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神代の子 ―諸―

五.

 雲行きがどうというより、世の中のすべての雲がここを目指してやってきたかのような、青の入り込む隙間のない曇天が記すべき大安の日の空模様となった。雨こそ降っていないものの、掛け声一つで泣き始めるかもしれない危うさがある。それでも、神覧試合の名義は人々の足を祭儀場から遠ざけなかった。
 蒔キ式の始まる半刻以上も前から、見物席は群衆で埋め尽くされている。これ以上の人の入りは見込めないほどに、人があふれていた。空の雲と同じく世の中のすべての暇人を集めたような様相だ。雲が水を含む一方で人は熱を帯びていることだけが、双方の違いだ。
 その群衆のどよめきを、錆丸は少し離れた控えの間で座って聞いていた。既に装束をまとい、心以外の準備が整っている一方で、鬼手を務める予定の犬見はまだ現れていない。
 この盛況な人の出入りと神覧試合という言葉のおかげで、例えこれが最後の戒羅だったといわれても、少なくとも錆丸は違和感を覚えない。己に限らず、多くの戦い手はそう感じるだろう。実のところ自身にとってはこれが最後になるかもしれないことは、錆丸と朽丸の予感でもある。
 世紀の一戦と言ってよい神覧試合において、最高峰となる納メ式に戦い手の役割を与えられなかったということは、この先が望めないということだ。
 下津留を離れたのがおよそ六年前。発端は下津留に起こった禍差の変であり、ここへ導いたのは朽丸だった。その目的は、湖袖を守り、同時に泉家に流れる水神の血を守るためである。
 湖袖をつれて法家の手の届かないところに逃げるのが正しい道だと誰もが言うところだが、朽丸は、すでに法家に目をつけられていたことを逆手に取り、総出で戒羅に乗り込むことを決めた。人目に触れる役どころならば、安易に闇に葬られないだろうと踏んだのだ。
 二ツ影朽丸のもくろみ通りに事は運び、二の姫湖袖はこれまでの歳月を無事なまま暮らしている。だが、いつまでも蛇に囲まれた井の中にいることは、三人の誰も望んでいないところだ。
 打開するには、下津留で暗躍した名賀家に接触し、その動向を探る必要があった。そして、それにはまず禍差と密接につながる名賀糸蘇に近づく必要があり、つまりは戒羅の頂点に立つことだった。
 錆丸も朽丸も、そのためならばといくつもの厳しい戦いを切り抜けていた。廃れ者として身に着けた修羅の力は誰にも負けるものではなかったが、武家出の者と偽って戒羅に加わった経緯から忍びの戦い方は捨てなければならず、それが二人の戦いを難しいものに変えた。
 それでも五年という歳月をかけて、錆丸はついに戒羅の頂点に立った。だが、その結果はというと、名賀糸蘇には遠ざけられ、神覧試合では注目度の下がる一つ目の試合に回されている。
 こうなってはもう、別の手に頼る他にない。祖国の十川京に流れ込む二本の大きな川と同じように、交わることがないのならば、どれだけ期待しても今後は離れるばかりなのだ。
 もとより、名賀家とのつながりを持つことだけを念頭に六年も費やしてきたわけではなく、実のところ、別の手はもう打っている。それは、法家と名賀家が神代の血を狙う理由を、偵察により探り当てることだ。
 理由を探り当て、それを消すことができるならばなお良い。湖袖が狙われる理由がなくなれば、三人そろってこの集落を離れることができる。
 今この時、朽果はそれを探るために戒羅を見るために平端を訪れている法皇の近くに潜り込んでいるはずだ。その間、湖袖が二人の視野から外れることになってしまうが、その手も打っていると聞いている。
 すべてがうまく運んだ時こそ、三人にとっての物語の終焉となるだろう。それは同時に、錆丸が刀を置く日になるかもしれない。
 錆丸は造作もなく刀を抜いた。
