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神代の子 ―諸―

一.

 男は気配を伺っていた。己の耳は確かに何かが木の根を踏み砕く音を捉えたが、それきりだった。人か獣か。前者ならば問題はない。このような状況で音を立てるような忍びを仕留めるのはさほど難しくないだろう。
 しかし、獣は時に厄介だ。行動は読めないし、熊などはこちらの装備など厭わずに牙と爪だけで致命傷を与えてくれる。あの凶暴で屈強な腕に襲い掛かられたら、軽くするために本身を削って打たれた忍び刀など、なんの役にも立たない。
 木々の向こうの何かはまだ動かずに居座っている。空に浮かぶ夜半の月のほうがよほど足が速いようだ。
「犬見(いぬみ)」
 たまりかねた男は、至極小さな声で、仲間を呼んだ。
「案ずるな。聞こえている」
 音のことを指して、犬見がささやく。
「獣だろう。向こうもこちらを伺っているはずだ」
「どうする。場所を改めるか?」
「目的を考えよ。うろつくのはまずい。五感を研ぎ澄ませて観るのだ」
 目に頼るな。相棒であり、師でもあった男が、暗に言っている。
「先方はまだか?」
「直にここへ参ろう。見張りを任せたぞ、加々見(かがみ)。今や、お前のほうが耳は良いのだからな」
 風すら起こさずに去っていく相棒を背中に、加々見はゆっくりと目を閉じた。月明かりがあるといっても、下弦を二日も過ぎては闇に負けてしまう。見ようと力む分、聴いたほうが良いということだ。
 それに耳だけに集中すれば、犬見と先方の会話も聞こえる。それぐらい犬見もわかっているだろうから、盗み聞きとは言わないだろう。
 少し待つと、加々見の耳が再び音を捉えた。先ほどとは逆の方角である。押し殺した足音だが、時々小石を蹴る音を漏らしている。名乗りを上げているに近い、癖のある素人の足音だ。
「遅いぞ」
 まず犬見が口をきいた。
「すまぬ。少し迷った」
「刻限は守られよ。かような雑木林に長々と居続けるのは危険が多い」
「一度のことだ。許されよ」
 声が止んだ。渋い顔をする犬見の顔が思い浮かぶ。
「さて、どちらから話す?」
 切り出した先方に、「お主からだ」と犬見が応じた。
「残念だ。大王(おおきみ)はまだ、私のことを疑っておいでか。確かに、私は妾腹とは言え法皇の子。右腕と勘繰られても仕方あるまい。しかし、他人には分からぬ溝が私と法皇、いやそれどころか香治の親王連中の間にあるのだと、云うたはずだ」
「大王ではない。大王は懐の深いお方だ。その分、私が、疑っている。目的を阻もうとする者がおるならば、直ちに排す。それが私の務めと、こちらも云うたはず。分かっていただけぬなら話はここまでとするが、それでもよいのか? 鹿泰(ろくだい)殿」
「ふう。相容れぬな」
 苦笑する音が聞こえ、先方の声が続く。
「よかろう。何が聴きたい?」
「御所の動きは如何様にあるか」
「親王の連中は誰も動かぬ。大王の狙い通りだ。私のような外様の親王が、おぬしら鬼門崩しによる危機を説けば、年寄り衆は、それに逆らった動きを取ろうとする。妾腹の言うことなど取るに足らぬ、とな。大老が動かねば、その顔色を窺ってばかりの若い親王連中も動けぬというわけだ」<br>
 そして、その後に各地の鬼門社が崩されたとしても、一度捨て置けと命じたものを撤回する度量は年寄り衆にはない。撤回すれば、妾腹に負けたことになるからだ。
 そのように大王は予想をし、鬼門崩しの存在を御所に知らしめるように鹿泰親王に命じたのが、およそ一年前だ。その更に以前から力を蓄えていた大王は、それを皮切りに次々を鬼門社を襲い、崩してきたのだった。
 もちろん、危惧はある。親王衆が見栄のために黙っていたとしても、鬼門社を作ることを命じた法皇が黙っていないだろうということは十分に考えられたことだ。こちらにとって肝心なのは、無能な貴族よりも実権を掌握している法皇の動向である。
「法皇は如何か」
 犬見が訊いた。
「ずっと動きがない」
 先方が頭を振って揺れた烏帽子と髪油の摩擦音が聞こえてくる。
「名賀家は?」
「……お主らの存在を伝え、警告したが返答はない。もっとも、これは平端にいるお主らのほうが肌で感じることだろう。もしかすると、名賀家は敵ではないのかもしれぬ」
 犬見は黙った。言葉を隠したわけではなく、探っていた。
 名賀糸蘇(ながのしそ)は特にそうだ。犬見が、糸蘇と同郷という男、村雲(むらくも)との接点を持っているが、そこから先には伸びていない。その男と犬見の信頼関係も、計算によって成り立っているが、根底が覆される可能性は大いにある。
 なぜなら、鬼門崩しが各地で起こっている事態を背景に、そこから少し離れた土地で“元鬼門崩し”と名乗ることによって、関係を持っていないことを印象付けているだけなのだ。つまり、犬見が平端にいる間に、ほかの者たちが諸国で鬼門を崩すことで、犬見の“元”という立場を証ているわけである。しかし、一度疑いを持たれてしまえば、そのような言葉遊びは何の効力も持たなくなる。
 ともかく、知る限りで犬見と名賀家に接点はない。それは視点を変えれば、名賀家が犬見や加々見を警戒している素振りがないということでもある。犬見の保った沈黙は、それを暗に示していた。
「どちらに転ぶかは、まだ様子を見ねばなるまい」
