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神代の子 ―守―

十一.

 男は廃れ者の一人の朽丸だった。顔を合わせるのは実に八年ぶりのことで、いつの間にか随分角ばっていた朽丸の風貌に少なからず驚いた。朽丸は錆丸を海から引きづり出すと浜に座らせて、自らは薪を拾って歩いた。
「危うかったな」
 たき火を挟んで座る朽丸が、平たい顎を撫でながら言う。
「波が引かなかったら、手前も一緒に流されていたぜ。命拾いだ」
 命拾い――。呆然と座り込んでいた錆丸の耳に、その言葉だけが耳打ちされたかのように響く。
 錆丸は命を捨てるつもりで沖に向かって歩いていたのだ。しかし波織はそれを良しとしなかった。波織が望んでいたのは、生き続けることだったのだ。頭領も破丸も、同じことを望んでいた。
 皆が残していった温かさを錆丸はどう受け取っていいのか分からなかった。自分だけが置いていたかれたような気がするのだ。この先にどこへ向かい、何をするべきなのかは見当もつかない。現実を見ても、十川京に戻ることはもうできないだろう。追っ手が来ないところを見ると分家方が諦めてくれたようにも思える。しかし、それは今夜に限ったことかもしれない。夜が明ければ、また多くの忍びに追われることも十分に考えられる。それに、戻ったところで錆丸本人には国を再興するような力はないし、何の役にも立てないのだ。
 下津留が駄目ならば字川はどうか。錆丸はすぐにその考えを捨てた。字川に身をひそめられるところはない。錆丸を知っているただ一人の男、入部文継も今頃疫病に倒れただろう。廃れ者の秘薬は所詮一時的な効力しかないのだから。それを思えば、波織に投薬していたとしても別れは防げなかったということになるが、今さらその事実が錆丸の心をいやしてくれることもなかった。
 錆丸はぼんやりと火を見た。ゆらゆらと煙を上げて燃えるたき火は、波織に対する線香のようでもある。煙はそのまま夜空に吸われていた。
「下津留のことなら気にするな」
 察してか、朽丸がそう言った。
「追っ手は皆俺が殺した。手前を追う者はもういねえだろ」
 その話を聞いて、錆丸は安心したというより、腹が立ってきた。今の今まで行方をくらましていた者に、恩着せがましいことを言ってほしくはない。よくぞ、いまさら姿を見せる気になったものだ。それに、朽丸は泉家の二の姫、湖袖を守る影人のはずだ。ここに一人でいるということは、湖袖の身に何かがあったということなのか。錆丸は確かめずにいられなくなった。
「……湖袖様はどうなされました」
「安全なところにいらっしゃる」
 朽丸の目がすっと細まる。
「そう俺を睨むな。手前の言いたいことは分かってる。今まで俺がどこで何をしていたのか。それを問いただしたいんだろ? 手怒るのも無理はねえこった。国の一大事に、俺は何もしなかったわけだからな。それは確かだ。手前の助けてやっただなんて、これっぽっちも思っちゃいねえ」
 弁明するように言い並べた後で、朽丸は告げた。
「許せよ。誰だって御頭の指示には逆らえねんだ」
「御頭の指示だった、と。そう申されますか」
「そうだ。嘘なんかじゃねえ。嘘をついても喜ぶのは閻魔だけだ。
 俺は御頭に言われたんだよ。湖袖様を連れて身を隠せ、とな」
「それは、一体何のためにござりますか?」
「話せば長い。が、……実のところ手前を巻き込みに来たのが本音だ。聞いてくれるな、四ツ」
 朽丸の放り込んだ枝が火に炙られてパチリと鳴った。
 もう四ツ影ではなくなったのだと思いつつ、錆丸はこの時ようやく、朽丸の目を正面からとらえた。それは、頭領に破丸、そして入部文継の目と同じだった。朽丸はすでに、彼らが最期に見せた例の目をしているのだ。
 目の前のこの大男は、何か重大なことに関わっている。どこまで本当のことを言っているのか分からないが、聞かないわけにはいかないだろう。錆丸は訝りながらも心を入れ替えた。
「湖袖様がある時急に不思議な力に目覚めた、と御頭に聞かされなかったか?」
 口ぶりからしてそうではないのだなと思いながら、錆丸は頷く。
「それは、まあ何というか、嘘だ。物心がつく前から、湖袖様にはその力が身についていた」
 錆丸が四ツ影と呼ばれていたのと同じように、朽丸は二ツ影だ。その二ツ影が、幼いころから湖袖の傍でその成長を見守ってきた男がそう言っているのだから、それが事実なのだろう。ということは頭領が錆丸を謀ったという見方もできる。しかし、それはすぐに朽丸が否定した。
「御頭はむやみに嘘をついていたわけじゃねえ。隠したのさ。当代に神代の巫女が生まれたということをだ」
 神代の巫女。その言葉の意味を朽丸は説きたそうな顔をしているが、錆丸は十分に知っている。その言葉を最初に見たのは、波織から貸しうけていた書物のなかだ。
