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神代の子 ―守―

八.

 御所に侵入した錆丸が潜んだのは、波織が幼少期に眠っていた寝室だった。御所の中では一番勝手が知れているし、泉家の跡継ぎが根絶やしになった今となっては、使っている者は誰もいない。もしかすると、そこに波織が匿われているのではないかと淡い期待を寄せていたが、それは叶わなかった。
 そこに潜んでから一刻(二時間)を経ている。護分寺を出たのは早朝のことだから、まだ昼には遠い。波織を探すことはもちろんだが、人目も分家方の忍びも避けねばならぬ身としては、むやみに動き回るのは危険に思える。このまま日暮れを過ぎ、夜明かりが点くまでここに潜んでいるほうが良策と決めた。夜明かりが点けば波織を探す目星もつけやすい。波織の場所を見つけた後は、背負って御所を出る。護分寺はもう燃え尽きてしまっただろうから、行先は考えなければならないが、それは安全を確保してからでいいだろう。
 そのためにも、今は体を休める必要がある。体の温もりはだいぶ取り戻したが、夕刻を過ぎれば床下は再び冷え込む。それをしのいで宵から夜更け、夜更けから夜明けにかかるまで、逃げ通せる体力が要るのだ。
 錆丸は耳と鼻の神経を研ぎ澄ませたまま寝息をかいて、体だけを休めることに勤めた。そして、さらに半刻ほど経った時、静かな足音が錆丸の潜む部屋に近づいてくるのが聞こえてきた。
 錆丸はすうっと寝息を止めた。
 忍ぶ者はすり足と置き足の中間のような足運びをする。それが極力足音が鳴らさない足運びだからだ。近づいてくる足音は、どちらかと言うとすり足に近かった。だからと言って、安心できるわけではない。忍びならばどのような足音も作り出せる。
 足音は部屋の前で止まった。
 廊下から錆丸の部屋までは二つの小間を挟んでいる。波織が住んでいたころは、三人の侍女が眠っていた部屋だ。
 それぞれの部屋を遮るふすまを、足音の主は厳かに開けて近づいてくる。やがてその誰かは錆丸の真上に立ち、静かに床を軋ませて座った。
 ごくわずかではあるが、鼻先に香の匂いが漂う。貴族の男とも考えられるが、それにしては床の軋みが小さい。
 女子か、と錆丸が推測していたその時、口笛を吹き損ねたような、スッという音が聞こえた。
 一瞬のことだった。一瞬でも体を転がすのが遅れていたら、床板を割って飛び出してきた槍が、錆丸のみぞおちを貫いていたことだろう。
 錆丸はひやりとした。
 普通ならば、槍の先には刃を守るための革袋が取り付けられている。しかし、それを外す音はしなかった。まばたきの音すら聞き逃さないほどに集中していたと言うのに、その音がなかったのだ。真上に立つ者は、たまたま槍を持っていたわけではなく、錆丸が潜んでいる部屋に迷いなく踏み込んで、一刺しに殺しに来たのだ。
 そのことを裏付けるように、無言の槍の雨が振り続ける。錆丸は息を殺したまま体を動かしてそれを交わしたが、床の上にいる刺客の狙いは正確無比で、追い詰められているのは明らかだった。
 もっとも、錆丸もやみくもに槍を避けているわけではない。
 この一室には、釘を外さずに返せる床板が二枚ある。非常時に波織を連れて逃げるために拵えた仕掛け板で、分家方の忍びなら到底知らないことだ。
 しかし、そこから上に出るにしても、間を見誤れば狙われる。
 錆丸は腰に差した<くない>を取り出し、床板から飛び出した槍の、根元にある刃のくびれたところへ、素早く挟んだ。
 引き抜かれようとする槍の付け根に<くない>が引っかかり、ギッという音を立てて床板に食い込む。
 刺客が戸惑う一瞬を突いて、錆丸は仕掛け板を返して床上に上がった。
 上った勢いのまま反撃に転じようと、即座に小太刀を抜いた錆丸だが、目の前にあるのは床に挟まって取り残された一本の槍だけだった。刺客はこちらの動きを察して、とっさに身を隠したらしい。一瞬で身をひそめられる場所は限られている。ふすまの裏か屋根の裏だ。
 部屋はふすまが閉ざされて、ほの暗い。それでも床下に潜り続けていた錆丸には慣れた暗さだ。どこから攻めこまれても、対処できる自信がある。なかなか姿を見せないということは、刺客もそれを察しているのだろう。あるいは、仲間を呼びに行ったのか。いや、野犬のように牙をむいた殺気がまだ近くにある。
 錆丸がその匂いを辿ろうと鼻を利かせる前に、向かって左のふすまが動いた。
 同時にその反対側、右手から二本の<くない>が飛んでくる。
 避け辛いように計算された二本の<くない>を手甲で叩き落としつつも、錆丸はふすまの動いた左手に回り込んだ。その動きを読んでいたかのように、今度は背後のふすまがわずかに開いて、刃物の切っ先がきらめいた。が、それは錆丸の読み通りでもある。
 後ろから襲いかかる刺客の短刀を、錆丸は体を倒して交わした。即座に、体を起こす勢いを利用して、短刀の付け根にある刺客の手に錆丸の小刀を刺す。
 開ききらなかったふすま越しに得た手ごたえは、鶏の首を落とす時のそれと同じだった。
 開けたふすまの向こうは先ほどのようにもぬけの殻でも、今度は手首が落ちている。血痕は廊下側の小間へと続いていた。