 この集落へ来てから手に入れた白波刃紋石切は、郷里を発ったあの時の満月に照らされた海を表すような、静かな輝きを放っている。しかし、幾度となく猛者たちと交えた刃は、刃欠けが目立ち研いでも修復できないほどに痛んでいた。刀が己の限界を告げるようでもある。
 報われなかった五年という思いがそこに覗けて、錆丸は床に目をそらした。だがこれは、いま受け止めなければならないことなのかもしれない。
 毅然として、再び刀身を見た。そこには、鋭い眼差しが二人分並んでいた。
 映り込んでいたもう一組の目は犬見のものだった。いつのまにか背後をとられている。戦地なら、命にかかわることだ。
 すぐに距離を取ろうと錆丸の足の小指は反応したが、結果として一歩も動かさなかった。動けば心の動揺も見透かされる。そう悟った。
「ふん」
 犬見は鼻で笑い、錆丸の背から離れていった。
 その後は互いに一言もかわすことなく、控えの間には蜘蛛をも殺すほどの静寂が同居した。相手も分かっていることだろう。この静寂を解くのは戒羅の大太鼓でしかないことを。その思いの通りに、二人を祭儀場に促す小太鼓の音では、張り詰めた空気は解けなかった。
 祭儀場に入るとまず群衆のざわめきが、次いで雨が降る前の湿った匂いが、それぞれ耳と鼻を突いた。
 錆丸は、目の隅で犬見を捉えたまま離さずにいる。村雲と戦った時は、所定の位置に向かいながら札を仕掛けた男だ。目を離すなとは村雲本人からの助言でもあった。犬見にもそのことが伝わっているのか、鬼手役を務めるその男は何一つ不自然な動きを見せないまま、定位置についた。
 一拍の静寂――。
 この場に知る誰もが、戒羅の開始を告げる大太鼓がなる前に訪れる、一瞬の静寂をそう呼ぶ。全ての観衆が息をのむ瞬間であり、全ての戦い手が息を凝らす一拍である。
 張り番に打ち鳴らされた大太鼓の音が大気を揺らし、雨雲を起こす。二人の戦い手の一歩目よりも、雨脚のほうが早かった。
 二人の足が玉砂利に杭打たれたように固まっているのにはわけがある。最初の戦いをいかに有利に運ぶかは、一歩目の足運びに掛かっている。つまり、最初の一歩から、間合いの詰め合いが始まっているのだ。どちらの足で動き始め、どちら足で最後に跳ねるか。その駆け引きである。
 群衆はそのことを解さない。間の取り合いは剣の届く範囲の外周でしか発生しないと思っている。互いを視界にとらえた時点から、押し引きが始まっていることを知っているのは、強者と呼ばれる域にまで達した者たちだけだ。
 ようやく踏んだ一歩目は、錆丸のほうが僅かに早かった。同時のように見せて、あちらはこちらの動きに合わせてきている。このまま二歩、三歩と同じ感覚で踏めば、刀の間合いに触れるのは左足になる。右利きの錆丸にとって無防備ともいえる姿勢だ。犬見はそうなるように歩幅を調整してくるだろう。
 ならば――。
 錆丸は二歩目を左前に大きく踏んだ。犬見は動かない。互いの距離が変わらないことを読んだうえで、そうしたのだ。
 計算では勝敗はつかない。錆丸はそう悟った。となれば、あちらには出せない速さで仕掛けるのが戦術というものだろう。ただ、それをやるには武家の作法は捨てなければならない。
 犬見はそれすら見通していて、誘っている。やはりあの男は、錆止が錆丸であることを知っているのだ。
 疑惑が確信に変わった瞬間に、二つのことが錆丸の脳裏を占めた。あちらの正体を暴くか、口を封じるか。後者が最も手っ取り早い。
「おい! 早くやれよ、前座!」
 色のない野次が錆丸に届く前に、下津留一の俊足が玉砂利の上を駆っていた。ただ闇雲に突き進むのではなく方向を変えながら、しかし確実に距離を詰める。
 犬見は巧みに己の間を保つように距離を外して反応したが、しまいには諦め、その場に居直るかのように立ち尽くした。
 錆丸の足は自身の気づかないところで観衆さえも置き去りにしていた。このような速さで動く武者を目の当たりにしたものは、未だかつていないだろう。忍びという言葉を耳にするほどには姿を目にしない世の中で、今の錆丸の姿をそうした存在に結びつける者は少ないはずだ。
