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神代の子 ―諸―

四.

 着物の丈の揃わない、童(わらべ)であったころの記憶である。
 どちらかと言えばという前置きが不適切なほどに、糸蘇は活発な女児だった。お転婆と言われればそれまでなのかもしれないが、己の言い分は違っていて、ただ外で遊ぶのが好きなだけだった。齢を覚えたころにして既に人生の短さを知っていたわけでもないのに、部屋にとどまって書や読み物に更けるのはもったいないように感じていたようにも思う。
 そうはいっても、食事の時はきちんと姿勢を正していたし、神主の孫としてやるべき務めは慣例通りに行った。もっともそれらは、逆らえば寅之雄に厳しく叱られるから大人しいふりをしていたにすぎない。性分は、やはり動き回ることが好きだったのだ。
 そうした性格が幼少期の糸蘇を霊峰龍臥峰(りゅうがみね)に連れ出し、遭難寸前にまで追いやるという一大事を招いた。名賀家にかかわる者ならば誰もが知るあの件(くだん)は、歳末の社を清める時期の出来事だった。
 今にも共通して言えることだが、霊峰の八合目に位置する本殿は一日のうちに清掃を終えねばならない。社務所すらない八合目には泊まり込むこともできないし、用具を持って往復するのは一日だけでも大変な苦労になる。
 社に務める権禰宜たちは、神に仕える者としての振る舞いを習得するための下積みはあるが、仏僧のように徳を高めるための修行とは違っていて、肉体的にも精神的にも己を追い詰める類の経験は積んでいない。ただただ、お勤めとして社に詰める者だ。そのため、荷を抱えた登山を二日もやろうものなら、権禰宜たちは悲鳴を上げてしまうのだ。
 その、毎年の末に待ち構えている大ごとに対して時間をかけられないのならば、代わりに人手をかけるしかない。名賀神社に勤める者たちがすべきことは、社を閉ざして、動けるものはみな一様に働くということだ。
 日頃糸蘇を世話していた母の麻桐さえも、その例外に当てはまろうわけもなく、では麻桐が本殿に上っている間に、親の目が必要な糸蘇をどうするかということが問題になった。
 おそらく、誰もが懸念したのだろう。実母でさえ手を焼いていたお転婆の面倒を、ほかの権禰宜が見られるものか、と。麻桐を除けば寅之雄が候補に挙がるが、神主がその大ごとを他の者に任せて孫娘にかまっているようでは威厳が保てない。千代が祖母としてこの世に健在であったなら、任せることもできたろうが、世の中はうまくできていなかった。
 神主と権禰宜たちの思案の結果、糸蘇も本殿に上ることになった。そのほうが楽だろうと大人たちは考えたのだが、糸蘇自身はまだ杉の丸太を手で乗り越える齢だったために、一人というより一個の荷となって、童の登山は鼻から大人を苦しめた。
 大人たちの苦労のおかげで大した疲れもせずに本殿に上がった糸蘇は、いくらかの周囲の目はあったものの、自由を得て気ままに本殿を探検した。何も初めて訪れた場所というわけではなかったはずだが、清掃のためにそこここが解放されている本殿は、新鮮そのものでだった。
 あの時の細かな記憶は時という名の旅人に預けてしまったが、白布に垂らした墨滴のようにはっきりと、覚えていることがある。
 もっとも、そのような事態になった経緯はまったく記憶にない。ただ糸蘇は、いつの間にか御神体の入った木簡を手に取り、たった一人で山を下ったのだ。その結果まんまと道に迷って、真冬の山中を一人さまようことになった。もしあの時、誰も糸蘇を見つけてくれなかったら、糸蘇の人生は短さを知る間もなく齢一桁で潰えていたことだろう。当たり前のことずいぶん叱責されたが、糸蘇が感じたのはなによりも安心であり、次いで探してくれた皆への感謝だった。
 それが、年を越えて春がすぎて夏を迎えた頃から、妙な印象が加わるようになった。当時の出来事が話題に上がると皆の口から一様に、不可思議なことだった、と同じ言葉が沸いてきたのだ。大変な重さの木簡をどう運んだのかとか、大人でも苦しい霊峰の岩道をどうして転落せずに駆けたのだとか、よく祟られずに済んだものだといった、父母や権禰宜たちの驚きにまみれた感想だった。
