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神代の子 ―贄―

十七.

 永村に戻るために用意した網代輿を前にして、玄仁は右往左往していた。
 御所へ参るまでは親王の会合に腹を痛めて気が滅入り、帰りの輿に乗る瞬間を待ちわびていたほどだったというのに、今はすんなりとその狭い個室に収まる気になれない。どうにも鹿泰親王の言った、関わるなという言葉が気になるのだ。
「どうかなさいましたか?」
「いや」
 怪訝な顔をする輿持ちに返事をしながらも、玄仁の踵はしっかりと返った。
「少し待ってくれ」
 そう言い残して御所に戻っていった玄仁だったが、その背中を見送った輿持ちはこの時、先々でその言葉を再三問われることになるとは、考えもしなかったに違いない。輿持ちはただ、ため息を吐くようにして「はあ」とだけ返事をした。
 玄仁の足は八角殿には向かわなかった。単に朱沙親王の鬼気迫る顔が玄仁を近寄らせなかった。恐怖というよりも、触れずにいたほうが互いのためだろうという考えに近かった。
 かといって鬼黙殿に向うでもなく、それらに代わって玄人の選択に上がったのは黒鳳殿だった。
 どんなに周囲に関心を抱かない法皇であったとしても、御所のいざこざはすべて法皇の耳に届いているはずである。一持親王の子が“消えた”というのも、何らかのことを知っているだろう。法皇が元凶となっているということもあり得る。少なくとも玄仁の中では、法皇と御所の珍事や怪事は切り離せない繋がりがあり、それは、己と法皇の親子関係よりも太い関係性を抱いているように思えるのだ。
 しかし、黒鳳殿の扉を前にすると、滑らかに運ばれてきた玄仁の足もさすがに止まった。思い返してみれば、呼び出されもせずにここを訪れるのは、数十年ぶりのことで、あれは成人する以前の話だった。何も分かっていなかったがために、無邪気に訪れたのだ。今とはずいぶん勝手が違い、今の玄仁としては、まずどのように話を切り出すかを考えねばならない。
 玄仁の足はそこで再び右往左往した後で、急に勇みだした。考えても始まらない、破れかぶれだと悟った次第だった。
「失礼仕ります」
 自分でも驚くほどに声が通った。もともと高い天井なのだから、響きやすい構造というはそうなのだが、これまでは法皇の声が遥かに勝っていて、己の声がここまで響かせられるとは思ってもいなかった。
 閑という音が、天井から返ってきた。見回しても人のいる気配がしない。
 これまでにも呼び出されて来た挙句に法皇が不在ということは、往々にしてあった。しかし、それでも鸚哥親王は、誰の言葉を返すでもなくそこに座していたものだ。その姿さえも今は見当たらず、昼御座(ひのおまし)は開け放たれた鳥かごのように静まり返っていた。
  あははははは――。
 ふいに鬼黙殿から下品な笑い声が聞こえ、玄仁は思わず背筋を伸ばした。
 もしや鬼黙殿で女と戯れているのではないかという考えが浮かんだが、法皇にそのような慣習があるとは聞かない。だいたい、あそこに押し込まれている女どもは皆、四十を過ぎた大々年増で、法皇の興味の向かない連中のはずだ。褥の相手ならほかにいくらでもいるだろう。もし己の見当違いで、本当に法皇が鬼黙殿にいたとして、そんな場に出くわしたくもない。
 玄仁は半刻も待てば戻ってくるだろうと考え、少しだけ足を崩して待つことにした。
 陽は極めてゆっくりと天から落ち始め、玄仁を囲う陰は少しずつ色と厚みを増していった。
「遅い」
 一刻近くは待っただろうか。
 初春の低くて足の長い陽の光が御簾にまで届く頃になると、さすがに玄仁も腰を浮かし始めた。
「法皇様」
 念のため、声をかけてみる。気づかぬ間に戻っていたのなら幸いと思ったが、浅い期待は再びの静けさへと化けた。
