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神代の子 ―諸―

三.

 大安の夜は酒が飛ぶように売れ、時には盗まれもする。
 戒羅で勝った者も敗れた者も、あるいはただ見ていただけの者さえも、決まって酒を飲むからだ。酒屋にとっては書き入れ時であって、当然のこと値段も跳ね上がる。それならば、あらかじめ買いだめしておけば良いと誰もが気づくだろうが、徳利の中の酒が夜を越すほどなら、酒飲みは苦労しないのだ。
 その夜、錆止と朽果は、かたや勝者、かたや敗者として同じ酒席に座っていた。その席を設けようと言い出したのは、他ならぬ朽果だった。もちろん、錆止はその意図を察している。悔しみを前面に出して暴れることで、戒羅の勝敗を偽装したことを隠そうというのだ。二人はその日、玉砂利の上で顔を合わせていた。戒羅のとりとなる、納メ式でのことだった。
 実のところ、二人が戦うことになった場合にどう振る舞うかは、戒羅に戦い手として加わる以前から決めてあった。戦い手として、上位に立っている者に勝ちを譲るという決まりだ。そうしておけば、勝者はより頂に近づき、ひいては名賀家の目に留まるはずだと考えていた。
 予想以上に二人の初顔合わせが遅れ、その間に錆止が壬生を破って戦い手の頂点に立ったため、その約束はあまり意味のないものになっていた。ただ、そうであっても、今日の戦いには相当な価値があった。なにしろ最近の戒羅は来るべき神覧試合の前哨戦として見られていて、張り番が誰を当日の戦い手に選ぶかは、このところの勝敗に起因するのだ。誰も公表していない事柄だが、間違いはないだろうとは、伊丹の言葉だ。
 錆止と朽果は、周囲の期待する戦いを演じたうえで、錆止が勝つように働いた。期待する戦いとは、あっけなく朽果が敗れることだ。
 宴は、暴れまわる朽果を錆止が諫めて連れ帰るとという具合に解散になった。
 今、二人は梅雨の雨が打ち付ける夜道を歩いている。
「もう、よろしいかと」
 泥酔した芝居を続ける朽果の耳に錆止がささやいた。
「おう」
 一言、そう応じると、蛸のようにくねっていた朽果の四肢が急に芯を持って、朽丸に戻った。
 細かな雨が周囲の寝静まった家屋の木戸に打ち付けている。笠も被らずに歩いていると、その音が顕著に錆丸の耳を刺してくるようだった。
 時折、雨音がさざ波を模した音に化けることを知ったのは、この集落へ来てからのことだ。その音を聞きながら目を閉じると、己の主、波織(はおり)を失ったあの浜の情景が目に浮かぶ。雨がもたらす筈のない潮の香まで、錆丸の鼻腔に届くようだ。
「うまく、ごまかせたと思うか?」
 朽丸が言った。玉砂利の上と畳の上で、己が打った八百長のことだろう。そうしたもの良し悪しは他人でなければ分からない。
「……はい」
 しかし、それは錆丸にも言えることだ。酒席では芝居も何もなかったが、朽果と対峙した戒羅はそうではなかった。試合の一部とはいえ、身内と真剣を交えるというのは難しいことなのだ。それに、朽果はその屈強さで戒羅を戦ってきた者だ。どう見ても腕力で劣る錆止が、切りつけることなく朽果を打ち破ったように見せるのには苦労した。
 二人は雨音を残して沈黙した。互いの足音だけが、禅問答のように続いている。
 錆丸と朽丸は住処を共にしていた。兄弟分という建前がある以上、そうすることが自然だったし、そのほうが何かと便利だからだ。
 ただ、これまでのところその屋敷の中で笑えるようなことは一つもない。もともと笑いと無縁の命だといえばその通りなのだが、下津留を離れてからというもの己の周囲に住む影は一層濃くなったような気さえしている。
 特に最近は殊更で、そうさせる出来事が多い。その最たるものが、旧下津留の一の姫、一江(ひとえ)の死だった。
 もともと予期していたことでもあった。一ツ影が遺体で見つかったのは、ここへ渡る前に朽丸から聞かされていたことだ。しかし、どれほどの覚悟がそこにあったにしても、考えていた結末と知った結末の間にある空白は何を持っても埋めることはできない。それぞれが同じ内容であったとしてもだ。
