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神代の子 ―贄―

十二.

 寅之雄は、泣き面の華子に見守られていた。
 落ち着きを失った玄仁の影が寅之雄の足先で行き来している。少しぐらいは文句を言ってやりたくもあるが、顔にかぶさった白布が邪魔をしてうまくしゃべれない。実のところは、うす布など関係ないのかもしれない。口どころか眉ひとつも動かせないのだ。それよりも何故か部屋の中を飛び回るほうが易い。
 孫娘の姿を最期に愛でることができなかったのは残念でならないが、ここ数年は、玄仁と糸蘇が実は同じ人物が代わる代わる演じているのではないかと疑わせるほどに、一緒に居合わせることが無かったのだから、無理もない。二人の過去を考えれば当たり前のことである。ただ、一族の――既に死んだ――長としては悲しいことだ。
 それにしても、死ぬとはこれほど境の無いものなのか。
 不思議に思うが誰も説いてはくれず、寅之雄は何かできることがないかと部屋をうろついた。
 あれこれ試した結果、反応を得られたのは一つだけだった。玄仁の背筋を撫でると、身震いをしたのである。が、それも一度だけで、二度目は後ろ首を掻いただけだった。一番に思い付いた華の涙をぬぐってやることは、叶わなかった。
 さて、ここで考えねばならないことがある。いつまでこの無感の状態が続くのかということだ。
 信じてきた教えに沿うなら自身はこれから神の一部に戻るわけだが、その道はいまいち判然としない。地面という束縛から逃れた御魂である寅之雄は、己の意思で天に向かって上ることはできるが、それは果たして昇天と呼べるものなのかがよく分からないのだ。
 あるいは、これから閻魔大王のいる場所へ連れて行かれることになるのかもしれないが、その遣いとやらがいつ来るのか定かでない。
 日が経てば何が進展があるのかもしれぬと思うも、死者に時間があるとは可笑しなことだ。老いのない御魂となった以上、時は永久であるはずで、つまり何事もなくここへ佇もうと思えばそれは可能に思える。
 しかし、そうしたところで何もできない。
 これ見よがしにもう一度玄仁の首筋を撫でてみると変な声を出して飛び跳ねたが、所詮その程度だ。これでは悪霊となんら変わらないではないか。
 そうか。今の己は悪霊も同然なのか。
 それは嫌だ、と寅之雄は思った。
 もしも己が悪霊なのだというのなら、いずれ退散させ“られ”ることになる。いつしかの意地悪な恩師の経験を真に受けるのなら、その時悪霊は苦痛のあまりにのた打ち回るそうだ。糸の切れた凧のごとき己が、畳の上をのた打ち回る姿は想像に難い。しかし、そうだとして、これから待ち受けているのが苦痛とは、せっかく苦しまぬように最期の最期まで面倒を見てくれた華に申し訳のないことだ。
「そうだ、織里がおる」
 と、華の顔を見ているうちに、寅之雄はその叔父を思い出した。今はどうからしないが、かつては名の知れた陰陽師であったあの男なら、悪霊を苦しませずに祓う方法を知っているかもしれない。
 寅之雄の魂は、華の頭を優しくなでた後、ゆらゆらと部屋を旋回して、外へ出た。
 社の宙に浮かんだ寅之雄は、生まれて初めて名賀神社を真上から眺めた。眺めて思うのは、想像していたよりも普請が正確だったことである。
 寅之雄が神主になって最初に修繕を施したのは一族と権禰宜たちが住む家屋だった。子の麻桐が生まれたばかりであったし、まず家がなくては職も勤まらない。しかし、法皇か戴いた修繕費をすべて家屋につぎ込んでは社の名が廃る。そこで寅之雄は出来うる限り工面をして、双方が等しく修復されるようにしなければならなかった。結果として、量を取ったがために質をあきらめて、一番安く済ませたわけである。上から見ることはないのだから、四辺がいびつでも構うまい、と。
