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神代の子 ―贄―

一人の乙女、鬼に抗う刃を拵えるべく身を捧げ、贄となる――

一.

 名賀寅之雄(ながとらのお)は腹をくくっていた。
 もはや迎えが来ることは避けられない。己の寝室で天寿を全うするのだから最も幸せな最期だろうが、唯一拝めるこの世の景色が天井ばかりとなってしまっては、もう幾何もあるまい。
 元来、人は神の一部である以上、死んだのちには神の元に戻るのが理であり、自身にも同じ未来が待っていよう。しかし寅之雄は今、数十年の間に渡って名賀神社の神主を務めていながらも、この後に神の元に戻るという神道の教えを信じることができずにいた。そのような無罰の終焉は、月出(ひたち)の民が許すまいと思うからだ。
 ところで、仏の教えによれば人は死して魂となり、その先で生前の業に応じて地獄と極楽に餞別されるという。
 地獄。それは果たしてどのようなところだろう。
 かつては仏教への鞍替えも考えたいう旧友の織里(おりさと)ならその様を詳しく知っていようか。死ぬ前に訊いておくのも手かもしれない。
 仏の理に従えば、数々の罪を犯してきた己の身の上話は地獄で語ることになる。そうだ。齢六十四にして地獄に辿りつくわけだ。そう嘲ると病床でも笑えた。
 しかし、寝床で糞を垂らしてしまうような身になっても、地獄廻りをするまでにはまだ時がある。動かそうと思えば、腰から上は言うことを聞くのだ。天井が狭かったなら、違う景色も見ることができる程度であっても。
「華。華」
 寅之雄は世話役の権禰宜(ごんねぎ)を呼んだ。
 音こそ可憐に響いても、また、いかに可憐な字を充てられていても、華は四十過ぎの大年増だ。もともとは寅之雄の娘、麻桐(あさぎり)に仕えていたところを、麻桐が死んでよりは寅之雄が使っていた。今聴こえたとおり、「はい、はい」と子をあやすかのように返事をするのがこの女の悪い癖で、同時に寅之雄が気に入っているところでもあった。
「華や。また返事を二度しおったな」
「二度お呼びになったではございませぬか」
「むう」
 小くだらないやり取りをしながら、寅之雄は杯に水を差してもらった。葉に暖かな色がつきはじめるこの時期は井戸水がぬるくも冷たくもなく、歯に優しい時期でもある。立て続けに二杯を空かした寅之雄は三杯目を求めたが、華は老人の手から盃をひったくって伏せた。
「なんじゃ」
「これ以上は、お布団がより濡れるだけにござります」
「ふむ。相違ないのう」
 漏らすことが自明であるかのような失礼な発言ではあったが、白髭についた水を拭き取られるのが心地よく、寅之雄は上機嫌になった。
「華。織里は達者か?」
 先のくだりから名を思い浮かべたとたんに懐かしくなって、寅之雄は甘えた声で尋ねた。
 何を隠そう、華は織里の親族だ。
 華は流行り風邪で早くに両親を亡くし、叔父の織里に引き取られている。織里は独り身ながら懸命に華を育てたわけだが、華が成人した時にはどこへも嫁にやらずに、なぜか寅之雄によこしてきた。
 その話が文に載ってやってきた当初、寅之雄は華を迎えるつもりはなかった。神社には権禰宜の血統のようなものがある。いうなれば格式ともいうべきものだ。勿論、人手が足りていなければ外の人間を迎えることもあるが、寅之雄の詰める名賀神社はその逆で、法家の支え亡くしてはやっていけないほどに落ちぶれていた時期だった。大昔から神社に仕えている権禰宜に暇をやらねばならないほど、人手が余っていたのである。
 そんな日々にあって、矢文よりも唐突にやってきた織里からの文に目を通した寅之雄は、すぐに不機嫌になった。その頃寅之雄と織里は決別したも同然の関係にあったから、なおさらだった。ずっと関係を断っていたというのに、今度はそれを忘れたかのように姪を預かれと言ってきたのだ。
 華が今ここにいるのは、熟慮の末に寅之雄が断らなかったがためにすぎない。織里が馬鹿ではないことぐらい、寅之雄は分かっていた。何か意味があって文に願ったのだと察し、おいてやることにしたのだった。それは、他の権禰宜から受けるだろう反発を見越しても、価値のあることだと思った。
 結果として、当然のように名賀神社の権禰宜衆から疎まれた華は、それなりに肩身の狭い思いをしただろうが、後悔はなかった。なにしろ、今や華自身が楽しそうだからである。ここに来た当時の、不安を体現したような少女の顔を思い出す限り、正しかったのだとと思っている。