 一の姫の訃報は、朽丸からもたらされた。
 三月ほど前のことだ。初春に似合わず、大雨と雷鳴が空を占めた日だったと記憶している。戒羅の間に御所の警護が甘くなる隙を狙って朽丸が御所に忍び込む一方で、錆丸は特に試合を抱えていたわけではなかったが、普段通りに戦い手の一人として戒羅を見物していた。
 錆丸に知らされたのはその日の夜のことである。戻った朽丸の顔は見るからに疲弊し、体はずぶ濡れだった。そして、錆丸の顔を見るなり首を振った。
 四角い顔の四角い口がゆっくりと、まずこう言った。「一江様が逝かれた」と。
 曰く、朽丸が御所に忍び込んだ時にはすべてが手遅れであったとのことだった。
 アカシという名の一人の親王が、御所の一角にあるキモク殿に乗り込み、そこにいた乳母たちを惨殺したそうだ。理由がなんであるかを聞き出すことはできなかった。御所に出入りする下人たちから聞き出そうとしてはみたものの、一様に口が堅く、仔細を外に漏らすものは誰もいなかった。聞き得たのはその親王の名と、彼が最期に自刃したということだけである。
 朽丸の耳はほとんど役に立たなかったが、目は事態の断片を捉えることができた。一殿の床と壁を塗り替えねばならないほどに血痕が広がり、庭には女たちの亡骸が並べられていた。そして、その躯の一つに朽丸は祖国で見た一の姫の顔を見つけたわけだった。それと、一本の刃が丁重に運び出されるのを見た。
 禍差であった、と朽丸は語った。
 錆丸は息を吐いた。
 壬生が戒羅を退いてから、その刀の所在は不明となっていた。次にそれが戒羅に登場するとしたら、それを扱うのは壬生を破った己であるはずと、二人は思っていたのだ。が、それが全くの見当違いで、挙句にその凶刃に湖袖の姉が倒れてしまったわけである。心中は大いに乱れた。
 想像すべきではないのだろうが、もし己が壬生を破らず、禍差があのまま戒羅にとどまっていたのならと思ってしまう。もちろん、考えたところで時間が戻ることはない以上、因果の残酷さを恨むしかない。だが、恨めば恨むほど、己の闇が濃くなっていくのも事実だ。
 一江の命は、朽丸らが香治の国にやってきた理由の半分だった。二人は下津留の泉家に流れる水の神代の血を守るために、祖国を離れてここへやってきたのだ。それなのに、泉家の長男であった九代目洲汪帝と三女の波織を亡くしたのは祖国での出来事だったが、それに加えて長女まで失い、残るは次女の湖袖だけとなってしまった。
 二人は、とくに朽丸は、是が非でも湖袖を守らねばならない。もとよりその覚悟はできていたのだが、眉間のしわは一層深くなった。
 錆丸は、それに加えて隠し事を一つ抱えている。
 昨年の龍頭節に御所の南東を占める一帯、霞辺(かすみべ)を探った時のことだ。
 そこには指では数え切れぬほどに赤子の躯が転がっていたのは朽丸に伝えたとおりで、その帰りに、数人の男が森の中で密会し何かを話し合っていた場面に出くわしたことも、その中に犬見と加々美が居たというところまで含めて話してある。
 問題はその後だった。
 朽丸は、その事を捨て置けと錆丸に命じていた。しかし、錆丸はどうにも気にかかっていた。事案そのものよりも、犬見という人物に。
 集落で顔を合わせたのは通りすがりの一度だけだが、その視線に覚えがあった。もっとも、どこで感じ取った視線かまでは思い出せない。比較的新しいように思えるが、ずっと昔のことだったようにも感じている。
 犬見の齢を考えれば、重なる人物は亡き頭領をおいて他にいない。とはいえ、頭領の変装が見破れるほど、錆丸は愚かではないし、朽丸はもっとそうだろう。
 その視点で言うならば、朽丸は犬見のことを歯牙にもかけていない。朽丸になくて錆丸にある経験と言えばそれは下津留のすべてだが、一言で振り返れない年月を、受けた視線だけを頼りに探るには困難を極める。
 そうした理由があって、錆丸は朽丸に隠したまま犬見の観察を始め、夜半に出かける犬を見張る梟になった。
 だが、春先にばれた。
