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神代の子 ―守―

五.

 文継が書蔵を出ると、廊下は大騒ぎになった。祈祷師は蜂を追い払うかのように祓串を振り回して右往左往し、貴族たちは祈祷師の尻に引っ付いて転げまわっている。唯一救いとなるのは、タケナリと呼ばれた武官の存在だけだ。彼は泣きながら文継にしがみ付いていた。
 騒動を背に、錆丸はこっそりとそこを離れた。くせ者の存在に気が付くほど余裕のある人間は一人もおらず、誰にも気づかれなかった。
 晩秋の空は暗転が早い。御所を囲う塀を飛び越え、白樺の林を少し進んだところで腰を下ろすと、夕日は既に山を越えていて、辺りはもう暗くなっていた。
 辺りに誰もいないことを確かめて、錆丸はため息をついた。
 殺せという頭領の命に従わなくも同じ成果を得られるということは、正直に助かったところだが、その感情を抱くということは、迷いが消えていなかったことの裏返しでもある。その迷いが示す通りに、気を失った文継にとどめを刺すことが錆丸にはできなかった。活発な人間を殺すより、瀕死の人間を楽にしてやる方が迷わないはずなのに、それができなかったのだ。挙句に錆丸は、波織にとってより良いという理由を盾にして、有事のために持っていた秘薬までも渡してしまった。この状況を一言でいえば、廃れ者失格である。頭領が知ったら、厳罰では済まないかもしれない。
 しかし、どんなに憂いようと、事態はすでに決まっている。頭領には腹をくくって報告しなければならない。そのうえ、文継の顛末を波織に告げなければならない。どちらも気の重いことだ。
 錆丸はもう一度ため息をついて立ち上がった。
 立ち上がって、目指す屋敷の方を見て、目を剥いた。日が落ちたというのに、そこだけぼんやりと明るいのだ。そこに見えるのは、暖かな火の色ではなく、命を奪う火の色だ。それほどまでに大きな火になりうるのは、波織のいる屋敷を除いてほかにない。
 胸が騒ぐ前に、錆丸は駆け出していた。そしてすぐに予想が的中していたことを知った。火は土壁を焼き、屋根にのし上がろうとしている。あちこちで部屋の梁が崩落する様が見えた。
「波織様!」
 明るみに出てはならない影人であることを忘れて錆丸は叫んだ。が、返事は返ってこない。
 普通に考えれば、波織は火を逃れてどこかにいるはずだ。遅すぎる昼寝をしていたにしても、屋敷にいる側めや武官が火の手を察して外に連れ出すことだろう。しかし、その考えは捨てなければならなかった。すぐそこに転げている武官の死骸は、首と胴が一間以上も離れていた。なにがしかの襲撃を受けたのだ。
 燃え盛る屋敷を前に、進入路を探す。玄関は潰れてしまい、中に入るには他の入り口を探さねばならない。
 錆丸が足を止めたのは一瞬のことだった。その一瞬を捉えて、どこからともなく飛来した影が、錆丸の体をやぶの中に引きずり込んだ。
 錆丸は地面を転げるよりも早く刀を抜き取り、やぶの中で影に刃を立てると、刃は固い鱗のようなものに当たって滑った。その感触で、影の正体が誰だか分かった。
「御頭!」
 思わず声を上げた。
「騒ぐな、四ツ影」
「これは一体!」
「騒ぐなと言っておる!」
 頭領が錆丸の口をふさぐ。
 屋根の大崩落が起きて、錆丸は我に返った。
「ご説明を願えますか」
「分かっておる。そのために手前を待っておった」
 待っていたということは、火の出た頃、あるいは出る前から居たということだ。
「……では、この火は」
「儂ではない。波織様は連れ去られた」
 錆丸は仰天した。
「連れ去られたとは?」
「分家方にだ」
 妙だ、と錆丸は思った。
 本家と分家が津留領を上下に割ってから数十年。間に挟む喉仏山など遠く及ばないほど高い壁が、両家を隔ててきた。繋がる道をすべて潰して、境界に見張り小屋を建てるほどの徹底ぶりだったのだ。そんな状況にあって、泉家の血が途絶えるかもしれないという話が分家に流れたとは思えない。今の本家の騒動は、分家とは無縁のはずなのだ。
 思ったままを頭領に告げると、頭領はかぶりを振った。
「……残念ながら、分家に通じていたものが臣下の中にいたとしか考えられぬ。
 分家方が武力で攻め入ったならば、喉仏山を超えたところで大騒ぎがになる。字川にいても手前の耳に届くであろうし、儂もかような所には来れまい。
 それがなかったということは、調略されたということに他ならぬ。誰れの企みかは分からぬし、どういう根回しをしたのかも知らぬが、その不届きな者が十川京(じっせんきょう)に分家を招き入れた。ひょっとすると儂が下津留を離れている間を狙ったのやもしれぬ。
 儂は昼過ぎに鳩の伝書でそれを知り、波織様の身を危ぶんで国境(くにざかい)から飛んできたが、間に合わなんだ」
「しかし、御頭。波織様を連れ去るとは、分家方は一体何をお考えでしょう?」
「下津留の民を従わせるためだ。昨日申したとおり、波織様は泉家の再興に不可欠な最後のお一人。いわば下津留の象徴だ。その波織様が居れば、民の分家に対する態度が変わる。思うに波織様も最初から巻き込むつもりであったのだろう」
「つまり、波織様を人質にする、と」
「その通りだ」
 頭領の相槌を受けながらも、錆丸はやはり納得していなかった。