 出直すべきかと思案するものの、やはり鹿泰親王の言葉が気になる。朱沙親王の挙動もそうだ。明日またここへ戻ってきたときに、今度は親友の身に何かあったという報せは聴きたくない。法皇からここで事実を聞き出したところで、何かが変わるわけではないだろうが、見ぬふりをしている己を想像すると、それも心が寒かった。
 とは言え、このまま待ち続けてもいられない。となると、御所の何処かにいるだろう法皇をどうにかして探し出すのが手早そうだ。
 玄仁は立ち上がる前に、ちょうど一刻の間固まっていた体を動かすべく、大きく息を吸った。
 その時、玄人の鼻孔を嗅ぎ慣れない、むっとする匂いが掠めた。
 一瞬、己の体から出た汗が発しているのかと思ったが身にまとっている衣類は匂っていない。玄仁の鼻はそのまま四方を嗅ぎ、やがて御簾を向いて止まった。香とは思えない異質な匂いは、そこから来ているように思えた。
 御簾を目にして己の分を知れ。
 親王としての身の振る舞いを教えてくれた乳母がそのように言っていたことを思い出す。御簾はただの簾(すだれ)ではない。法皇を己を隔てる身分の境目であり、それを前に座る時には己が遣える身であることを忘れてはならない、という教えであった。いうなれば、御簾は神の世界と人の世界の境とも言える隔たりなのだ。
 今、その御簾の奥に、何か得体のしれない物があり匂いを醸し出している。不快でありながらも興味をそそる、熟れ過ぎた禁断の果実のごとく、危険な匂いだ。
 玄仁の足は、そろそろと御簾に近づいた。
 よく観察すると綺麗にそろっている竹簾の一部に乱れがある。法皇がそこから扇子の先を出し、こちらを覗き込んでいたのは以前に見た光景だった。
 後ろめたい気持ちよりも興味が勝って、玄仁はその乱れに視線を忍ばせた。
 匂いの正体は床に落ちていた。法皇の食いかけた鳥の脚が、ずっと置きっぱなしになって匂いを発しているのだ。空になった杯も傍に転げている。いつぞや叱責を受けた時の舞台裏を見ている気分になった。
 しかし、よく見ると鳥の脚にしては随分みすぼらしい。肉をしゃぶりつくしたというよりも、もともと骨しかなかったように見える。仮にも法皇に献上される鶏があのような貧相な肉付きで許されるものだろうか。それに、何だか形も妙だ。鳥の脚にある節の数などよくよく数えたことはないが、あのように分岐しているとは外形からは思えない。あれではまるで、まるで、赤子の手の骨のようだ。
  一持親王の子が消えたのだ――。
 玄仁の記憶が鹿泰親王の言葉を繰り返し、その度に呼気が荒れていく。玄仁は半ば動転したまま、御簾の横に回り込み、禁じられた聖域に踏み込んだ。
 昼御座に上がって、玄仁の眼はまず、床に落ちた白布に引き込まれた。
 昨年の春ごろ、寅之雄の亡きがらに掛かっていたものを思い出させる白い布が、骨の隣にある何かを覆い隠している。それを見ただけで、玄仁はどうしようもない悪寒に襲われ、手足がわなわなと震え出した。
 怖い。とてつもなく恐ろしい。
 普段法皇の前に居るときのほうが数段ましと思える恐怖がそこにある。一目散に逃げようとしないのは、腰が抜けてそうできないからだ。
 だが、ここまで来たからには、その中身を改めねばなるまい。己の頭の中は最悪の物語で埋め尽くされているが、本当に一持親王の子がそこに横たえているとは限らないのだ。いくら法皇に常軌を逸した行動が目立っているとはいえ、赤子を喰らうほど鬼気立っているはずはないと、人心が信じたがっている。
 玄仁はそれこそ赤子のように這いつくばってそこまで近づいた。
 匂いがより強烈なものとなって恐怖と重なり、五感が寸断されるような眩暈を覚える。膝が途中から言うことを聞かなくなり、玄仁は震えて縮こまろうとする肘を精いっぱいに張って手を伸ばすと、人差し指の爪と中指の腹で白布をつまんだ。