 たまたま己が潜んでいた樹の洞(うろ)に眠っていた兎のおかげで捕らえられはしなかったものの、逃げたふりをして物陰で盗み聞いた犬見の声が、いつまでも耳に残っていた。
『六年になるか』
 それが犬見の言葉だった。
 あちらが人違いをしただけかもしれない。しかし、もし己を指しての言葉だとするならば、その年月はちょうど錆丸が錆止となった時期に重なるのだ。
 今の時点では、それがこの後どう働くかを予期することはできない。しかし、このまま捨て置くのは危険であると、己の心が、不安という体裁を装って訴えている。
 朽丸に伝えるべきであることは分かっているが、不安は伝染病のようなものだ。人から人に伝播し、大局さえも動かしかねない。ただの己の不安を、湖袖を守らねばならぬ二ツ影にはうつしたくなかった。
「ともかく、今日の戒羅で俺の神覧試合の出番はなくなった」
 住処に着くなり、やけになったように朽丸が言った。
 話の主題を思い出し、気のない相槌を打つ。
「後は当日、手前が試合で見せ場を作って視線を集め、その間に俺が法皇のお座敷回りを探る」
 その決め事に文句はない。だが、問題が一つある。錆止が何試合目を任されるかということだ。もっとも注目される納メ式ならば好都合だが、果たしてどうだろうか。
 己の勘に尋ねたなら、錆止は納メ式に呼ばれないと答えるだろう。去年の壬生の一件以来、避けられているように感じるのだ。とはいえ、勘は理由までは教えてくれない。だからこそ勘でしかないのだ。
「やもすると納メ式は無理かも分からねえが、どうであれ盛り上げてくれりゃいい」
 朽丸の勘もまた、同じ答えを出していたようだった。
 しかし、そのあとに続いた言葉は、少し違っていた。
「それと、もし手前の贄姫役が湖袖様であっても、顔に出すなよ、四ツ」
「湖袖様が?」
 今まで通りならば、それはありえないはずだ。姫守は贄姫が直々に指名するのが戒羅の決まりである。それを利用して湖袖は朽丸を指名することを望んでいたが、我々の繋がりを疑われては困ることを理由に、そのようにさせてこなかったのは朽丸の考えによるものだ。だから、朽丸のその代わりに村雲という男に目をつけ、今のいままで姫守を務めさせてきたはずである。
「村雲殿に不満が?」
 その内密の習わしを止めるというならば、そこを疑わざるを得ない。
「ねえよ」
 朽丸はあっさりと否定した。
「だが、神覧試合だ。戒羅の組み合わせがいつもと同じように運ぶとは限らねえ。ここ数週間の品定めで身に染みているだろ?」
 確かにそうだ。張り番は神覧試合を盛り上げるために、そこに登場する戦い手をふるいにかけようとしている。
 かの男の腕は確かだが、最上位ではない。事実として、湖袖が勝たせた戦いがいくつもあることは錆丸や朽丸くらいになると当事者でなくとも分かることだ。彼の腕で果たして神覧にふさわしいと判断されるかは微妙だった。
「仮にいつも通りに運ばれたとしてもだ、湖袖様のような本物の神代と組み合わせられるとは思えねえ。せいぜい前座だろう。もしくは、浦春のような法家にゆかりある人物の出しにされるだけだ。斬り殺されて、蘇生させられるとか、な」
 かつての、壬生の餌である。
「その点、手前は間違いなく神覧に呼ばれる。湖袖様もそうだ。そして、どちらも納メ式には出ねえだろう。となれば――」
 錆丸に想像させるためにか、朽丸は言葉を切った。
 率直に、顔には出まい、と思った。
 実のところ、二の姫湖袖とは生涯を通じて言葉を交わしたことがない。二の姫と四の姫が話すことがあっても、二の姫と二ツ影が話すことがあっても、また四の姫と四ツ影が話すことはあっても、数字を違えた姫と影が会うことはないのである。
 朽丸には、二人の初めての対面が戒羅の場になることが杞憂なのだろうが、むしろ面識がないことのほうが好都合でもある。
 結局、やるべきことは姫守としての務めを果たすことを越えないのだ。贄姫を殺めれば死罪となる戒羅での姫守の務めとは、四ツ影であったころの己の務めに比べれば何ら難しいものでもない。
「役を務めれば良いまでのこと」
 決して易く考えているわけではなかったが、錆丸はそう答えた。

続く