 それを今上から眺め、寅之雄は満足した。誰かに教えてやりたいが、その相手はいないのは残念である。と、思ったところで、ふと目に飛び込んできた鳥居が妙に傾いていた。社の顔ともいえる朱色のそれが、何たることだ。安普請、銭遺せども、恥もまた。せめてそう詠んで死ねばよかったのかもしれない。
 浮世めいたことを考えながら、寅之雄はふわりと社を離れた。結構な高さに至っているように思うが、己を縛る凧糸は感じない。このままだと、どこまでも飛んでいけそうだった。急に世の中か便利なものになった気さえする。この世の人間たちと疎通ができないことを除けば、体は軽いしずっと快適だ。今の己に無いものは、手放した命そのもの重みなのかもしれない。
 死人の眺望する世界は、どこまでも暗かった。まだ家屋に明かりが入っている刻限ではあったが、空(くう)を占める黒と藍色の敷布にあって、灯の色は模様とも呼べないほどしかない。
 しかし、その中で寅之雄は何か妙な明かりが己の横を照らしていることに気が付いた。どこかと思えばその方角は御所である。
 此の世の物とは思えない光だ、と此の世の者ではない己が思う。可笑しいはずだが笑えないのは、何も死んだせいではなく、その光が怪しいからだった。日でも月でも星でもない光だ。もちろん誰かが炊いたかがり火でもない。よくよく見ていると徐々に膨張しているようにも見える。このまま広がれば香治の国も一飲みしてしまいそうだ。
 いや、違う。
 寅之雄ははたと気づいた。光が膨張しているのではなく、己が無意識に近づいているのだ。杯の底にあいた穴に吸われる金粉のように、少しずつその中心に吸い込まれようとしている。
 寅之雄は必死になって、あるのか分からない舵を切った。死に身に恐怖など無いはずだが、あそこに入っては潰えてしまう気がしたのだ。
 寅之雄の機転を察したのか、御所の光は急激に形を変えた。
 自身のよく知る形だった。社のそれより歪んでいる上に、上下が逆さにひっくり返っているが、どう見ても鳥居の形をしている。そして、その奥に見える虚空から黒く巨大な腕が伸びてきた。
 地獄の腕が己を捉えに来た、寅之雄の目にはそうとしか映らなかった。
 神道と仏法が混ざり合った矛盾のある己の思考に構わず、寅之雄はとにかく逃げた。今はただただ足が恋しい。飛んでいるのと漂っているのは何が違うのか分からないが、走るのと歩くのは大いに違う。魂とは、かくも奮闘するものなのか。これなら病床にいたほうが遥かに楽だ。
 御所の妖しい光から離れるべく、寅之雄は後ろを振り返らずにひたすら飛んだ。あたりがすっかり暗くなって漆黒の果てに至ったと思えるまで進んだ。
 塗り残しの無い墨絵の中に飛び込んだような世界にあって、己の影も何もあったものではなかったが、天と地の境はそれとなく分かる。恐る恐る振り返ると、御所の光は最初に気づいた時よりもずっと遠くにあって、そこから延びる腕は消え失せていた。先ほどのように光がどんどん大きくなるような錯覚もない。
 寅之雄の口から、体を一層浮かせるほどの安堵の息がこぼれた。
 周囲の暗さに慣れ始めると、天地しか見極められなかった己の視界に形が浮かんでくる。その中に、際立って高い一棟の物見やぐらが見えた。それこそが、寅之雄の目指す場所だった。そのふもとに、織里が住んでいるのだ。
 しかし、大変なのはここからだった。何せ寅之雄は、旧友の住居と老け込んだ顔を知らない。最期に顔を合わせた時は、お互いに髪が黒かったほどで、それから数十年の間に皺の刻まれた顔が分からない。
 寅之雄の魂はいくつもの古びた家屋の土壁を突き抜けて進み、人々の寝顔を見て回った。安らかと言える顔は酒臭さを伴っていて、それ以外は一様に顔をしかめている。寅之雄の信じてきた神道が全く人を救えていない事態は大いに胸の痛むことだったが、今はそれに構っても居られない。寅之雄は――悪霊らしく――徘徊を続けた。