 一寸めくるだけで十分だった。見えたのだ。以前に朱沙親王の語っていた、五芒星の痣が――。
「うっ」
 玄仁は大急ぎで口を押え、部屋の片隅にうずくまった。
 そこに、老人の足が立っていた。 
「何をしておる」
 今、もっとも聞きたくない鬼の声が、頭から注いだ。
 玄仁の嘔吐は抑えられず、それが全て吐き出される前に、足を汚されたことに怒った法皇の蹴りが玄人の脇腹を襲った。老人とは思えない、重たい蹴りだった。
 転げた先に、鸚哥親王が立っていた。親王は玄人と視線を一瞬だけ合わせた後、誰もいない外へとその視線を流し、そのまま二度とこちらを見ようとはしなかった。
「分を弁えなんだな、玄仁」
 法皇が一歩迫る。
「私めは、何も、見ておりませぬ」
 玄仁は慌てて頭を振った。
「ではなぜ、そないに震えておる?」
 もはや隠しようがなかった。玄仁の体の中で、震えていないのは抜け落ちた腰だけだ。
「なぜじゃ」
 ぐぐっと目の前に迫る法皇の顔は、眼窩が異様に窪み、目玉が襲い掛かってきそうなほどに出ている。
 玄仁はただ、畏怖した。同時に、腹の奥底が握りつぶされたように深く、鋭く傷んだ。
 玄仁には分かった。
 これは蹴られたから傷むのではない。威圧に負けて腹が弱ったのでもない。腹の底を通じて麻桐が訴えているのだ。抗えと。
 呼気を整えて、玄仁は法皇を睨んだ。
「何じゃ、その面は」
 法皇が目を細めて、玄仁の首を掴む。それでも玄仁は父を睨むことを止めなかった。
「何をなさっているのかお聞かせ願えますか、父上」
 玄仁の眼に一持親王の子であった生き物の腕のかけらが映っている。訳など聞いたところでどうにもならないが、このまま黙っているわけにもいかなかった。
「見た通りのことじゃ。赤子を喰ろうておる」
「何をお考えかと、聞いておるのです」
「聞いて何になる」
 老齢を過ぎているはずの法皇の腕に力がこもり、玄仁の首が一層絞まる。もげるのではないかと思うほどに痛かったが、それでも玄仁は法皇を詰問するのを止めなかった。
「今更何にもなりません。が、私が父上を許せるかどうかは、そのお言葉次第です」
「生意気が過ぎるぞ、玄仁」
 放り投げるように倒されて、玄仁は床に頭を打った。鸚哥はまだ外を見ている。
「儂の子じゃ。どう扱おうと、儂の勝手じゃろう」
「迷い事を。一持様と梅子様の子です。父上に左様な権利はございませぬぞ」
 這いつくばったまま見上げた父の顔には、不気味な笑みがあった。黄色く、ところどころ抜けた歯から、瘴気を吐くような笑みだった。
「何も知らぬのじゃな。梅子がここへ来たその日より、毎晩、仕込んでまいった儂の種じゃと言うに」
 吐かれた瘴気は予想以上に濃かった。
 覚えた吐き気と眩暈の中で、一持親王と梅子の不思議な縁組を思い出す。一持親王との縁談を喜んでこの国へやってきたというのに、そこからが妙に長かった。
「……そのようなこと。嘘にござりましょう」
 狼狽えながら、さらに思う。
 梅子がこの国へ来てから正妻となるまでに経た五年のもの年月の間、法皇に怯え続けたというのなら、祝言どころではないだろう。一刻も早くこの国から逃れようとするはずだ。そして性質になればこの国から逃れることはできなくなる。だから、日を要したのだ。そして、もし梅子がそうなら、他の姫君たちも、下津留から招き寄せた一江も同じ目にあっていたということかもしれない。
 その雑念を見透かすように法皇は笑う。
「儂は偽らぬ。女が子の親種を偽るだけじゃ」
「いや、しかし、そのような筈は――」
「そのような筈とは、どのような筈じゃ。お主の求める“筈”とは何じゃ。皆の子が、縁組み通りの父を持っておることか。それとも、糸蘇がお主の子であることか」
 狂気が、時を支配した。
