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神代の子 ―贄―

九.

 十年以上も昔の、麻桐が死んだ頃のことだ。最愛の妻を失った玄仁は、柱のない屋敷に暮らしているかのような不安に染った毎日を過ごしていた。
 娘の糸蘇からすれば、情けない父親に見えたに違いない。そもそも、婿養子とは言えども名賀大社の神主はいずれ玄仁が勤めねばならぬのだから、麻桐に支えられて生きているようでは木偶のようなものだ。これまでの麻桐に依存した振る舞いを過去に戻って正すことはできなくとも、いずれ神主を継ぐ資格がある者として威厳を持ってふるまうべき時を迎えていた。
 しかし、頭では分かっていても玄仁にはそれができなかった。糸蘇の心が大きく離れていったのは、その時だったのかもしれない。自覚しているところでもある。
 そうした娘の悪い意味での親離れが、一人の罪なき男を巻き込むことになった。
 事は玄仁が黒鳳殿へ召喚されたことに始まる。
「時に、玄仁。そなたの娘の行動は把握しておるのか?」
 玄仁は御簾の奥からそう問い掛けを受けた。あまりの唐突な問いに、玄仁の上下の顎はじわりと離れた。
「……糸蘇めが、何か無礼など働きましてござりましょうか」
「やれ。把握しておらぬか」
「申し訳ございませぬ。母を亡くしてばかりゆえ、独りにして……」
「黙れ、たわけめ」
「は」
「御条(みじょう)がそなたの娘に近づいておるぞ」
 普段は聞かぬ名だった。あわてて幾人もの顔を思い浮かべると、やがて一人の親王に行き当たった。ただ、それでも、親王であること以外の素性は知らない。名からして刻家ではないのだから、法皇と誰かの子だ。
「御条親王、殿が?」
 取り繕ってそう聞くと、大きなため息が聞こえた。
「玄仁よ。ただちに二人に縁を切らせよ。それだけじゃ」
 言うだけ言って昼御座(ひのおまし)から降りようという法皇の影を見て、玄仁はさらに慌てた。
「いや、しかし、お待ちくだされ。もとより斐川法家と名賀家は血を交え続けてきた間柄ではございませぬか。糸蘇が法家の人間に想いを寄せるは好都合にござりましょう」
 ようやく体の線が丸みを帯びてきた愛娘にすでに思いを寄せる男がいたというのは衝撃だが、それならばその仲を見守ってやるのが親の務めでもあると思っていた、というより麻桐が願っていたことだ。無碍(むげ)にしてはならない。
 そう思っての反論だったが、法皇の態度は素っ気なかった。
「糸蘇は誰とも交わらせぬ」
「……なんと。しかし、それでは名賀家が――」
「別の子をもうけるがよい」
「何を申されまするか。麻桐亡き後、名賀家の血は糸蘇と老齢の父にしかござりませぬ」
 糸蘇に子が生まれなければ、血筋は途絶える。
「はっきり言うておく。先々名賀家に求められるは神主という大義名分だけじゃ。血に意味はない」
「も、申されている意味が分かりませぬ。むしろ、不要になったのであれば、続こうと絶えようといずれでも良いではござりませぬか。なれば――」
「続いては困るのじゃ。陽の血が世に出ずる」
「陽の血? ――が、世に出ずる……、とは?」
「言うてもわかるまい。話は終いじゃ。意は変えんぞ」
「いや、しかし、法皇様、御父上」
 すがる思いで御簾の裏に回り込もうとした玄仁だったが、鸚哥親王に妨げられ、機を逸してしまった。
 法皇の言わんとしたことは、十余年を経ても未だに玄仁の理解するところにない。どうであれ玄仁は、その忠告を授かったに留めた。娘の動向は気にかかるが、どう動けばよいのか考えあぐねていたのだった。挙句の果てには、実父の忠告を忘れたことにして、何も聞かなかったかのように振る舞おうとしていた。
 しかし、次に法皇に呼び出された時には、さすがに目が覚めた。