 三十軒を越そうかという頃になって、寅之雄はついに旧友の家を見つけた。当人と確信したわけではなかったが、己と同じ年頃の老僕はそうはいなかったし、何よりも彼の空気が他の人間とは違っていた。確かな修行を積んだ陰陽師とは、砥ぎ覚まされた感性をその身に宿すものだ、とはかつての師の教えであったが、どうやらそれは確かなようだ。
 玄仁を相手に試したものと同じ悪戯を仕掛けてやろう、と思いながら就寝中の織里らしき老人に近づいたのだが、老人は突如目を見開き、結果的に寅之雄を飛び跳ねさせた。
「老いても力は健在か」
 頭が禿げ上がり、眉も白くなって、あの頃とは人相が全く違っても、この老いぼれは織里に違いない。
 寅之雄は面白くなった。華は俯いたままだったし、玄仁はうろつくばかりだったのに、懐かしの陰陽師は頑としてこちらを見ている。旧友として接していたころでさえ、目を合わせて話したことなどほとんどなかったというのに、だ。
「悪霊め。何をしに現れおった」
 懐かしくも潤いを失った声が憤っている。
 否定したいが伝える術もなく、寅之雄はその場に直った。
 どうせ祓われるのなら、ネズミのように動き回るのでは無く、堂々と去ろうと思ったわけだが、それが功を奏した。
「向き直るとは云い度胸じゃ。どれ、その面、拝んでくれるわ」
 織里は神棚から護符を取り出して、寅之雄の周囲にばらまいた。口ではそう言いながらも腰は抜けているのか、身動きが無様だ。
 そこで始まったことを理解するには及ばなかったが、寅之雄はその有様が滑稽に見えて仕方がなかった。この老人は、見えもしない何かを相手に何をやっているのだろう。今、誰かがこの場にいたら、こう思うに違いあるまい。ついに惚けた、のだと。
 もっとも、今の寅之雄は旧友の力を証明する身にある。修行の身にあった十代の頃からわかっていた認めがたいことではあるが、この陰陽師崩れは天から授かった才能を宿しているのだ。それを今、頼ってここに来ている。
 護符からあふれ出た不可思議な煙に、寅之雄の視野は塞がれた。吹いても掻き消えることのない煙だった。しかし、その煙がゆっくりと、寅之雄をいぶすように時間をかけた後で晴れていくと、目の前に織里の顔があった。
 名だたる男も、さすがに驚き飛び退いた。
「寅之雄か?」
「いかにも」
「こんなところで何をしておるのじゃ。いや、その前にお主、生霊か? 死霊か?」
「ついさっき、死霊になった身じゃ」
「なんと、……そうか」
 織里の眉が下り、白い眉に目じりが隠れた。
「それで、儂を迎えに来おったのか?」
「いや、儂がそれを待っておる」
「なんじゃい。死人が何を言いおる?」
「死んでこうなったわけじゃが、迎えが来んのじゃ」
 ここに至るまでの顛末を聞かせると、織里は首を傾げて唸った。
「……その、御所の腕らしきものが迎えじゃったのじゃなかろうか」
「やもしれぬ。が、その場合、儂は逃げ切れるものなのかのう?」
「むう」
「あれはもっと、何か、邪なもののような気がしてならぬ。いや、いや、織里。そのようなことはもはやどうでもよい。はよう、儂を成仏させてくれるかの。ひとかどの神主であった者が、このまま悪霊のごとき扱いを受け続けるは忍びない」
 寅之雄は懇願したが、織里はあっさりと首を横に振った。
「いいや、寅之雄。お主はどうでもよいが儂は気になる。怨霊でもない主のような只の御魂がそのように漂うとは、神道にも仏道にもない。御所の件(くだり)といい、大いに気にかかる」
「ぬう。それは主の勝手じゃが、儂を祓ってからでもよかろう」
「……もっとも。じゃが、そのためにはお主がかような事態になった訳を探さねばならぬ」
「死んだからに決まっておろう馬鹿め。何を言っておる」
「馬鹿と呼んだな阿呆め。迎えが来ぬ訳を、聞いておるのじゃ」
「それは知らん」