 吐息のように、鹿泰親王が言った。
「さて、そちらはどうだ。平端を攻める準備は整ったのか」
「平端の人間を敵に回すのは得策ではない。腕に覚えのある者と流れ者が多すぎる。真面にやりあう道は避けねばならぬ上に、そもそも我らの敵とみなすのは短慮だ」
「大王は何と?」
 加々見の知らない情報を犬見は答えなかった。この沈黙は、先のものとは逆だろう。
「……怖気づいたわけではあるまい、犬見殿。お主の復讐心は――」
 どこへいくはずもない。
 加々見にとっても、それは答えるまでもないことだった。
 二人の脳裏には常に祖国の思い出が広がっている。正しくは、蓋をされた石棺の中に詰まっていると言ったほうがよいかもしれない。
 祖国は火とともにあった。火事の類ではない。火によって栄えた国だった。
 民の生活はもちろんのこと、鋼を溶かし加工するその技術ばかりか、政さえも火に依っていた。今でこそ名を知る者も限られるが、千間の広間に等間隔に置かれた千本の燭火はその国の民ならば誰もが知るもので、高官たちは千本の蝋燭の明かりの揺らぎから行く末を占い、採決していたものだった。
 もともと、民たちは自らの国を火知(ひじり)と呼んでいたが、崩し字が諸国に誤読されたせいで天知(あまち)として知れ渡った。当世は訂正を試みていた高官たちも、天の字がもたらす偉大さに、最後には折れた具合になった。
 滅亡は三十余年の過去であり、きっかけは香治(かな)の国の法皇から進言された鬼門社の建立を断ったことに始まる。法皇がどれほどの兵力をかけて天知を滅ぼしたのかは、火知の名と同じように、国民の知るところでしかない。
 悲惨な水攻めに遭い祖国が灯を失った時、犬見は二十、加々見は十四で、ともに一兵にすぎなかった。野に下って過ごした三十余年は二人の生活を大いに変えたが、法皇への怒りは少しも変わっていない。
「忘れようもない。なればこそ犬死はごめんだ」
 低い声で、犬身が反論した。加々見にはそれが奥歯を噛んだまま喋っているように聞こえた。
「ならばよいのだが」
「……お主はどうなのだ」
 翻して犬見が親王に問う。
「法皇とは実の親子。私怨があるというのもどこまで本当か分かりはせん。実のところ、そのような振りをしているだけで、いずれは我らを売るつもりではなかろうな」
「怪しむのならば、この場で私を斬り殺してはどうだ。どうせ私の死など嘆く者はおらぬ。気兼ねなくこの喉を斬るがよい。しかし、いざ御所に攻め入ろうという時に、開門できなくとも知らぬぞ? 少なくとも、私を除いて裏から門を開けられる者はいないはずだ」
「……ふん。もとよりお主の力を借りるつもりなどない。門は我らが開ける」
「侮らぬことだ。御所の門と鬼門社は造りが違う」
「我らなら崩せる」
「一体その自信はどこから現れるのやら、知りたいものだ」
 それを境にしばらくの間、無言が闇を占め、それからふっと吐息が漏れた。嘲笑だろう。茂みの裏からでは音でしか捉えていないが、先方のものだと知れた。“鬼門崩しの犬見”は決して笑わない。
 そして、例の素人の足音が再び聞こえ、いびつな芋を転がすように、木々の根に足を取られながら遠ざかっていった。
「犬見」
 蔭から陰へ、加々見がささやく。
「この時期に揉めるのはまずいぞ」
「分かっておる。測ったまでだ。知っての通り、もう長い付き合いだ。しかし、なればこそ馴れ合いを避けねば、互いのためにはならん。先方も承知していよう」
 言い終えるなり、犬見の口からすっという音がした。その音のない口笛は加々見への明確な合図である。意味は、<曲者>だ。
 加々見は瞬時に、先ほど木の根が音を立てた方角に気を配った。
 少しの集中力では気づかなかったが、かすかに、己の神経が張った蜘蛛の巣の外ぶちを歩く何かがいる。
 密かに拾っておいた拳大の石を、加々見は遠くの木の枝に乗っていた気配に向けて思いっきり投げつけた。
 すると石は鈍い音を立てて何かに当たり、その何かが地面に落ちた。
 すでに犬見がその場所には向かっている。
「仕留めたか?」
 加々見の問いに、犬見は「うむ」と答えた。その手にはのびた兎が乗っていた。
 少々間の悪い思いをしたが、気にもなる。己の感触が確かなら、投げたのは地面から三丈(約九メートル)の高さのはずだ。そのような高所にまで兎が登るものだろうか。
「この地方の兎は、木にも登る」
 犬見はなだめる様に言った後で、「が――」と続ける。
「兎は溜め込んだ木の実で冬を越し、春も過ごす。野を駆けて野草を食むのは新緑の手前だ。冬を超えたばかりの体力の戻っていない今の時期に、三丈も登るとは思えん」
「――とするならば、俺の石に当たった何者かが身代わりに落としたということか。誰の手だ?」
「法皇の兵は多かれど、闇衆はいない。いればとっくに気づいている」
「では、我々方でも法皇方でもない闇衆がこの国を嗅ぎ回っていると言うのか? 大王は香治に恨みを抱くすべての国の者を集めたはずなのでは?」
「無論だ。が、いかなるときにもそこに漏れる者がいる。えてして、そういう者は強く、そして目立つものだ」
 まるで逃がした魚の住処を知っているかのように犬見が言った。
「……目星がある、と?」
 師は答えなかった。ただ、寒空を見え上げ、一言だけつぶやいた。六年になるか、と。心なしか微笑んでいるように、加々見には見えた。

続く