web clap

神代の子 ―守―

十.

 錆丸の方が機敏であることを嫌って、一人残った髭面の武官がじりじりと間を詰めてくる。錆丸の後ろには酒の匂う死体が二つ転がっていて足場が悪く、手にしている得物を比べても、俄然錆丸が不利になった。
 斬りあいに及ぶ直前まで距離を詰めたところで、武官は足を止めた。豪胆な髭面と反対に石橋をたたいて渡るたちらしく、錆丸をけん制しながらも援護を待っている。
 錆丸はすぐにでも手を打たねばならなかったが、前に出て武官を仕留め損じれば、波織との距離が開いてしまう。それが頭をよぎって、二の足を踏まざるを得なくなった。
 ついに、ドタドタと足音が迫ってきた。
「錆丸」
 不安げな波織の声が後ろに聞こえる。錆丸は後ろ足で死体を避けて、もう一歩引き下がった。
 行燈の向こうに刀を持った影が現われ、いよいよ追い詰められる。
 こうなっては打つ手がない。今さらながら己の行動の誤りを悔いたその時、ガタンと音がして、部屋の奥に飾られていた掛軸が揺れた。
「こっちだ! 四ツ影!」
 錆丸が御所を離れていた数年の間に、掛軸の裏が返し板になっていたらしい。その奥で頭巾をかぶった男が手招いているが、奥の暗さが相まって人相が分からない。
「早う!」
 誰とも知らない男の指示に、錆丸は応じた。
 錆丸が駈け出すよりも早く、返し板の隙間から矢が飛び出したが、それは錆丸の耳横を通り過ぎて武官の胸に命中した。
「おのれ、寝返ったか!」
 一矢に尽きた武官の手下たちが騒ぐ。その混乱の中を、錆丸は波織を担いで返し板の裏に飛び込んだ。
 もはや先を行く頭巾の男が誰なのかはどうでもよかった。錆丸を四ツ影と呼んだ瞬間に廃れ者であることは知れている。何故今になって手を貸してくれるのかは分からない。ただ錆丸は先を行く男の背中に頭領の影を見た気がした。
 男に従って、錆丸はつき進んだ。抜け道は暗く、一切の光が入らない。錆丸のように夜に慣れた者の目でなければ、不規則に現れる足元の凹凸に転んでしまうところだ。
 後ろからは追っ手の声が聞こえてくる。怒号のようでいて、しかし悲鳴も混じっている。
「あとは我らに!」
「皆、今こそ不徳を償う時ぞ!」
 方々から錆丸を励ます言葉が聞こえてくる。
 一人で戦っているのではなかった。廃れの字を背負った者たちの魂は、決して廃れてなどいなかった。誰もが、羽織のために戦っているのだ。
「四ツ影! 泉家の、下津留の魂を、必ず――」
 最後に呼びかけてきた声は、途中で断末魔の叫びに変わった。後ろから修羅場が迫りくる暗黒の細道に希望があふれている。
 姫を頼む――。
 頭巾の男はそれだけ言って、引き返していった。
 月明かりの元で初めて男の目を見た時に気付いた。男の目は少し遠くへ行くと言った頭領のそれと同じだった。錆丸を護分寺から送り出した時の破丸と同じだった。それと、もう一人。「波織を頼むぞ」と言った時の入部文継とも同じだった。それは総じて、死を覚悟してなお勤めを果たす者の目だ。今ここに鏡があったなら、そこにも同じ目が映るだろう。
 錆丸は追っ手を気にしながら林を駆けた。
 はっきり言って行く宛てはない。あるとするなら、ひたすら遠くへ、だ。
 分家に反旗を翻した御所の廃れ者たちでも、手におえないほど分家方の忍びは数が多いらしく、錆丸の足が休むのを許してくれなかった。
 こちらが単身なら迎え撃ってやりたいところだが、今は波織を背負っている。それに持っている得物も、今や切れ味の怪しくなった小太刀一本しかない。この先に頼れるのは己の脚だけだ。脚には自信のある錆丸でも、どれだけ長く持つか不安だった。
 澄み渡った晩秋の空に浮かぶ月の光がまばゆい。夜空を切り取る正円は、神仏の住まう世界に繋がる入口のようで、星々はそこに向かう魂のようなものだ。しかし、その美しくも儚くもある情景も錆丸の目には映っていない。目はひたすらに月光が浮かべる逃げ道を追っている。
 錆丸と波織の逃避行は夜通し続いた。ただでさえ足場の悪い林の中で走った距離は、五里をとっくに過ぎている。今が夏なら、どこかで事切れている。