 玄仁は呆然と父を眺め、唇を震わせて言った。
「今、何と――」
 ふっと浮かんだ糸蘇の立ち姿が、あっという間に頭を占める。
「いや。まさか。そんな筈は……」
 娘は例外と呼べるのか。その考えが少しずつ玄仁を満たしていく。
 愚考のはずだ。麻桐が法皇を接したの一度か二度のはずで、それは玄人も伴っていたことだ。しかし、二人を監視していたわけではない。密会していたと言われれば、疑うことはできない。
 それでも、玄仁はすぐに頭を振って、妻を信じた。もし法皇の言葉が真実だとするなら、妻は必ず打ち明けていたに違いない。
 梅子にしてもそうだ。字川を出て香治へ参り、すぐに法皇に手を取られたというののなら、なぜ第一子の出生に六年も要しているのだ。
 すべて戯言だ。そう信じれば信じるほど、返って法皇に対するに憎しみがこみ上げてきた。
 玄仁にとって、妻と娘はいつの時も支えであった。例え叱責されるばかりであっても、呆れられるばかりであっても、疎遠になったとしても。己が法皇の命に従って汚れた仕事ばかりをして来た己の生涯を顧みればなおのこと、その清さが支えになっていた。
 それを、今この前に立っている男は、妻と娘の血が穢れていると思わせるような口ぶりで、ありもしない嘘を語って汚した。そればかりか、玄仁が彼女たちのためにと連れてきた他国の姫君をもだ。ただ、この場で、玄仁の心を蝕むためだけに。
  何と醜い。これが私の父親なのか――。
 玄仁の顔は嫌悪を隠しきれず、その浅い彫りに深い憎悪が浮かんだ。
「よい顔じゃ。もっと怒れ、玄仁。そちは物足りぬ」
 嘲る父の言葉など耳に届いてはいなかった。目を床に這わせれば、そこにはまだ赤子の亡骸があり、白布と床の隙間からは、髪すらも生えていない、かつて頭部だったものが覗けている。
 この幼い命を喰らったというのは事実なのだろう。何があってのことかは知らない。だが、もはやどうでもよい。目の前に立ち、汚い歯をむき出しにして笑っているのは、言葉の通じない獣の類だ。やりあうだけ無駄だと分かっている。
 ただ、この行いを誰かが止めなければ、この国はいずれ滅ぶだろう。それどころか、友や娘の平穏な暮らしも守られやしない。
 己の目は、その端で刀立てに据えられた一振りの刃を捕らえてい、腕は、剣の覚えがないことをよそに猛っている。
 玄仁は床を蹴って刀に飛びつき、一息に引き抜いた。
 残念なことに、その中身は竹で作られたものだった。
「馬鹿め。朕の命を脅かすようなものを、そこへ転がしておくはずがなかろう」
 法皇が笑う。
 直後に、玄仁の背中を激痛が襲った。
 手をあてがうと、衣が大きく避けており、そこから何かが垂れている。見つめた己の手は赤黒かった。
「お前も同じじゃ。朕を脅かすものは、もはや転がしておけぬ」
 いつの間にか背後にいた鸚哥親王は冷ややかな目をして、もう一度、玄仁の背中を深々と突き刺した。
「あ、ああ」
 玄仁の絶叫は、驚愕が勝って叫びにならず、烏の鳴き声に近かった。
 急に息苦しくなり、玄仁は血を吐いた。血の廻らなくなった頭が、不思議にも大社の幻影を見せてくる。
「か。帰らねば」
 うわ言のように、口からそう漏れた。玄仁はただただその思いで床を這い、御簾を頼りに立ち上がろうとした。
 御簾は玄人の体を支えるに至らずに、天井から剥がれ落ちた。神と人の世界を隔てる境が目の前から消え失せて、玄仁は再び冷たい床の上に倒れ込んだ。
 身をよじり、天井を見上げることしかできなくなった玄仁の顔を、一つの頭が覗き込んでいる。夕日に照らされた法皇の顔は赤く映えて、地獄で人間を拾った鬼のようだ。その奥から、天井に棲む黒鳳がこちらをじっと見ている。
 やがて聴覚が閉ざされ、視覚が消され、床に触れている感覚すらも失われていった。もう腹は痛まなかった。

―贄― 完