「なら、“俺”も知らん」
 織里が急に昔の口ぶりで言い、寅之雄は苛立ちながら、織里と遠縁になった理由を思い出した。
 結局は相容れんのだ、この男とは――。
「何か、やり残したことはないのか?」
「なぬ?」
 唐突に聞かれて、寅之雄はすっとんきょんな返事をした。
「もしくは、言い残したことでも構わん」
 いずれも心当たりがある。ただ、言葉にし難い。
 まごついていると、織里が言った。
「うむ。お主がそのままでよいというのなら、無理強いはせぬが」
 寅之雄は目を伏せた。織里のそれは本心ではないだろう。無論、己もそうではない。言うべき時が来たのだ。墓まで持っていくつもりだったが、意志あってとはいえ、魂となってまでここへ来たのは、それが因果とも感じられるのだ。
「長いぞ」
 寅之雄の言葉に、織里は笑った。
「仕方あるまい。互いに生き過ぎた」
 
 名賀神社の修繕から一年を経た頃である。先の那由法皇の弟君であられた阿祇(あぎ)親王が逝去され、その神葬祭が社で執り行るということがあった。
 先代から神主の職を引き継いで初めての大一番であっただけに、えらく緊張した寅之雄は、半ば震えながら祭儀を進行するという具合ではあったものの、なんとか終いまでこぎつけて、事なきを得た。斐川法家の面々が、寅之雄の振る舞いよりも、修繕された社と法皇の振る舞いを注視していたことも、救いではあった。
 そのすぐ翌日に、寅之雄は御所の黒鳳殿に呼び出され、上機嫌な法皇にさらなる修繕の出資を約束するといわれた。
 努力の甲斐があった、と、その時は思ったものだった。
「時に寅之雄。ひとつ、汝に任せたき事がある」
「はっ、何にござりましょう」
 あまりに軽やかに法皇が口を開いたために、軽く返事をしてしまったが、先の出資の話はこの話の仕込だったのだ、と後で気づかされた。
「菜旬園(さいしゅんえん)を知っておろう」
 その名を聞いて首を傾げる者は、紛れもない余所者である。菜旬園はその名の通り、菜の花で有名な田園で、春には丘一面を埋め尽くすほどに菜の花が咲き誇る、香治国の名所ともいえる場所だった。
「無論にござりまする」
 この話をしたころは、二月の半ばだったと記憶している。もう一月もすれば、大いに賑わうことだろう、と思ったものだ。なにしろ菜旬園は阿祇親王が手掛けていたもので、親王を弔う意味でも、今年は訪れる者が多くなるはずだ。
 となれば、何某(なにがし)かが亡くなった親王に代わって手を入れなければならない。もしもそれが名賀家に委ねられるというのなら、それは願ってもいないことだ。それは暗に菜旬園が名賀家の所有物になったということを示すからである。
 寅之雄は脛一本分御簾に進み出て、口を開いた。
「ぜひとも、当家に――」
「園を焼き払ってくれたまえ」
 脈略無く飛び出してきた法皇の言葉に、寅之雄は小刻みに口を震わした。
「今、焼き払うと、仰せで……?」
「左様じゃ」
「されど、菜旬園は多くの者が春を愉しむ場と聞いております。焼き払うとは、少々……」
「朕は楽しめぬ」
 断固として、法皇が言った。
「菜の花に囲まれるは、黄泉にいるようで身の毛がよだつ。ゆえに要らぬ。良いな、寅之雄。きっと燃やすのじゃぞ」
 当時の寅之雄はその抑圧に抗うに若輩だった。
 訳のわからない恐怖に圧倒され、その日のうちに菜旬園を訪れて有無を言わずに燃やした。一つでも菜の花が咲いてからでは、阿祇親王に末代まで祟られるようで、恐ろしくもあった。
 後日に受け取った修繕の更なる出資は、誰にも言えない額であった。寅之雄は人知れず、その金を龍臥峰のある場所に埋めた。決して思い出すまいと、目印すらも残さなかった。
 しかし、菜の花畑と莫大な金の両方が寅之雄の視野から消えた分だけ、恐怖が残った。そして、その恐怖が寅之雄の生涯の半分を無意識に縛ることとなった。

続く