 分家の忍びはしつこく着いてきた。しかし、錆丸の足に呆れたのか、あるいは錆丸の土地勘には敵わぬと判断したのか脱落する者も増えてきた。そしてそのうちに、背後にいる気配はおぶさった波織だけになった。
「錆丸」
 柔らかな呼び声が耳をつつき、錆丸は足を緩めた。
 静かに振り返り誰も追ってこないことを確かめると、辺りはシンとしていた。
「今、下ろします」
 青白い月明かりを頼って休めるところを探す。走り続ける間に、周囲は森になっていた。誰も足を踏み入れていないこのあたりは、腰の高さほどの草木が葉を落としていて、むき出しになった鋭利な枝は地獄の入り口の様相だった。
「……波の音がします」
 波織の言葉に耳を傾けると、遠くでさざ波が浜に打ちあがる音がした。
「しかし、波織様。浜は目立ちます」
 追っ手の気配はないが、諦めてくれたとは言い切れない。明け方まで追跡し続けるつもりなら、いずれ追いつかれるだろう。その時にはできるだけ身をひそめられるところにいるべきだ。
「良いのです。私は、もう……」
 言いかけて、急に波織が何かを吐いた。そして、すぐ後に錆丸の肩をその何かが這う。
「波織様……?」
 触れて確かめる。口の周りについていたのは、べたべたとした血だった。
「浜まで行ってください。波が、呼んでいるのです」
 波織がぼたぼたと血を吐きながら言う。月光に照らされた波織の顔は、死人のように青かった。その青さは、まさしく書院で倒れた入部文継のそれだった。
 疫病は、逝く時に、あたりへ死をまき散らす――。
 今さらだが、文継と言葉を交えた時のことを思い出す。本当は、その時から予期していたのかもしれない。一つ屋根の下で暮らしていた波織も同じ病に侵されているのではないか、と。しかし、錆丸は忘れていた。あの後の起こったことが目まぐるし過ぎたからではなく、希望を抱いていたかったからだ。
 無いと分かっていながら、錆丸は祈った。祈ってから懐深くに手をいれたが、やはりそこに秘薬は無った。守るべき者に毒が盛られたときに使うべき秘薬を、錆丸は文継の使ってしまったのだ。
 後悔しても何も始まらないことぐらい分かっている。ただ、今は後悔しなければ現実を現実として受け入れられなかった。
 申し訳ございません。
 錆丸の言葉は声にならなかった。波織の耳には届かなかっただろうし、意味も分からなかったはずだ。秘薬の存在は廃れ者しか知らないのだから。
 それでも波織は小さな声で、「いいの」と言った。御所の庭で遊んでいたころの、少女の口ぶりだった。
「でも、やはりここで、下ろして。このまま一緒にいると、貴方まで病に侵されてしまう……」
「……かまいませぬ」
 錆丸は波織を背負ったまま一歩を踏んだ。
「拙者、波織様のご尊顔を拝見した時より、死は覚悟の上。嫉妬に駆られることはあれど、死の任を放棄したことは一度もござりませぬ。
 この錆丸めはいつでも、波織様のお力になって死にとうござる」
 錆丸はこの時はっきりと分かった。そうだ。拙者は死にたかったのだ。暗い気持ちからではない。波織様のために、死にたかったのだ。
 錆丸の背にしがみ付く波織の力が少しだけ強くなり、錆丸は波織の手を取って、強く握り返した。
 二人は無言のまま浜に出た。水面が月光を照り返し、天が波間に漂っている。あれほどの動乱の後だというのに、錆丸は明鏡止水の心境に至っていた。
「錆丸」
 静寂に石打つように、波織の声が響く。
「はい」
「ありがとう」
 長い静寂が続いた。さざ波が行き来を繰り返すほどに、錆丸は不安になった。
「波織様?」
 波織の返事はない。しかしまだ、背中にしがみ付く腕に力はある。
 下ろすべきだと思った時、か細い声が再び耳元を掠めた。
「どうか……、どうか――」
 声は錆止の耳に届く前に途絶えてしまった。錆丸の首に絡む波織の腕がすうっと抜けていく。それは目の前に流れ星が落ちた瞬間だった。
「……波織様?」
 もう呼びかけても返事はない。黄金色の鯉は背中で果てたのだ。それなのに波織の温もりまだ残っている。錆丸はその温もりを背中で受け止めながら、茫然と立ち尽くした。
 一つの命が終わっても、足元に寄せる波は納まることなく続いている。その波の音を聞くうちに、錆丸は幼いころ聞かされたことを思い出した。
