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神代の子 ―守―

七.

 下津留の都、十川京(じっせんきょう)には二つの川が流れ込んでいる。一本は西の山からの流れで、もう一本は北の山からの流れである。北の山は一年中雪をかぶり、その解けた水が集まって流れ出ているために、常に冷たい。一方で、かつては山頂から火を噴いていたと云われる西山からの流れは、雪解けから降り積もるまでの間だけ、かすかな温もりを抱いている。
 北と西からの二筋の川は、不思議なことに交わることがない。互いに惹かれあいながらも結ばれることがなかった男女のように、触れ合うほどに近づいたあとで、それぞれ東と南に離別している。その二本の主流は交わらなくとも、そこから延びる産毛のような支流があり、数えるとちょうど八本になる。その地形から、二と八を合わせて十川京と呼ばれるに至ったらしい。もちろん、二つの川がもたらす肥沃な土地に人々の暮らしが根付いて集落ができたことが、名前の由来よりも先である。
 晩秋との初冬の気候が入り乱れるこの頃は北風が強く、十川京を染み入る寒さに浸からせてくれる時期である。ちょうどこの時期にだけ見ることができる下津留の朝の風物詩に“まとい霧”と呼ばれるものがあった。
 北から降りてくる寒気が西から南に流れる川に触れると、ほのかに暖かい水のせいで水面から霧が立ち、十川京の西から南の方角を覆う。北から東に流れる川の水は寒気よりも冷たいせいで、他の地域で霧が立たつことはない。この有様を南の山から見ると、十川京の西から南、つまり午から酉の方角が欠けて見えることから午酉(うまとり)霧と云われ、それが呼びやすく縮まったのが“まとい霧”である。
 その方角に丸々納まっている護分寺は、今まさしく霧を纏っていた。開け放った北側の板戸から吹き込む白が、錆丸の頬を掠めて綻丸の躰に降りて、そこに滞った。朝霧はそこで掻き消えも揺らぎもしない。綻丸の息吹はすでに止まっているのだ。
 臨終を知ったのは、ついさっきだった。知ってすぐ、綻丸の魂が天の国に導かれるように、と板戸を開けた。
 破丸は綻丸の横に丸まって、何度も「すまない」と謝っていた。綻丸がどのようにして傷を負ったのか。破丸はそれを教えてはくれなかったが、今の様を見る限り破丸を庇ったのだろう。破丸が一人前の廃れ者になったのは綻丸の指南によるものだと聞いている。それだけに、綻丸には破丸を庇う理由があった。
 それから半刻以上も破丸は動かなかったが、錆丸には声をかけられなかった。例え頭領が居ても、それは同じだろう。錆丸は少し離れたところに座り直し、二人を見守った。
「……燃やそう」
 ふいに破丸が言った。
「四ツ。護分寺の不動尊ごと燃やしてやろう」
「しかし、そんなことをすれば――」
 こちらの動向が分家方に伝わってしまう。
 ここへ潜り込んでから五日を経ているが、敵の忍びに見つかった気配はない。むしろ見つからないように息を殺して潜んできたというのに、火の手が上がれば無駄になってしまう。
「うるせえ。燃やすんだ」
 破丸が鋭くにらんだ。<くない>を投げつけられたかと思うほど、錆丸は背筋を凍らせた。
「行けよ。早く。手前は一昨日の話を、俺にもう一度させるつもりか?」
 錆丸は、はっとした。
「俺が囮になって厄介な忍びどもを相手にする。そう言ったろ?」
「しかし、兄者」
「心配すんな。兄者と一緒に死にやしねえ。
 ちょうど今は霧が南に向かってたなびいている。この霧は陽が高くなるまでは続くし、寺を燃やせば煙も立つ。奴らをここに誘い込むには打ってつけだぜ。わざわざ俺が御所に出向いて目立たなくても、奴からがこっちに向かってくら」
「分かりました。しかし、御油断なされるな」
「うるせえや。手前はとっとと、西の蔵に入り込め」
「西の蔵に?」
 御所には、東と西に二つの蔵がある。
