとは、一度、話をしてみたかった」
「……」
「願わくば、面と向かってであったが、やむを得まい」
 口調からは何かについて話したいのではなく、ただ会ってみたいという意味に感じ取れた。
「私は、もう、長くないらしい」
 独白が続く。
「字川の東に、貧困にあえぐ、村がある。そこを、視察に行ったのが、三月の昔、であった。その時、村は、疫病で死した――、民で溢れていた」
 文継はそこで、ご丁寧にすべての躯を弔ったらしい。そして、そこで疫病に侵されたのだ。
「愚かであった、と、そう、思うだろう?」
 ゆっくりと開いた文継の左目に見つめられて、錆丸は静かに答えた。
「……いえ」
 馬鹿なことをしたとは思うが、愚かだとは思えない。仮に仲間内が同じ行動に出たら、勇敢だと褒めるところだ。
「……なるほど。そちは、優しい」
 文継の顔が再び歪んだ。
「そちのおかげで、書の上ではなく、寝所で往くことが、できそうだ。しかし、もはや、波織には、会うまい」
「なぜにござりますか?」
「……疫病は、逝く時に、あたりへ死をまき散らす。そう、書にあった。波織を、巻き添えにするわけには、まいらぬ。ゆえに錆丸よ。このことを、波織に、伝えてはくれぬか」
「……御意に」
「それから、安心せよ。そちのことは、誰にも漏らしておらぬ。私と波織の、約束であったゆえ」
 そこまで言うと、文継はゆっくりと起き上がった。先ほどよりも血色がよくなっている。錆丸が施した秘薬が効いてきたということだ。
「そちとも、ここでお別れとなろう」
 書庫を出たところで、文継は軟禁されるに違いない。疫病にかかった者がふらふらと御所をうろついては、すべての者が不安がる。
 錆丸は頭を下げた。下げた頭のてっぺんに向かって、文継は一言、「波織を頼むぞ」と言った。

続く