 しかし、糸蘇の抱いた印象はそれらとは全く違っていた。いつぞやの時の旅人は、糸蘇の抱いたその印象すらも少しずつ預かっていき、やがてはその出来事も忘れ去っていった。
 今、糸蘇はそんなことを思い出しながら自室前の庭を一望できる縁側の上に一人で座っている。
 朝から降り続く雨は、人々を家屋に押し込めるものなのだが、今日はその限りではないようで、糸蘇のいる贄姫たちの居住域からは人の匂いがしなかった。
 もうじき、内裏の一角で神覧試合の組み合わせが発表される頃だ。普段ならば、あらかじめその日の戒羅に出番が回って来るか来ないか知らされているものだが、今回の神覧ではその限りになく、贄姫が姫守を指名するといういつもの規定さえ無視された運びになっている。どうやら張り番は数十年前の神覧試合の取り決めを掘り起こすのに苦労したようだ。
 己はといえば、内裏の一角を埋めているだろうその喧騒の中に入るつもりも、見物するつもりもなかった。神覧試合のどの順番で呼ばれようと、出るつもりは毛頭なかったからだ。いかに糸蘇であっても例外なく罰則に値する行動だとは承知しているが、もう心に決めたことだった。
 その穏やかでない空気を避けようとしているわけではないだろうが、雨は糸蘇を避けて、周りを埋めるように降り注いでいる。まるで雨粒に意思があるような奇怪な動きは、蛙が見たら大海を知るどころではすむまい。
 このような奇妙な事は何も最近起こり始めたわけではない。
 発端は半年前に起きた真夜中のぼや騒ぎであった。例によって、悪夢にうなされた灯放が家屋を燃したもので、いつも通りに湖袖が火を消し止めた。
 ただ、些細なことではあるが、いつもの例から漏れたことが一つだけあった。それは、灯放の火が天井を焼いたことだ。おかげで湖袖は天井へも水を浴びせることになり、辺りにはちょうどの今の雨のように水が滴った。
 糸蘇はその中を歩き、奥で縮まっていた灯放をいつものように連れ出した。その後、寝室に戻り、再び布団に入ろうという時になって、気が付いたことがあった。衣はおろか髪さえも濡れていなかったのだ。すぐに、湖袖が陰ながら気を遣ってくれたのだろうと考えてみたが、最後にみた湖袖の眼が青くなかったことを思い出し、糸蘇は違う可能性を探ることにした。
 数日をかけて、糸蘇はついにその正体を突き止めた。一言に己だった。いつからか分からないが、水を操るようになっていたのである。
 身に起こった変化はそれに留まらない。五行のうち、水に加えて火と土、さらには僅かであるが木までも、手に触れずに力を加えることができるようになっていた。特に土は顕著で、糸蘇は己の手に圭子の分身を見ているような気分になった。
 なぜそのような変化が身に起こったのかを考えたところで、説明することはできない。しかし思うにこれは、名賀家に大兄上尊(おおえのみこと)の血が流れていることを証明するものだ。それを信じたことは一度もなかったが、一度信じれば少なくとも己の力に関しては無理のある話でもなくなってくる。
 なぜ今更その力が己に現れたのかは腑に落ちるところではないが、糸蘇はいま、湖袖らと同じ力を手にしていた。
 巫女のとっての神代の力とは戦い手にとっての刀と同じである。誰しも、力を得たのならそれを試したくなるのが心情というものだろうが、糸蘇はそうしていない。なぜならば、そこには恐れがあったのだ。
 確かに、もし己が、圭子や湖袖、そして灯放のような集団を生かしも殺しもしうる力を手に入れたら、一番に恐れるだろうと考えたことはあった。しかし、今の糸蘇が感じているものは、そのような“力の行使”に対する恐れではない。それよりも深い、行使の先にある何かへの恐怖だった。
 何かとはなにか。
