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神代の子 ―守―

九.

「おろせ」
 喧騒が遠のいたあたりで頭領が囁いた。
「馬鹿者め。なぜ儂を待たなんだ」
 他よりはいくらか安全な場所を見つけて静かに下すと、真っ先に錆丸は叱咤された。息が荒いのは興奮しているからではない。腹からの血が止まっていないのだ。
 錆丸は何とも答えられなかった。死んだと思っていたなどとは言えなかった。
「……破丸は死んだぞ」
「兄者が?」
「分家方の忍びを護分寺の本堂に引き付けた後、不動尊に火を放って心中しおった」
「……」
「あやつを独りにしてはならなかった。あやつは鼻っから護分寺で死ぬ気だったのだ」
 すべて分かっていたと言わんばかりに、頭領が言った。
「死ぬつもりであったとは、何ゆえにござりましょうか?」
「九代目を、主を失い、更にはあやつがこの世で最も慕っていた綻丸を、自らの手にかけたのだ。綻丸を看取った後、この世にやり残したことはなかったに相違ない」
「兄者が、綻の兄を?」
 そうだ、と頭領がうなずく。
 錆丸は落胆した。あの時は、行動を起こすのが最良と考えて護分寺をでたとはいえ、待てという頭領の命に背いたことは事実だ。指示通りに護分寺で待っていれば、破丸は死ぬことはなかったろうし、頭領も深手を負うことはなかった。これらは、錆丸の判断が招いた結果なのだ。
「申し訳ございません」
 声も切れ切れに、錆丸は詫びた。
「よい。手前が気にかけても始まらぬ。元はと言えば、儂が悪かったのだ」
 今度は頭領が悔いるように言った。
「……本家の騒ぎを聞きつけ、分家の使者が現れた折のことだ。下津留の臣下たちは一つの決断を下した。泉家のために分家の申し出を迎える、とな。泉家の血と下津留の国を思えば、至極当然の結論ではあった。曰くがあるとはいえ、分家の起源を考えれば、下津留を収めるだけの格がある。
 しかし実のところ、泉家に入った養子を起源とした分家に、泉家の血は流れておらぬ。その分家が、下津留を束ねる正当性を民に示すための策は、一つしかない。泉家の子孫、つまり八代目の残した三女の一人を迎え、その血筋を加えるということだ。
 ゆえに、我らは二つの命を受けた。一つには、これより先、分家方をお守りすること。もう一つには、波織様を分家に差し出すことだ。
 その命に背くという道はなかった。もともと廃れ者とは、国のために廃れる者という意味がある。身がやつれ、人として廃れるまで泉家に従うのが定められたところだ。泉家に対する働きは求められても、泉家の人間に対する情は求められておらん。
 儂は、廃れ者の道義として、泉家の血筋を残すために波織様を分家に差し出すことを皆に命ぜねばならなかったのだ。
 だが、儂には、それに従うよう皆を説くことができなかった。
 本家と因縁深い分家に身代を差し出すとは、波織にとって幸せな待遇などあろうはずもない。女帝の座に就くのとはわけが違う。分家に入れば、波織様は子を宿すためだけの家畜になりさがるであろう。
 ……儂も、元は影人であった。八代目の妹にあたる女子を守る影人だ。しかし、勤めたのはたったの一年に過ぎぬ。御側めの腹から生まれたばかりに、御正室の命により、儂の目の前で始末された過去がある」
 短かったからこそ、深い愛情と無念が残った。それが、影人を務める者に対する情となって、頭領の心に居座っているのだ。
「情に流されるなと、儂は先代に教わった。しかし――」
 ふっと、諦めたように頭領が笑った。
「情を失うてはならぬのも、また事実。朽丸を咎めなんだ儂の心、今の手前なら分かるだろう」
「御頭……」
「儂は、意を決した。命に背き、波織様を守ろうと決めたのだ。そのために、まず、手前に会いに行った。しかし、儂が都を離れている間に、廃れ者は二つに分かれてしまった。手前や破丸とは違って影人の心を知らぬ綻丸などには、波織様を守るという意義が解せなかったのだろう。儂がいない間に、方々から圧力がかけられたことも想像に易い。 分裂の知らせはすぐに受けた。分家方の忍びが字川へ向かったこともだ。その知らせの中で、儂は破丸が綻丸を斬ったことを聞いた。綻丸を仕留めきれなかったのは、奴が幼いころに受けた恩恵によるものかもしれぬな」
 だから今朝、破丸は綻丸に詫びていたのだ。「すまない」と。何度も。
「すべては、儂が皆を束ねられなかった所以なのだ」
 むなしいことだ――。
 語り終えると頭領はゆらりと立った。