 ただ一つ気がかりなのは、結局その後になっても織里と文一つ交わさなかったことである。今のところ――この先もないだろうが――華に関する願いに返し文をしたのが最後となっていた。
「はい。叔父はきちんと起きています」
 厭味たらしく華が言った。もしや、楽しそうなのは儂に対する恨みではなかろうかと思うほどだ。
「左様か。それはちと悔しいのう。どこも悪いところはないか」
「少し……」
「頭が惚けたか?」
 颯爽と寅之雄が口をはさむ。
「それもございますが、節々を痛めて無精になりました」
「はっはっは。陰陽師崩れが、体躯を、悪霊は、に、憑かれたか」
 寅之雄は言葉を乱して笑い、次いでむせて水を吐いた。すぐに華が仙人のような寅之雄の白髭を拭く。
「近いうちに、お呼びしましょうか?」
「誰をじゃ」
「叔父を、にございますよ」
「要らぬことをするでない。見下ろされるであろうが」
 つまらない意地だと、華は思ったことだろう。寄った眉がそう訴えている。しかし、これは本当のところ天邪鬼のほうだ。それに気づいて密かに叔父を連れてきたなら華はなかなかの出来物なのだが、そうはならないことを寅之雄は十分に分かっている。それに今さら会ったところで、決別した時のことを詫びる気にもなれなかった。すべては儂の過ちであった、などと。
「では、筆と紙をお持ちいたしましょうか?」
 文をしたためろと言いたいらしい。
「その必要もない。ちと様子を聞いただけではないか」
「左様でございますか。私はてっきり、何か御遺言でも遺されるのかと」
「おのれ、ぬけぬけと申したな」
 寅之雄は豪快に笑い、そして言った。
「最期までお前に苦労を掛けるつもりはないわ。立つ鳥跡を濁さずというじゃろう。奴に伝えることがあれば、死んだ後に枕元に立って、見下ろしながら伝えるわい」
 そしてその時にこそ言うのだ。儂が間違っていた、と。
 そこまで思った後に、それが仏教の考えであることを思い返した。神道には霊魂という概念はない。己は、ある日すうっと病床から解き放たれて、神のもとに帰るだけであり、織里の枕元に寄る隙などありはしない。
 やはり、ここは素直になって文でも書くべきなのだろう。震えを抱いた利き手では字もろくに書けないが、華に代筆して貰えばいいことだ。
 気が変わったと言ってそう願おうとしたものの、華はすでに後ろ姿になっていて、寅之雄はさっそく億劫になった。
 華が部屋から出ていくと、入れ替わりに秋の夕日が入ってきた。遠くの空を飛ぶ鴉の声がやけに近くに聞こえる。彼らが境内の奥にあるこの家屋の屋根に停まったら、いよいよ自分の命日かと思うと複雑だ。どうやら頭に遺言のことが浮かんだせいで、括った腹の帯が解けてきたようだ。つい最近まで華の顔を見ても旧友のことなど思い出さなかったというのに、死期が迫るとは不思議なものである。
『お前はそれでいいのか?』
 織里の口から飛び出した刃が寅之尾の耳を裂いたのは、今から四十年以上も昔の事になる。
『良いも悪いもあるものか。法皇様の命に背くことなどありえぬ』
 寅之雄はそう答えた。
 今にすれば、悪い答えだった。
 名賀家が法家に従属している以上、背く道などありえないと思っていたが、本当は違った。法皇に逆らうのは意気地の無いことだというくだらない意地が、当時の寅之雄を支えていたのだ。とにかくその時は法皇の命に従い、神主としての役割を果たすことが、名賀家の力を周囲に示すことにつながるはずだと、寅之雄は信じていた。
『貴様は何をしようというのか分かっているのか。集落を一つ滅ぼそうというのだぞ』
 それが、最後に聞いた織里の肉声だった。叫びに近いその忠告を寅之雄は背中で受けた。忘れもしない、今からちょうど四十年前の真夏のことだった。さんざめく蝉の鳴き声よりも織里のその一言が大きく、わずらわしく聞こえたのだった。
 そんな日照りの強い別れの時期は鮮明に覚えていても、出会った時期は古すぎて今一つ覚えていない。幼少の頃だった気もするし、十代の初めだったような気もする。ある時期から、神職を目指す若者の一人として織里は近くにいた。正しくは、近くにいた数人の同志たちの一人にすぎなかった。
 少年時代の寅之雄は、周囲に無関心だった。名賀家の嫡男としての人生が決められていたために、名賀家のことに関しては詳しくあろうと身構えていたが、必要以上に見識を広く持とうなどとは思わなかったし、友を増やそうというつもりもなかった。正直に言えば、同志と言いながら下に見ていたものだ。