 分家が波織を必要とする理由は理解できる。しかし、このような行動に出れば、字川との関係が破たんしてしまうのも事実だ。字川は下津留にとってだけの隣人ではない。上津留にとっても国境を接している。ましてや、分家が下津留をも手中にしようというのなら、今のところ下津留と友好関係にある字川はますます無視できないはずだ。隣人との関係を破綻させないようにするため、文継の暗殺を企てていたという経緯もあって、錆丸の不満は募った。
「分家は、字川とのつながりをどのようにするつもりでしょう」
「……伝書によれば、やつらは字川のことを、考える至らぬ存在としているようだ」
 頭領は少しためらった後で続けた。
「字川は近くに滅ぶ。字川は都を除くすべての村と集落が疫病に侵されているらしいな。山に生える木々も細るだろう。民は困窮するだろうが、もはや戦を起こして略奪を企もうにも、血気ある若者が揃わん。
 それゆえ、屋敷が燃えて波織様が行方知れずとなっても、探索などに手をまわしている余裕はないであろう。最も心配するであろう文継殿さえ、病魔に侵されていると聞いている」
 そう言ってひと睨みした頭領に錆丸はぎくりとした。
「手前は文継殿の様子がおかしいと、何も気づかなんだか? 字川に蔓延しているという疫病の件を、耳にしてはおらなんだか?」
 自身で悔いていることだった。
 厠に行く頃合いすら熟知していたはずであったというのに、疫病の兆候に一つも気が付かなかったとは、間抜けであることこの上ない。それに加えて、いくら帝位継承権のない文継の嫁の従者だったにしても、字川の国情に耳を向けておくことはできたはずだ。それなのに、もっぱら下津留から頭領の口を介して疫病の蔓延を知るとは、なんとも情けのない事態だった。
「……失態であったと、思うております」
「ふむ。文継殿の病状については、分家の筋なんぞから聞かされとうはなかったが……、いまさら仕方あるまい。
 だが、しかし、だ――」
 万が一、波織様に疫病が移っていたら、手前はどう責任を果たす?
 その一言に錆丸は崖から突き落とされたような気分になった。
 頭領の言葉が現実となったことを考えると、まだ刃を立ててもいないのにキリリと胃の腑が痛んで、錆丸は頭を垂れた。
「字川の国情に通じていなかったことは目をつぶろう。もとより、手前は内偵ではないのだからな。だが、影人としては許されることではないぞ、四ツ影よ。波織様が病死なさったらどうする? それだけではない。目の前の火事場に、波織様がまだ取り残されていたらどうするつもりであったのだ」
 頭領の言葉には、なぜ持ち場を離れたのか、と問いかけるような余韻があった。顛末を正直に伝えるなら、文継を殺す機会を伺ってのことだと言うことになるが、頭領はそれを許さないだろう。屋敷で殺めればよいというそれだけの答えが、頭領の舌の上に用意されているのだ。すべては錆丸の文継に対する情けに隠された甘えが生んだことなのだ。
「面目次第もござりません」
 錆丸は詫びた。詫びて、その先の言葉に詰まった。
「もうよい。手間には、これより先の働きで示してもらわねばならん。
 波織様は南の野道を下津留に向かって運ばれている。手前の足ならすぐに追いつこう。とにかく分家の手の者から波織様を奪い返せ」
「御頭は如何に?」
「刺客を抑える」
「……分家方の忍びにございますか?」
「左様だ。奴らの手がここまで伸びてきたということは下津留は乗っ取られたと考えるべきだ。しかし、本家にはそれに抵抗する勢力もあるはず。特に、臣下とは無関係に泉本家のためだけに働く我らは、奴らにしてみれば大いに邪魔な存在だ。ゆえに我らを、先んじて抹殺するつもりだろう。
 手前は武に関して隙はないが、波織様に関することとなると、ないはずの隙が生じる。さっきも、屋敷ばかり気にかけて儂の気配に気づいていなかったろう。そして、屋敷が火に包まれているのを見れば、手前は必ず飛び込む。無傷では済まん。手負い、命からがらに脱出したところを狙っていることだろう」
 周囲を見回わす身振りを見せる頭領の前で、錆丸は昼間の視線を思い出していた。
 あの視線の主が、錆丸の様子を窺った後で屋敷を焼いたとしたら、間違いなくこの辺りに潜み、錆丸を殺すつもりでいるだろう。すでに、飛び道具の的をこちらに絞っているかもしれない。
 頭領に指摘されたとおり、錆丸はここに至るまで全くの無警戒だった。己の身よりも波織の身を案じた末のこととはいえ、それも手抜かりと言われれば違いはない。燃え盛る屋敷から立つ音がけたたましく、周囲にいるだろう人の気配を探ることができないのが、どうしようもなく焦れったく感じられる。
「ゆえに、手前は先に行け。手前が動けば刺客も動く。儂はそれを始末した後で追う」
「御意」
「首尾よく波織様を取り返すことができても、御所には行くな。既に分家の縁者が手を回していよう」
「では何処に」
「護分寺(ごぶんじ)に行け。廃れ者は皆そこに集うように手配してある。そこで儂を待て」
 錆丸は茂みの中から外を伺った。見渡せる限りでは、刺客の姿が見当たらなかった。
「錆丸」
 意を決して藪の外に飛び出そうというところを頭領が呼び止める。
「廃れ者は数おれど、波織様の影人は手前一人だ。しかと務めよ、四ツ影」
 御意に、という言葉を残して、錆丸は立ち上がった勢いのまま塀に上った。そして、下津留へと通じる漆黒の闇に飛び込んだ。

続く