 泉家には水神の血が宿っているという逸話である。洲汪帝と言う名が示すように、泉家に生まれた者の名に必ず水を連想させる一字を含ませるのは、そうした謂われが成せるものだ。
 三の姫が“波”の一字を水神より頂戴したのは、二十年近く前のことになる。その時から、この末路を予言していたはずはない。しかし、錆丸は導かれるようにして波織をここまで連れてきた。これを定めと呼ばずに何と呼べばいいのか、錆丸には分からない。分からないが、波織をここに葬るべきだという声がどこからとなく聞こえてくるのは確かだ。
 死は、しばしば新たな旅立ちに例えられる。遠くへ行くと言って去っていた頭領の言葉にも、同じ意味があった。そして、波織が冥界に旅立つというのなら、影人である己は従うべきだ。いつか思ったように、影は光なくして成り立たないとものなのだから。
 錆丸は波織を背負ったまま海に向かって歩き始めた。冬を間近に控えた海の水が脚に凍み、一歩を踏むにつれて水を吸った着物が躰にまとわりついて、体はどんどん沈んでいく。やがて両手の感覚が亡くなる前に、小太刀を抜いた。自らの生存本能が妨げとならないように、ここで腹を斬ることにしたのだ。
 振り上げた刃が月光を照り返してきらめく。この世との繋がりを断つようにして思い切り腹に刃を突き立てると、腹がチクリとした――だけだった。見ると小太刀は折れていた。先に逝った者たちが消し去ったかのように、錆丸の手には切羽までしかなかった。
 それならばと錆丸は歩を進めた。このまま波織を背負って沈めば、どのみち浮かび上がることもないだろう。
 少し進むだけで錆丸の足は水底から離れた。元より上背ではないし、今夜は波も荒い。鼻と口から入る海水が辛くもあったが、苦しいとは思わなかった。もう終わるのだ。耳はもう、海の音と同化して何も聞こえない。
 やがて波が顔を濡らすようになった。波は錆丸と波織の頭や頬を撫でるようにして過ぎ去っていく。普段なら目の醒めるような冷たさなのに、今は久遠の眠りを誘ってくれる心地よさがある。
 ここで死ぬのだ。それを実感すると、正対する波面に浮かんでいた自分の顔が歪み、頭領の顔に変った。
 御所の屋根裏で別れた時、頭領はまだ来るなと言った。四十年早い、とも言った。波織が死んだ今でも、同じように言うのだろうか。頭領の顔を浮かべた波は、錆丸の顔に強く当たってはじけていった。
 また、新たな顔が波に浮かんで押し寄せる。破丸の顔だった。破丸は「後でな」と最後に言った時の顔をしていた。あの時、すでに破丸は死ぬつもりでいたと聞いた。だとするなら“後で”と言ったのは、あの世でまた会おうとそういうことだったのだろうか。本当のところは分からない。けれど、希望を持たせるために言ったような気もする。破丸の波は錆丸の頬を張るようにして打ち付けた。早まんなと言う声が、聞こえるようだった。
 奥には一際大きな波が待ち受けていた。その波には、月光に照らされた波織の顔が映っている。錆丸は身をゆだねるつもりでいたが、そのうちに自分の目を疑った。高波に浮かんだ波織の口が、ゆっくりと動いて見える。
 どうか――。
 波織の最期に聞いた声が錆丸の耳に蘇った。波に浮かぶ波織の口は、その声と同じ動きをしている。
 どうか、生き永らえて――。
 波織の口は、そう語りかけていた。さっきは聞き取れなかった声が今は錆丸の耳のなかで反響している。全身の力が抜ける思いだった。
 波織の笑みが浮かぶ大波は、錆丸を頭頂から呑み込んだ。視野が一気に暗い海へと引きずり込まれる。しかし、不思議なことに錆丸が上下を失うことはなかった。気が付けば、海底に足がついていた。流されたのではなく、水面が下がったのだ。
 錆丸は立ち尽くした。背負っていたはずの波織もいない。水面は余すところなく月光が照らしているというのに、波織の姿はどこにも見ることができなかった。高波は波織だけをさらって消えていった。波織自身がそれを望んだようにして。
「早まんなよ。馬鹿野郎」
 唐突に後ろから男の声が聞こえた。
 ゆっくり振り返ると星空が、男の顔の形そのままに、四角く切り取られていた。

続く