 東の蔵は米など、泉家への献上物を保存しておくための蔵だ。御所の台所に直結し、中に入っている物に大きな値打ちがないため、護衛も立たない。難点があるとすれば、人の出入りが多いことだ。
 対して西の蔵には武具や鑑などの貴金属の他に、諸国や集落と交えた書簡が収められている。政事としての価値が高い物が多く、必ず衛兵が立っている。さらに、そこから御所に抜けるためには、内苑に広がる池を橋を通って抜けねばならず、その時は四方から丸見えになってしまう。
 それらは、生まれた頃から御所の床下を行き来してきた廃れ者ならば誰もが知っていることだ。
「そうとも。だからこそ西の蔵だ。裏をかくんだよ」と言って、破丸が頭を指さす。「池をどう抜けるかは、行けや分かる」
 霧が助けてくれるうちに行け、と破丸は錆丸を促した。
 錆丸は綻丸の死に顔を拝んだ後で、押入れから白い敷布を引っ張り出し、それを纏って庫裏(くり)を出た。出る時に破丸の言った「後でな」という言葉がしばらく耳に残った。
 空はまだ暗い。東の山の淵がようやく見分けられるような頃合いで、まとい霧は五歩先が見通せないほどに濃い。このあたりに別家方の忍びが潜んでいるかは分からないが、白い敷布に身を包んだ錆丸の姿は簡単に捉えられるものではないはずだ。
 錆丸は足音を殺して川まで走った。
 十川京を流れる川には、不自由しないように橋が架けられているか、舟場がある。とはいえ、二本の大きな川にかかっているのは朱塗りの橋で大いに目立つし、夜明け前に動かせる舟はない。必然的に泳いで渡るしかない錆丸は、衣を脱いで頭に乗せ、川を泳いだ。
 いくら西からの川が北からの風よりも温くても、走ってきた体の温もりは、賊に睨まれた小僧の金のごとく奪われてゆく。このところ晴れ間が続いているおかげで、水面が穏やかであることが、少なからず救いだった。この冷たさで流れが早かったら、御所にたどり着くころには疲れ切っていたことだろう。
 川を渡りきってたどり着いた北側の岸には、腰丈ほどに伸びたすすきの原が広がっている。水面に立つまとい霧もここまでは届いていない。
 錆丸は敷布で体をぬぐってから身なりを整えた。痕跡を隠すために敷布を川に流し、滞りなく流れていく様を見届けていると、誰かの叫び声が耳に届いた。
 南の方で何かが燃えている――。
 誰かの老いた声がそう叫んでいた。
 藍の空の下、白い霧の上に灰色の煙が乗っている。破丸が行動に出たのだ。
 これから護分寺は戦場になるだろう。「後で」と言った破丸の身がどのようにふるまわれるのか。今ここで知る方法はない。頭の中を占めようとする不安を振り払うように首を振ってから、錆丸は駈け出した。
 御所の周囲をめぐる土壁の近くまで来て、錆丸は茂みに身をひそめた。辺りは目にしたことがないほどにたくさんの近衛兵が徘徊している。護分寺から火が出て、幾分か手薄になっているはずなのに、今も兵が二人一組で徘徊しているという念の入れようだ。
 錆丸はその場で身を沈めて、西の一角に立つ松の木を見た。冬でも葉の残る松は、忍びのために植えられたといってもいいほど、絶好の隠れ場になる。ましてや上から見下ろせば、御所のほとんどが一望できるのだ。ただしそれは、分家の忍びにとっても、同じことが言える。
 青白む空に映し出された松の輪郭がわずかに揺れるのを見て錆丸は考えを改めた。鳥が立ったわけでもなく揺れるというのは、先客がいる証拠だ。西から御所に潜り込むには、いずれにしてもその先客を引きずりおろさなければならないが、松の木の上で争うとなると低い足場から攻めることとなる錆丸が不利になる。どうしても松に上ろうというのなら、おびき出さねばなるまい。
 どうしたものかと考える錆丸に、救いの手がにょっきりと現れた。それは妙案でも、松からでもなく、意外にも御所の中からであった。
 塀の奥が白いのだ。
 御所の周囲を埋める雑木林に生える背の高いに木に登り、なんとか中を覗いて分かったのは、内苑の池から霧が立っているということだった。どうやら池の水が西の川から来ているらしい。