 その答えは半年の間みつけられることができず、ただの不安として胸中にあり続けたが、今朝、霊峰で遭難した夢を見た時に、突如としてその答えを見つけた。
 幼いころのあの強い印象が胸中に蘇ったのである。時の渦から忘れ物を取り出したかのごとく。
 あの時はまだ、うまく言い表せない感情の一つにすぎなかったが、今ならばそれを形容する言葉が見つけられる。あれは強迫観念だった。すぐに御神体を持ってこの場から出ていかねばならないという、すさまじい強迫観念だった。
 今の、己が身に着けた神代の力に抱く感覚は、至極それに近い。
 驕るわけではなくとも、事実として自身は大兄上尊の末裔に当たる。五行を司った人神ともいわれる者の血を継ぐ己が五行の全てを操ることと、圭子や湖袖らがそれぞれの力を操るするのとでは、大きく意味が異なる気がしてならない。
 もっと言うならば、自身が五行の力を律することでこの世に何かをもたらしてしまうのではないかと感じているのだ。御神体が何か不吉なことをもたらすと感じたあの時と同じように。
 入れた力を人前で披露する気が起きないは、この感情が底にあったからだろう。
 もちろん、永遠にこれを隠し続けるつもりもない。この力はいずれ法皇へ剥く牙であり、その時は着々と近づいている。糸蘇は、このように人知れず力を制御することを身に着け、牙を研いでいるのだ。
 
 神覧試合の組み合わせが告知される頃合いが近づき、普段は事前に招集された戦い手たちだけが集うその一角は、異様に混み合っていた。野次馬のほうが多く、村雲は舌を打った。もっとも、己でさえも名を告げられなければ、そうした役に立たない馬になり下がる。
 これ以上は人が入らないだろうと思えるほどに群衆が膨れ上がると、群衆のざわめきは一層大きくなった。こういう時は不思議なもので、真ん中にいる奴ほど声が大きく、虚勢を振りまく。得てしてそういう輩の発言は物騒で、己のことしか考えていないものだ。己が名が呼ばれなかったたら一党で張り番を脅してやろうなどと意気込んでいる。
 戦い手はそのほとんどがならず者であるから、当然張り番も備えているだろうが、万が一の時には仲裁に入る者が必要になる。もし、己も名を呼ばれなかったら、その仲裁役は買って出るつもりでいた。張り番を助けてやろうというよりも、徒党を組む輩を好いてはいないからだ。そうした素行の悪い輩がこの集落にいるのは場違いだ。
「ふん」
 村雲荒くため息をつくと、それを待っていたかのように声をかけてきた者がいた。
「しばらくでござる」
 視線が隠れるほど目深に笠をかぶっていたので一目では分からなかったが、のぞき込めば錆止だった。
「おう。朽果は、来るわけもないか」
「……ふて寝してござる」
「はっ」
 村雲は軽く噴き出した。神覧試合に出番がないことぐらい当然自覚していようが、畳に寝そべっている姿を思い浮かべるとおかしかった。それも、明日は我が身かもしれない。
「率直にどうだ? 俺に出番はあるかな」
 戒羅の頂点に立つ錆止なら分かっていよう、と小声で訊いてみる。錆止は笠のほつれた隙間越しに村雲を眺め観た。嫌な間だった。
「いや、やっぱりやめた。答えなくていい。すぐに分かることだ」
「五分五分かと」
 村雲のかいた恥と行き違うように錆止が答えた。
「五分五分かよ」
 なお、ばつが悪い。
 村雲がむっつりと黙ったところで、集まった者たちの声が少しずつ小さくなり始めた。長らく待たせて、ようやく張り番が顔を出したのかと思ったが、どうやら違う。
 あまりに張り番が姿を見せないので、集まった者たちの世間話も尽き始めたのだ。やがて雨音のほうが存在を主張するようになり、お呼びでない半端者たちが少しずつ一角を離れだした。
 なるほど、張り番はこれを待っているのか。村雲は一人合点する。
 野次馬とは熱っぽい集団だ。雨を浴びれば、言葉通りに頭を冷やして引き下がると最初から分かっていたわけである。ただ、それは諸刃でもある。待たされた結果が落選だと知ったら、頭の水も蒸発する。その時は去った者たちの分だけ、張り番が怒りを食らう可能性だってあるのだ。