 そんな卑屈な寅之雄が、織里という人物を意識するようになったきっかけは、ごく小さなできごとで、あやふやな歳頃の、いまいち判然としない季節のことだった。
 どんなに例年通りの年でも、何故だかわからないが急激に冷え込む日が必ずある。織里という人物を意識するようになったのはそんな日のことで、当時食が細くて痩身だった寅之雄は「襦袢が欲しい」と言いながら震えていた。
 外は曇天だった。当時、寅之雄も織里も一人の陰陽師に師事していたわけであったが、寒さに震える寅之雄に目を付けた師は、名賀家に恨みでもあったのか、昼餉の後に外で雨乞いの儀を教えようなどと言い出した。
 午後とはいえ、陽のない日の外はどれだけ待っても温かくならない。半ばうんざりして外を見ていると、昼餉の席で隣に座っていた男が、唐突に「あついな」と言った。
 不埒な意味ではなしにぬくもりに飢えていた寅之雄は、すぐに震えを忘れるほどに逆上した。若かったというより、餓鬼だった。
「暑いだって? それなら上を脱いで俺にくれ」
「何を乱暴な――」
「暑いならいいじゃないか。俺は今にも凍えそうなんだ。なあ、頼む、その着物を貸してくれ」
「馬鹿め。雲の層が厚いと言ったのだ。こんな日に暑いわけがあるか」
「言ったな。俺に向かって馬鹿と言ったな?」
 互いに未熟だったせいもあって、小競り合いになった。挙句に寅之雄は男の膳をひっくり返してしまった。
 飯が床にこぼれ、飯を眺めた男の口からも「俺の沢庵が……」とこぼれた。男は沢庵が好物だったらしい。それだけにその時の怒りは酷かった。
 半刻の後、二人は大雨の降る中庭に正座していた。目の前には先ほどの意地悪な師が傘を差して立った。食事の場で喧嘩をし、食い物を粗末にしたことに対する反省の弁はいくつも押し並べたが、師は二人の全身がずぶ濡れになるまで許してくれなかった。
 言うまでもなく寅之雄と喧嘩をした男こそが織里であり、そこまでが二人に共通する、互いを知った時の思い出である。それをきっかけに仲良くなるといった喜劇のようなことはなくとも、修験に当たって負けることのできない人間が身近にできたというのは、寅之雄の感情を豊かにし、やがて実りを豊かにさせた。そうして、二人そろって優秀な人物として一通りのことを学び、意地悪な師の元を離れたわけである。それが十六の歳で、おかしいことに二人が同い年だということを知った場でもあった。織里が自分よりも上背であったせいで、どことなく年上だと勘違いしていた寅之雄は、自分よりも一つか二つ年上の人間と同格になってやったという小賢(こざか)しい満足が扇子の風でかき消されたような気分になって、知らなければよかったと思ったものだ。
 ともあれ、あの沢庵の変より何かと接点の多かった二人のつながりはそこで一度途切れた。再び大喧嘩をしたわけではなく、互いに別の道を歩み始めたからだった。寅之雄には、ゆくゆく名賀神社の神主を務めるための勉強が、織里には陰陽師として法家に仕えるための勉強が、それぞれを待っていた。寅之雄は名賀神社のある永村へ戻らねばならず、一方の織里は戒羅の行われる平端村に居を移すことになった。
 永村は東の龍臥峰の南側の、いわゆる龍頭のふもとにある寂れた村だった。都からは冬でも陽のあるうちに行き来ができる距離にある。永村と平端村は近い方角にありながらも、東に臥せる龍が行儀悪く尾を延ばしているおかげで繋がる道がなく、どうしても都を経由しなければならない。そういう次第で、永村と平端村の間には徒歩にして一日の距離があるのだ。
 二人のつながりは、互いの村の位置さながらになった。互いの住処に訪いを入れることは全くせず、姿を見かけるとすれば、都でしかない。その時にも、声を掛けることはしなかった。寅之雄が陰陽師の活動に興味を持つことはなかったし、織里も同じだったのだろう。互いにのんびりしているところを目したことがないというのも、背景にあった。互いに死んでいなければそれでいい。できれば怪我でもして床に伏していてくれた方が気味がいい。そんな心持だった。
 織里はともかく、寅之雄は相当に多忙だった。ひとえに父が早世したせいである。永村に戻って二年もしないうちに、病死した父に代わり、寅之雄は名賀神社の神主となった。
 未熟者であるがゆえの多忙だったとはいえ、慌ただしさの中にも幸せはあった。その最たるものが女子を授かったことだ。その女子こそが、後に華が仕えることとなる麻桐だった。
 いちばん近い身内の不幸で始まった寅之雄の混乱は、幸せも混じっていたわけであった。

続く