「御頭。そのような傷で如何されるおつもりにごさいますか」
「傷か。大いに結構。傷こそが人の証しよ。足元の影に、傷はつかぬ故な」
 頭領が息苦しそうな表情でうわ言のように言う。錆丸は眉をひそめた。
「御頭?」
「案ずるな錆丸。少し、遠くへ行くだけだ。
 ……手前はまだ来るなよ。手前はまだ、四十年早い」
 頭領の言葉を意味を察するに十分だった。死ぬ前に囮になるというのだ。
 脳裏によぎるのは、破丸のことである。破丸も、錆丸を活かし、自らは死の道を歩むことを決めた。その自己犠牲の裏に、破丸は綻丸を殺めた償いを、頭領は皆を束ね損ねた償いを隠している。
 それが分かって、錆丸の両足はそこに釘打たれた。屋根裏に暗がりに呑み込まれていく頭領の背中を見守るしかできなかった。
『廃れ者は数おれど、波織様の影人は手前一人だ。しかと務めよ、四ツ影』
 一度、字川の屋敷で頭領と別れた時に言われた言葉を思い返す。同じ文字の同じ並びだというのに、今の方がはるかに重かった。

 頭領が去ってから随分の間、錆丸は屋根裏に潜んで晩秋の陽が天頂から突き落とされるのを待った。波織の床下に潜んだ時とは違い、だいたい半刻おきに場所を変えている。
 外は静まり返っていた。囮となった頭領が幾多の衛兵を引き連れて御所から出て行ったおかげと言えそうだった。
 頭領が錆丸を庇って負った傷は、臓器を傷つける深さだった。衛兵たちに捕まることがあろうとなかろうと、生還できるものではない。認めたくはないが、もはや再会することはないだろう。現実を見つめて錆丸はそう思った。
 屋根の隙間から漏れる光が、少しずつ弱まってきた。落日とすれ違うようにして人のいる部屋に灯りが入る。顔に差し込む灯りが上からでなく下からになった時、錆丸は静かに動き始めた。
 天井から覗き見る部屋には、少なからず知った顔がいる。しかしその誰もが辟易としていて、顔色の良い者はいない。笑みをこぼしているのは皆、見知らぬ顔だ。分家方が闊歩しているというのは、なにも足並みを見なくても分かる。忠臣と謳われたかつての臣下たちの、今の有り様に覚える苛立ちを押し殺し、錆丸は静かに梁を渡った。
 探りを入れ始めてから八番目の部屋に到達した時、これまでの部屋とは明らかな違いが錆丸の目に飛び込んできた。銅蛭巻太刀(あかがねひるまきのたち)だ。とても高価なもので、市場で買えるものではないし、ましてや戦利品として得る物でもない。名のある武官が朝廷や高家から頂戴し、代々遺していく太刀がそれなのだ。
 太刀の傍に座っているのは、耳の横から顎先に至るまで黒々と髭に覆われた面構えで、貫録のある男だった。男の素性は知らないが、分家の中で役割の大きい男なのだろう。
 今、御所は有事の時といえた。朝から護分寺が燃え、昼にはくせ者騒ぎがあった。錆丸がここに潜む前から、近衛を御所の外にまで張らせているほどだ。そんな時に、眼下の男のような武官が遊び歩いているはずはない。この部屋の奥に何かがある。
 錆丸の目は男の背中側にあるふすまを見据えた。
 奥からは二三人の気配があるが、漂う酒気が強くて判然としない。わざとか、それともたまたまか。錆丸には前者に思えた。香の匂いを漂わせて、いきなり槍で突かれた昼間の出来事はまだ脳裏にある。
 錆丸は気配を消して、毛虫のごとく梁を這った。奥の部屋の酒気が近づくにつれ、人の匂いも濃くなってくる。
 奥にいる男のうち、ひとりは壮齢の男だ。頭髪だけでなく、衣類にしみる壮齢の男ならではの油の匂いがする。
 別の男はもう少し若い。汗の匂いは濃いが、油の匂いはしない。
 酒は二人の男が飲んでいるものだった。ごもごもと回らない呂律で何を話しているのか分からないが、時々聞こえる下卑た笑い声が内容を物語っている。
 錆丸は彼らとは別に、もう一人の気配を奥に感じ取った。しかし、二人の悪臭がひどいうえに、むさ苦しさが鼻を突くばかりで今一つ嗅ぎ取れない。
 直接見るために天井板を少しずらそうかと手を伸ばした時、ざわざわとした何かが錆丸の体を駆け巡った。
 血の匂いだ。そして、それに混じって嗅ぎなれた香の匂いがした。間違いなく、波織の身に着けていた香である。
 そこに波織がいることを鼻は確実だと語りかけるが、この目で確かめなければならない。これが巧妙に仕組まれ罠ではないことを確かめもせずに、いきなり下に降りるわけにはいかないのだ。
 わなわなと震える手でゆっくりと板をずらす。廃れ者になってから何千回とやってきたなんでもない所作が、やけに難しく感じられる。意思を越して体だけが飛び出していきそうだ。