 怒りに身を委ねた法皇は口数が減る。日の出から日の入りまでに一言も発さなければ、次は白刃が振りかざされる時だ。半刻は続いたかと思うほど長い沈黙の後、法皇は一言だけ口角から洩らした。
「二人を引き離せ。さもなくば他の者に命を下すぞ」
 生易しい一言ではない。他の者に命を下すとはつまり、糸蘇か御条親王のどちらかを手に掛けるという事だ。場合によっては双方、それどころか己も危ういかもしれない。そうなれば、大社は先々誰とも知れぬ親王が継ぐこともありえる。
 何がそこまで法皇を駆り立てているのか分からないが、ただならぬ事態になりつつあることは確かと言えた。
 玄仁は退席もできないまま、頭を抱えた。御条親王を言いくるめるのは難しいことではないが、糸蘇の反感を買うのは免れないだろう。すでに心が離れ欠けている愛娘とはいえ、己の手で止めを打ちたくはない。出来うる限り密やかに、御条親王を遠ざける方法を考えねばなるまい。
 まずは大社に戻って策を練ろうと御所の外門をくぐったところで、玄仁は急に呼び止められた。振り返ると、いつも法皇の隣にいる鸚哥親王が、羽をばたつかせながら走る鶏のごとく息を切らせて、走り寄ってきた。衣の上からでも分かるたるんだ腹が、大きな鶏卵を抱えているように見えた。
「これを」
 鸚哥はそれだけ言って、玄仁に証文を手渡した。鸚哥親王が急いで拵えたのか、ようやく読み取れるほどの雑筆の上に、唯示法皇の印が押されている。表書きを見る限り名賀大社に対する勅命と見て取れた。
「社に戻れと、法皇様はそう仰せか?」
「知らぬ。なぜそうなる」
 社への勅命を開封できるのは、神主である寅之雄しかいない。つまり中身を知るには戻るしかないのだ。それだけのことが脳の小さい鸚哥には理解できないらしい。当たり前のことを聞いた玄仁が悪かった。
 どの道、御条親王に合わないまま帰るつもりではあったが、それを法皇に後押しされると不気味だ。それに、義父を巻き込めば事が大きくなる。そのころ、寅之雄はまだまだ健在で、大社を出ることは少なかったものの元気に境内を動き回って権禰宜たちをまとめていた。
 鳩のような歩幅で歩き去って行った義持親王から目を切って、玄仁は急ぎ足で永村に戻った。社に続く階段を登り切り、寅之雄の部屋に足を踏み入れた時には上限の月が南中していた。
 床に就く手前だった寅之雄は、目配せひとつで控えていた権禰宜を追い出すと、法皇の書状を開き、表情一つ変えないまま最後まで目を通した。
 静けさの後を、老人のため息ひとつが追いかけた。
 玄仁は書状の中身が知りたくなって寅之雄に掛け合おうと試みたが、目線ひとつで制されて、かなわなかった。神主が法皇並みの迫力をもって玄仁の前に座るのはこれが初めてだった。自身の腹が自ら痛いと言ってくる。
 やがて、先ほどより少し控えめな、それでも十分に部屋にこだまするため息をつき、ゆっくりと例の書状を寅之雄に、開いたまま返してきた。
  御神体を御条親王に預けよ――。
 短歌よりも短いその一文は、しかし、辞世の句に等しい意味を持っていた。
 なんたることだ、と、玄仁はまず愕然とした。
 御神体は名賀大社の本殿に祀られていることが当然の代物であって、人の肌どころか眼に触れることさえ許され得ないものだ。権禰宜に過ぎなかった自身はもちろん、当時神主であった寅之雄も、その姿を見たことはないはずで、それを持ち出して人に委ねるなど、神罰を請うのと同義である。
 書状に綴られた法皇の文字は、砂上に咲いた竜胆(りんどう)を讃えるような、華厳で果てしない冷気を帯びて見える。
「何があった?」
 玄仁はすくみ、同時にためらった。
 名賀家に婿入りするに当たって、義父に誓った事が二つある。麻桐を悲しませないことと義父には何一つ偽らないことだ。
 これが己の過失に起因するものだったなら、事は易かった。下げる頭はいくらでもある。決して義父を侮っているわけではないが、法皇と違って命を奪うこともないだろう。