 錆丸は刺客を追わなかった。別の殺気が、天井と床下から漂ってきていたからだ。そのうえ廊下にももう一人いる。
 錆丸は囲まれていた。
 動きがないうちに、静かに装備を確かめる。あるのは、小刀が二本に<くない>が――先ほど刺客が投じてきた二つを含めて五つだ。
 錆丸を囲う三人の刺客が、手首を落とした者と同じ程度なら対処はできる。しかし、この後何人に増えるかは知れない。
 床下は潜むには都合がいいが逃げるには苦しい。低い姿勢では急げないし、逃げ場も少ない。と言って、廊下に出れば人目に付く。
 耳を澄ませると、天井板のかすかな軋みが梁を伝わっているのが分かる。一人分の軋みだ。その一人をどうにかすれば、天井裏に逃げることができる。
 それが懸命な筋道だ。
 しかし、迷わず天井裏に逃げようとしたその時に、足元の板がひっくり返り、錆丸は床下に叩き落とされてしまった。廃れ者しか知らないはずの仕掛け板を、分家の忍びが知っていたのだ。折悪く、仕掛け板の真上に立っていたのは、錆丸の油断だった。
 錆丸が起き上がるより早く、刺客の太い腕が錆丸の咽頭に食らいついた。喉仏が陥没するほどに、猛々しい腕が首を絞めてくる。あっという間に指先が痺れ、腰の<くない>に指がかからない。
 とっさに、錆丸は圧迫されて詰まった呼吸を寝息に切り替えた。苦しいことに変わりはないが、無駄な力みが抜けてわずかな隙間が生じた。その隙間でわずかに息を吸うと、錆丸は痺れの取れた中指で<くない>を掴み、再び隙間が閉まる前に男のわき腹に刃を突き立てた。
 刃が内臓を破り、首を絞めていた男の力がみるみる抜けていく。その隙に体を翻すと、男が錆丸の背に覆いかぶさる形となった。
 錆丸を追い回すようにして床上の刺客が槍を突き刺し、またも槍の雨が降り注いだが、そのすべてを背中の男の生身が受け止め、背中の男は為すすべもなく力尽きた。
 死骸を背負ったまま、錆丸は再び床上に上った。床に立つ前に、間近にいた槍の男と目があった。
 男よりも先に、錆丸が動いた。背負っていた死骸を盾にして、槍の男に体当たりをかませる。そのまま壁際に追い詰めると、死骸の腰にぶら下がっていた刀を抜いて死骸もろとも串刺しにした。
 残すは一人。
 先の二人と同じ黒装束に身を包んだ男が、素早く刀を抜く。
 しかし、その男の動き出しよりも、錆丸の方が今度も勝っていた。
 男の刀刃が鞘から抜け出る直前に懐に飛び込んだ錆丸が、男の右手を抑え込んで体を寄せる。
 刀を抜こうとする男と、抜かせまいとする錆丸の力が拮抗する。男の力が更にこもったのを見計らって、錆丸が力を緩めた。すると、抑えのなくなった男の右手は矢のように飛び出して、一瞬、伸びきった。
 柔よく剛を制すの言葉通り、力はしなやかさから生じる物である。伸びきった腕は力を蓄えることができない。しかもその瞬間、男の右手には鞘から抜け出した刀身が己の腹近くに向かって延びている。
 錆丸は素早く男の背に回り込み、二人羽織で切腹させるようにして男の腹を裂いた。
 狭所で複数人を相手取る際には考える隙を与えないという鉄則がある。その教えに従って、類まれな素早さで三人を仕留めた錆丸だったが、あちこちから漂う血の匂いが男の気配を隠していたせいで、手首を切り落とした先の刺客が天井裏に戻っていたことには気づいていなかった。
 刺客が天井板もろとも錆丸に降りかかってきたとき、全てが手遅れに思えた。錆丸が見上げるより、また左右に跳躍するより、刺客が落ちてくる方が早い。
 抵抗も間に合わず、錆丸の両肩に刺客がのしかかる。背中に白刃が立つのを覚悟したその時、右手から誰かが飛び込んでくるのが見えた。
 三人が団子になって転げるさ中、錆丸は飛び込んできた男の顔を見た。字川で別れた頭領だった。
 そして、“ぶすり”と音がした。
 刃物が腕や足を斬ると、太い骨に当たって“ごり”と鳴る。今の“ぶすり”は、刃が腸を喰らう音だ。
 自分の躰に痛むところはない。ということは、頭領か刺客のどちらかが傷を負ったということに他ならない。
 答えは、真っ赤に染まった刀が物語っていた。その刀は刺客の手の中にある。
「御頭!」
 頭領は悶絶しながらも、刺客の胴体を両足で挟んで絡みついている。
「刺せい! 錆丸!」
 錆丸は落ちていた槍を拾い、刺客の心臓を突き刺した。
「御頭」
 刺客が果てたところで頭領の傷を確かめる。下腹部から流れ出る血はとどまるところを知らない。深手なのはもちろん、頭領の余命さえわかるような有様だった。
「手当てを」
「構うな。それより、早くここを離れろ」
 頭領の目が外に向いたその時、向こうの方で「曲者だ」と叫ぶ声が聞こえた。
 気配を殺して戦ってきたつもりでも、さすがに物音までは消せない。気付かれてしかるべきところだ。
 刺客が外した天井板は、先ほどの乱闘で割れてしまい、戻すことはできない。屋根裏に逃げたことはすぐに露見するだろうが、その先の抜け道の繋がり方については、先見ならぬ先住の明がある。
 錆丸は、ここへ置いて行けと言うそぶりを見せる頭領を肩にかかえて屋根裏に跳んだ。

続く