 堪えろ、と錆丸は自分に言い聞かせた。ここで飛び出ては騒ぎになるだけだ。
 どうにか手の震えを小さくして、板をずらす。
 鼻が感じ取った通り、衝立の向こうに女がいた。ここからでは後頭部しか確認できなくても、錆丸にはつむじの位置が分かるだけで十分だった。波織である。
 分かったら分かったで、手が再び震え始めた。落ち着かせようと太ももに拳を乗せても、トントンと叩くばかりだ。
 せめて頭は冷静にと、辺りを確かめる。
 悪臭の男二人はへべれけで、相手にするまでもない。晩秋だということを忘れさせるほどに着衣を乱していて、ろくに立てないだろう。
 この部屋から波織を連れ出すことはできる。あとは、どのようにして御所を出るかだ。
 錆丸の頭の中には先ほどの武官がいる。
 天井板の隙間からでは太刀と武官の顔しか見えなかったが、そのほかに二人が詰めていることに気づいていた。しかも、先の武官の言葉づかいからして、他の二人との身分は対等らしい。要するに猛者が三人固まっているのだ。そして彼らと渡り合うとするなら、錆丸は今持っている一本の小太刀と、一つにまで減った<くない>で戦わねばならない。
 更に悪いことに、この部屋とつながる部屋は武官の部屋しかない。承知の上で波織を連れ込んだのだ。
 武官の前を通らない道があるとすれば、屋根裏を通るか床下を通るかしかないが、二人分の重さが屋根裏を動き回れば、常に場所を知らせて動くようなものだ。武官が三人も詰めている部屋の天井をすり抜けられるとは思えない。
 道は床下にしか残されていなかった。その活路を行くためには、音を立てずに悪臭二人を始末し、即座に下に降りることが求められる。
 下の二人はこちらに気付いていない。策を練るには十分な時間と場所がある。この手の震えさえ押さえられるなら、周りが寝静まるまで待つのも上等策だろう。
 錆丸は何気なく衝立の奥に目をやった。その時に、錆丸は見てしまった。衝立の奥に敷かれた布団と、そこに染みた鮮血を。
 錆丸の手の震えが止んだ。
 幾重にも組みこまれた歯車が何気ない所作で動き出すとするならば、それはまさしく今だった。そして、その歯車を止める物は何もない。影人として身に着けた忍びの理(ことわり)をめくって現れたのは、廃れ者として身に着けた殺しの本能だった。
 錆丸の足が床に着くのと、酒気付いた首の一つが床に転げるのは同時だった。
「ひえっ!」
 仕留め損ねた壮年の男が叫ぶ。
 逃げ惑う男の腹を一度突き、二度突こうとした時に詰めていた武官が畳み掛けてきた。
 くせ者じゃ、と言いかけた臭い口に錆丸の<くない>が鋭く飛び込んで、壮年の男は敢え無くなった。
 錆丸はあっと言う間に三人の武官に囲まれた。
 考える隙を与えないことが鉄則であっても、自らは常に考えなければならない。どのようにして敵を仕留めるかを筋立て、寸分の狂いもなく動くのが忍びの戦いだということは、先の通りだ。
 しかし、血の遡った影人にその理性はなかった。波織を囲った二人の男に制裁を与えることが先走り、後のことなど考えていなかった。揚句、唯一残しておいた飛び道具はたった今費やしてしまい、悪臭男の咽喉に突き刺さったままだ。
 錆丸の手に納まっている小太刀を見た髭面の武官が、小癪なとつぶやいた。そろりと抜いた銅蛭巻太刀が血曇りを宿している。
 錆丸は武官を睨みつけていた。己の刃を止められるものはこの世にいないと言わんばかりに、殺気立っている。やみ雲に飛び込めば挟み込まれて死ぬ状況を、少しも理解していなかった。
 武官はそれを承知で誘っていた。罠に向かってくる猪ほど楽な相手はいない。脚が止まってしまえばそれまでだ。
「錆丸……」
 錆丸が一歩を踏みかけた時、か細い声が後ろから聞こえた。
 波織の声だった。
 その一言で、錆丸は頭の血が下がるのを感じた。
 錆丸の表情が変わるのを見て、武官の一人が好機を逃すまいと飛び込んできた。三人の中で一番若いだろう、血気に逸った男だったが、髭面の武官がした舌打ちが結末を表していた。錆丸の反応はあまりに早く、若い武官にとっては、いつの間にか己のはらわたを見つめながら床に突っ伏していたように見えたことだろう。
「人を集めい!」
 髭面の武官の呼びかけに、もう一人の武官が背を向けた。応援を求めようという武官の背は隙だらけだ。しかし、その背中に向かって投げるべき<くない>は、もう手元にない。

続く