 だが、今回は糸蘇も関係している。それも、彼女自身の将来に関わりうることだ。
「……申せませぬ」
 偽らない答えを探した結果行き着いたのがそれだった。玄仁は許しを請う目で義父を見た。
 義父の眼は厳しかった。これからやろうとしていることを考えれば、当たり前である。
「誰かを、殺めるつもりか」
 問われれば答えるしかない。
「いいえ」
 義父の勘がさえない日であることを祈るばかりだった。
「……誰のためにじゃ」
「――」
 唇が震えた。義父はそれを逃さずに言う。
「玄仁殿。誓うたはずじゃぞ」
 隠し通せない、と玄仁は思い知った。
 法皇の重圧には慣れている玄仁でも、寅之雄のそれは違うのだ。もちろん法皇は恐ろしい。しかし、黙っていてもやり過ごすことはできた。亜の心の持ち主の場合は、所詮、他人事に踏み込むことをしないのだ。役立たずと分かれば捨て置き、最後には力でねじ伏せて済まそうという魂胆があるために、腹さえくくっていれば何とかなる。
 寅之雄は違う。名賀家を、そしてこんな不肖な自分さえも守るために、すべてを聞き出そうとするのだ。なんだかんだ言って、いつも自分のことばかり考えている玄仁の及ぶ相手ではない。
「糸蘇の――、いや、己のためにございます」
「話せ」
 玄人は額を床に付けて、ありのままを話した。
「むう」
 話し終わると同時に吐き出された叔父のため息は、さっきよりも重く聞こえ、その瞬間に部屋の壁に挟まれたような錯覚を覚えた。
「ご安心くだされ、御神体必ず無事に戻します」
「御神体の無事は案じておらん」
 きっ、とした表情を義父は浮かべた。
「玄仁殿。あれが何であるか、お主は分かっておらぬようじゃ」
 古の神が遺した一太刀と聞いている。それ以上のことは知らなくても、十分に至宝だということが判る謂れだ。それが、実は違うのだろうか。いや、そうでなくては御神体などと言い伝えることはできないはずだ。
「あれを尊き物と思うてはならぬ」
「しかし、父上。神の変わり身とも呼ぶべき物を尊ぶな、と仰せにございますか」
「儂も、良くは知らぬ。しかし、先代から授かった言葉はそうあらん。聞く限り、あれは――」
 義父はそこで一度口を閉ざした。
「止めておこう」
 そこから義父は首を横に振るばかりで言い直そうとはせず、すっと立ち上がった。
「玄仁殿。持ち出しは許可する。しかし、決して触れるな。決して離れるな。それだけは守ると誓ってくれ」
 寅之雄はそこまで話すと、華、と呼び、玄仁は入れ替わりに追い出される形となった。
 その夜の内に、玄仁は荷造りをすると静かに社を出た。
 龍臥峰を八合目まで登ったところにある本殿に、御神体を取りに行くためだ。正式には寅之雄の役割にちがいない。しかし、義父はまだまだ矍鑠(かくしゃく)としているが、六十を迎えたばかりの老体という事実からは免れず、登山を期待できなかった。
 龍臥峰の西斜面を登る玄仁を道を、下限の月が照らしている。秋の深まりを待つ季節がどんなに登山に適していようと、草木の少ない龍臥峰はまさしく修験の様相を色濃く見せる。玄仁は何度も突き出た岩に躓き、また踏み外して谷に転げかけた。かつては、ここで果てた旅人たちを鬼が食らっていたという逸話を忘れてはなるまい。
 玄仁が黙々と山を登る間に、東の空から広まった藍色の帯が下限の月を追いかけ回して西に到達し、さらに塗り替えられた明るさの中を陽が追従して往った。本殿に入ったのは昼前のことだった。
 朱鳥居をくぐって一安心すると、不意に義父の言葉が頭をよぎった。
 決して触れるなとはどういうことなのか。
 どんな物も触れなければ持ち出すことは適わない。暗に持ち出すなと言っているのかもしれない、と思案したが、御神体の納められた一間を開錠してすぐに分かった。当たり前といえば当たり前だ。御神体は、帯び正しい数の護符とともに木箱に収まっていた。開けない限りは、本身に触れることはない。