 錆丸の知る限り、内苑の池は湧水だったはずである。しかし、今は西から水を引いている。枯渇したか何かの理由があってそうしたのは、恐らく最近の事なのだろう。泉家の滅亡を示唆しているようで不気味だが、ともかく破丸は、この時期に御所の西側でまとい霧が立つことを知っていた。だから、行けば分かる、と言ったのだ。ここからその霧に身を隠すのは無理でも、水を引いているという事は必ずどこかに内苑に入るための水路があるということで、破丸の示した道がそこにあるというわけだ。
 川面を流れる旗のようにスルリと西側に回ると、思ったとおりに塀と塀の隙間を抜ける水路があった。その隙間は数人の近衛兵が抜かりなく抑えていて、水路の深さも膝が浸る程度にしかないものの、水面が白く曇っているおかげで忍べばどうにかなる。
 錆丸はこぶし大の石を二三個集めると、おもむろに雑木林に向かって投じた。
 石つぶてが立て続けに広葉樹に当たって、鈍い音と一緒に枯葉が撒き散らされる。数人の近衛兵がそれを怪しんで、持ち場を離れた。
 今だ、と錆丸は音もなく水路に潜り、一気に御所に入る。塀の隙間にはまだ近衛兵が一人だけ残っていたが、視線は雑木林に向けられていて、こちらに気づいた節はなかった。
 池の水面から顔を覗かせて見た内苑は、シンとしていた。護りは外に集中させているのか、近衛兵の足音はしない。廊下を歩く貴族もいなければ、鳥の姿も見当たらない。辺りで動いているのは、左右に揺れる少し薄いまとい霧だけだ。
 妖しい、と思った錆丸は、池の底に体を添わせるように慎重に動き、池をまたがる朱橋が落とす影の中に身をひそめた。
 首尾よく潜り込むことはできた。次は、この先の動きを考えなければならない。破丸が言ったように西の蔵に入り込めば、夜まで時間は稼げるし、今のうちなら<まとい霧>が姿を隠してくれる。しかし、蔵には内苑に見当たらない近衛も張り付いていることだろうし、簡単に入り込める場所ではないことぐらい、長年御所を離れていた錆丸にも分かることだ。となると、床下に潜り込むのが一番安全だ。どこにいるのか分からないが、蔵よりは断然、波織に近づくことができる。気をかけなければならないのは、そこにたどり着くまでの痕跡は消す必要があることだ。厄介なことに、体が濡れている。池から縁側までの間に落とす水滴は簡単に隠せるものではない。陽がようやく頭を出した今は、乾くまでにも時間がかかってしまう。
 どうしたものか、と文字通り水面下で策を練る錆丸のもとに、二つの影が近づいてきた。金と黒。二色の鯉だった。
 思い出すのは、十年も昔にこの内苑で波織と戯れていた頃のことだ。当時も今と同じように金と黒の鯉が泳いでいた。金の鯉は優雅に、黒の鯉はそれを追いかけるようにあくせくと動いていたことを覚えている。
 単に錆丸が普段から黒装束に身を包んでいたからだろう。波織は黒い方を指して錆丸のようだと言った。錆丸は笑いながらも思ったものだ。金の鯉こそ波織のようだと。金色に輝く着物を身に着けたことこそないものの、いつも輝く何かを纏って見える波織こそが金色の鯉なのだ。そう思うたびに錆丸は、その魚の韻に気恥ずかしくなったものだ。
 鯉の寿命は長いと聞く。屋敷の主よりも生き延びたものもいるそうだ。今、錆丸の目の前を泳ぐ鯉が、あの時と同じ鯉かは分からない。一回り小さくも見えるが、それは錆丸が成長したせいかもしれないし、光の屈折のせいかもしれない。
 許せ――。
 目の前を通り過ぎようとする黒い鯉を、錆丸は宙に放り投げた。
 池の周りに敷き詰められた玉砂利の上で、鯉が跳ね回る。
 錆丸は鯉が濡らした地面の上を通って、一瞬のうちに本殿の床下に滑り込んだ。
 長寿の鯉が、あとどれほど砂利の上で生きられるかは分からない。息耐える前に誰かが拾い上げて、再び池に戻してくれるかもしれない。
 錆丸はそれを見届けはせずに、独り、ほの暗い床下を奥へと進んでいった。

続く