 もっとも、それさえも隣にたたずむ男が歩み出れば、片付いてしまうのかもしれない。
 錆止は村雲がちらりと流した視線を雨粒と同じように笠で流して、整然としている。村雲は鼻息を荒く吐いて元に直った。頭のどこかで、この小柄な男とは当たらないことを望んでいたが、心のどこかで交戦を臨んでいる。
 と、急に辺りがざわついた。
「どうやらお出ましらしいぜ」
 村雲の言葉に錆止の笠が頷いた。
 いつもは間に立っている朽果がいないせいか、着物の左右を間違えたようなくすぐったさがある。二人は前に出たり、後ろをとったり、ちぐはぐな足並みで空き始めた人込みをかき分け、張り番の近くにまでたどり着いた。
 張り番は普段見かけないほど大柄で、二人の槍持ちを従えていた。ずいぶんと人が捌けても、警戒に値するということらしい。それほどまでに戦い手から不満が噴出しかねない組み合わせにしたのかと思った時に、張り番の視線が錆止に飛んだ。五戦執り行われる戒羅のうち、一戦目を担当する者の名を告げる前に、見たのである。
 嫌な予感がした。が、それをすぐに実感が上塗りした。
「蒔キ式。贄姫役、阿佐子。姫守役、錆止。鬼手役、犬見」
 張り番が告げた瞬間、雨さえも途絶えたように思えた。
 誰もが口を開けて錆止に注目した。
「おい、何故だ。今年に入ってから未だに一敗もしていない男だぞ」
 黙って立つ錆止に代わって村雲が代弁する。
「熟慮の上ゆえ、異論は受けぬ。容赦されたし」
 張り番はきっぱりと言って、二人の槍持ちが少しだけ刃先をこちらに倒した。それを気にかけることは全くなかったが、何よりも錆止自身の手に制されて、村雲は出ようとする右足を止めた。
「予想していたことでござる」
 そう柔和に言いながらも、左右の目に余裕がないことは見て取れた。
 戒羅の告知は、大きな騒めきを引きづったままに続いた。
 張り番にとっては仕事がしやすい環境になったのだろう。納メ式に呼ばることが期待されていた人間が蒔キ式を任され、それを当人が騒がなかったことで、他の者たちが文句を言えない状況になったのだ。
 村雲は頭の中を他の雑多な思考に占拠されて、木偶のように立っていた。
「――村雲。鬼手役、スオウ。以上」
 不意の呼び声に我を取り戻すと、張り番は人目だけ合わせてさっそうと背を向けてしまった。
 すぐさま、今度は“以上”という言葉が頭を占める。どう考えても、その言葉が意味するのは最後でしかなく、つまり納メ式のことだった。
「おい、なんだ。俺は――」
「納メ式でござる。贄姫役は糸蘇様、姫守役にお主。鬼手役には……スオウと申してござった」
「糸蘇と納メ式? なぜ俺が? 湖袖はどうした?」
 呆れた顔をひた隠して、錆止が答える。
「呼ばれてはござらぬ」
「湖袖までが? 神代だぞ?」
「神覧試合とは、格別なものなのでござろう。それより、気を付けられよ。スオウという名は初めて聞く。それにお主の組み合わせは――」
「皆まで言うな。分かっている」
「……互いに武運を」
 錆止は片手を上げると、片手を頬に当てて考え始めた村雲とは対照的に、さっそうと立ち去って行った。
 錆止が言おうとしたのは、糸蘇が贄姫に立つ時は蘇生の術を使う時だということだ。かつては、壬生という戦い手が必ずついてきたものだが、半年以上前に錆止が打破して以来、壬生は姿を消している。
 この神覧試合でその様式を戻そうというのか。だとすれば、村雲の相手はスオウというよりも禍差と言ったほうが実感がわく。
 村雲は腕を組んだまま、人のほぼ捌けたその場に留まった。
 告知の後には、それを書き留めた看板を置くのが決まりだ。そこにあるだろうスオウの字面だけでも確かめておきたかった。
 半刻を待たずに、張り番が看板を担いできた。先ほどとは違い、幾分若輩の雑用のような小男だった。
 数人の野次馬にまぎれて、村雲はその看板を食い入るように見た。
  朱往――
 方角を意味する朱に、生き死にの死を意味する往。字面まで壬生を思わせていた。

続く