 玄仁は一礼し、御神体に手を伸ばした。一太刀の重さというものは分かっているが、これは異常に重い。運べる重さとはいえ、楽だと思っていた復路は往路のそれを凌ぐことだろう。だが、嘆いている余裕はない。これも一つの試練だと考える他にないだろう。
『我を……』
 鳥居の外へ向かって進もうという時に、空耳のようなものが玄人の横顔を撫でた。
 うすら寒くなるような声だった。誰の幻聴かと己の脳に探りを入れるが、自身を“我”と呼ぶ人間を玄仁は知らない。
 玄仁の視線は自然と木簡に落ちていた。
 もう、ずいぶん昔のことではあったが、今となっても思い出す。木簡を見れば見るほど、魂が揺さぶられ、ついには己の体が本当に木偶と化して、木簡が己となったかのような錯覚を覚えた。
 開けたい。気が付けば、両腕がそう欲していた。
 玄仁の手は、足が鳥居の外に出ないまま、木簡に貼られた護符に伸びた。しかし、一枚の護符の半分ほどを剥がしたところで、その動きは止まった。ふいに腹がうなったのだ。すんでのところで、玄仁は石橋を調べる槌を思い出したのだった。
 そこから玄仁は一気呵成の勢いで山を下りて大社に転がり込むと、今度は装束を改め、都に向かって飛び出した。馬鹿みたいに息が切れて、嗚咽とともに何度もよろけながら永村まで降り、網代輿(あじろごし)に飛び込んで御所へと発った。
 とうに丸一日を越して起き続けていたが、揺さぶられるだけの状態になっても眠気はすこしも訪れなかった。むしろ、眠るのが怖く感じられた。再び無意識に護符を剥がそうとしてしまう気がしたせいだ。
 鸚哥を介して対面した御条親王は、穏やかな顔付きで所作の美しい、いわゆる優男だった。ゆったりとした衣に隠れて見えないが、下手をすれば鞘よりも細い手足をしていそうだ。娘をたぶらかしたとは思わないが、娘が気を許すのも無理はない。糸蘇に限らずとも、年頃の女なら誰もが話題にしたがるだろう。柔らかな物腰もその髄たるものだ。
 初の顔合わせとなったせいで、交わした言葉はほとんどなかった。話の種にできるような天候でもないし、男同士で庭木を愛でるのもこそばゆい。愚直に法皇からの贈り物だと言って木簡を届けるに留めたわけである。
 御条親王は不思議な顔をして護符付の木簡を受け取ったが、それがあまりに重かったせいで少しぐらついた。
「中は?」
「さて、護符は装飾の類とお聞きしましたが、中は存じませぬ。お気に召すだろうと、法皇様が仰せにございまする」
「左様にござりまするか。それにしましても、なぜ名賀の父君が私めに……」
「我が娘が世話になっておるとお聞きし、法皇様にお伺いを立てましたところ、このようにいたせと」
「なるほど。承知いたしました。となれば、これはお断りできませぬね」
 親王は木箱を大事そうに抱え、頭を垂れた。
 その様を見ながら、玄仁は己のついた嘘の大きさを恥じた。これほどの嘘を汗ひとつなく言うことができたのは、深夜から昼過ぎにかけての登下山が体の水分をすべて奪ったからに違いない。
 ともかく玄人は、己の口から出た百字の大罪を背負って社に逃げ帰った。
 木簡が親王に何をもたらすのかは皆目分からないが、なんであれ、これで法皇の怒りからは逃れることができるのだ。それ以上の望みはなかったわけである。
 それからしばらくの間、玄仁の周囲は静かになった。法皇からの呼び出しはかからないし、糸蘇の表情も以前のように悲壮感を漂わせなくなった。静かになったことで、なおさら麻桐亡くなったことを感じやすくもなったが、それも少しずつ過去のことになっていった。一つ残った厄介ごとと言えば、それからしばらく寝付けなくなっただけだが、些細なことだった。
 しかし三月の時を経て、その静寂も破られる日がやって来た。

続く