 古くにこの世は五巫女(いつみこ)と呼ばれる五行を司る巫女によって、秩序を与えられていたとされる。五行を司る巫女とはすなわち、木の巫女に始まり、火、土、金、水の巫女である。神のごとき力を持つ彼女らは、神代の巫女と呼ばれていたのだそうだ。
 湖袖にはその神代の巫女の力がある。朽丸の言葉を要約するとそういうことになる。
「湖袖様が、神代の巫女?」
 錆丸の反応を見て、それが何かを知っていることに気付いたのだろう。朽丸は少しだけつまらなそうな表情を浮かべた。
「御頭が褒めるだけのことはあるか。じゃ、五行のどれかも、言わなくたって分かんだろ?」
 水神しかあり得ない。思い出してみれば、泉家は代々その血を受け継ぐ一族だと言われていたのだ。
「湖袖様には幼少の頃からその力があった。正直言って俺は、泉家の女子は皆そういう力を持っているのかと誤解するぐらい、自然に水を操ってた」
 もちろんそんなはずはない。波織は一度だってそんなそぶりを見せたことはなかった。庭に池のある御所において水は近い存在でも、不自然な動きをしたことは一度もない。思い当たるとすれば、さっき錆丸を取り残した海の波ぐらいのものだ。
 湖袖と波織の違いはなんだろう。口にしづらいが、堀が深く顔のつくりが濃い父親に似てしまった湖袖は波織にくらべて醜女だった。とはいえ、顔の良し悪しで世間の評判が替わることはあっても神代の力に目覚めるかどうかは別のはずだ。天が二物を与えるか与えないかを論じるところではないだろう。ただ、他の違いはといわれても、さして思い当たるものはない。背丈や体つきが違うのは齢が四つ離れているから当たり前のことだった。
 いや、待てよ。齢か――。ふと、思い当たる。齢はあたりまえの違いだが、確かな差だ。波織の生まれは丙(ひのえ)だった。そこからさかのぼると、湖袖の生まれは壬(みずのえ)にあたる。五行に改めると、壬は水の年に含まれる。簡単に言い換えれば、湖袖は“水”が支配する年に生まれ、波織は“木”の支配する年に生まれていた。
 生まれ年の五行の差が、あるいは神代と素の人間を分かつものなのだろうか。そう考えたところで、その手がかりはすぐに曖昧になった。湖袖と波織の間には、九代目洲汪帝が生まれている。湖袖と年子の九代目は癸(みずのと)の生まれ、五行では湖袖と同じ“水”の支配する年である。残念なことに、九代目にそのような力があったとは聞いたこともない。隠していたにしても、勾玉飾りの妖し刀の騒動があった時に、何らかの形で露見していたに違いない。
「……おい。どうした?」
 気が付くと朽丸が不思議そうに錆丸の顔を覗きこんでいた。どうも余計な考えに走っていたようだ。
「続けるぜ?」
 錆丸は頷いた。
「泉家が湖袖様の力を隠そうしたのには、理由があった。一重に、神代の巫女が生まれた家柄は国もろとも滅ぶって噂が流れていたからだった」
 少なくとも一つ、噂が真実となった国を錆丸は知っている。字川から船で十日、陸を二十日ほど東に進んだところにある天知(あまち)という小国のことだ。火の神代が災いをもたらして土地を焼き、ひと月のうちに滅んだらしい。書物に書かれていたその出来事は、二十年ほど前のことだ。噂と言うからには、他にも似たような事例があったのだろう。
「湖袖様は肩身の狭い思いをしながら、力を隠した。ただでさえ、水の力は欲する国が多い。雨さえ降れば、作物も育つからな。湖袖様も、そのような役に立てるなら力を発揮したかったことだろうよ」
 しかし、どんなに隠しても秘密はいつか露見する。
「少なくとも廃れ者の中じゃ、俺と御頭しか知らねえこったし、湖袖様も人前で力を使うことはなかった。なのに、どこからともなく噂されるようになった。正直俺は、いつか露見するだろうと思ってたから、身構えてはいたが、事態はより悪かった。広まったのは、湖袖様が雨を降らせる救世主と言う噂ではなく、洪水を引き起こす化け物だと噂だったんだ。おりしも、その年は水害も多くてな……」
 その悪い噂の広がりようも錆丸は知らない。そのころすでに波織は入部家に嫁ぎ、錆丸も字川に渡っていた。それでも、噂がどのようにして広まったかは想像がつく。往々にして人は不幸を他人のせいにしたがるものだ。水難で身内を失えば、その怒りは誰かに押し付けねば気が晴れない。そして、噂が広まるのに根拠は必要とされない。誰もがすがりたい考えを誰かが唱えたのなら、それが民心になり、大衆の価値観になる。
「湖袖様は広まってく悪しき噂を気にかけないように装っておられた。何食わぬそぶりで、神代の力を隠し続けておられた。だが、ある日ついに露見しちまった。
 湖袖様が所用で御所を出た時のことだった。誰の差し金でもなかった。水害で親を亡くしたとかいう小僧が、汚水を湖袖様にぶちまけたんだ。大衆の前で。糞尿の混ざったくっせえ汚水だ。
 湖袖様は匂いに驚いたんだろうな。顛末を言えば、汚水を被ったのは小僧だった。湖袖様は力を遣っちまったんだ」
 大衆の前で、と再び朽丸が言った。よほどそこに悔いがあるのだろう。あの時周りに誰もいなければというため息が聞こえてきそうだった。

続く