 雨脚のせいもあってか、静まり返った祭儀場に玉砂利のはじける音が連なり、錆丸が大きく跳躍した瞬間に音は途絶えた。跳びながらに白波波紋を引き抜くと、いくつかの雨粒が斬れ、犬見の鬼面に拭きかかる。
 こともあろうか、犬見は錆丸の真剣を鬼の面で受けた。普段なら、面が割れて戒羅が終了となる一撃だ。それを期して、忘れていたかのように群衆が声を上げたが、鬼面はなお犬見の顔にあった。規則では面が地につかない限り、鬼手の負けにはならない。
「面をすり替えたわけではない。これは神覧用の特別な拵えだそうだ」
 着地と同時に距離を置いた錆丸に、犬見が弁明する。言葉通り、戒羅が簡単に終わらないように鬼面を頑丈にしたのは張り番の入れ知恵によるものだろう。錆丸は、むしろ好都合だと思った。
 今の錆丸は犬見の首を突き刺そうとしていた。顔をつき出されて距離を消されたために、刃を立てる間が保てずに失敗したが、狙いは咽喉に絞りこんでいたのだ。ただ口封じのためにであった。
 面が落ちないようにできているというのなら、殺める理由になる。そうせねば戒羅が終わらなかったと言えば良い。
「……死闘を望むというわけか」
 犬見の一言が互いの脚を誘い、それぞれの腕から延びる刀が一拍も置かずに二度重なった。
 犬見の太刀筋は予想以上に重かった。見れば普通の太刀より肉に厚みがある。斧ほどではないが、鈍器のような一面も併せ持っているようだ。打ち合うべきではない、と傷だらけの白波波紋が告げている。
 自身と犬見のつま先が結ぶ一間の線を断ち切って、錆丸は間合いの外に出た。ゆっくりと正眼の構えを捨てて、身を低く、かつ刀が背に隠れるよう半身に構えた。
 正々堂々の対局にある忍びの構えに、祭儀場はどよめいて、鬼面の奥の犬見の眼差しは険しくなった。
 錆丸は音もたてずに刃を逆手に握っている。
 刃を逆さに握る利点は、屋内の戦いにしか見出すことができない。逆に持てば否応にも刀の殺傷能力は落ちるし、間合いも極端に縮まる。狭所では壁や柱や天井を意識せずに動けることが好都合に働くが、広大な空間のある祭儀場では無意味だ。
 それでも逆手を選ぶのには訳がある。一度懐に入りさえすれば、この上なく動きやすい握り方だからだ。己にはそれを可能にする脚もある。
 もっとも、大柄とは言えない犬見は懐に入り易い相手ではない。当人もそれを嫌うだろう。だが、肉厚の刀は必然的に大振りになる。誘えば必ず、懐が空く。気を付けるべきは、いつぞやに村雲がまともに食らったあの蹴りだ。
 再び訪れた一拍の静寂を、踏み倒すようにして二人は動いた。
 錆丸が刀を背に隠したまま飛び込むように低く入る。
 鬼面は無表情なままに錆丸を見下ろしたかと思うと、体を反るほどに刃を振り上げた。
 ――誘いだ、と瞬時に錆丸は察した。
 これは、犬見がこちらの狙いを察して隙を見せたばかりではない。錆丸の視線を上に引き寄せたことで、隙を誘うものだ。
 眼の下では、犬見の蹴り脚が地を滑る燕のように下から這い上がってきた。重めの刃を振り上げることで器用に重心を保ったまま、蹴り脚が乱れのない軌道を描いている。
 錆丸はその蹴りを受け止めるのではなく、避けるほうを選んだ。この男なら、つま先に刃を仕込むことも厭わないだろうと、察したがためだった。
 忍びの勘は、一部で当たっていた。
 犬見の脚には確かに仕込みがされていたが、それは刃のような想像に安いものではなかった。
 避けたはずの脚が通り過ぎた後、錆丸の頬を何かが打った。ずしと重い感触が、頬骨に激しく響き、骨格がゆがむほどの痛みが顔の左半分を襲う。
 景色が反転した後で視界に飛び込んできた犬見の脚には、先ほどまではなかったはずの鎖と、さらにその先に鉄球が括り付けられていた。
 錆丸は隠し玉にまったく気づいていなかった。戒羅が始まる前から裾の裏に隠していたのかもしれないが、配置につくまでに観察していた限りで不自然な足取りではなかったのだ。
 しかし、それならば鉄鎖の先に付いた玉はそれほど重くはないはずで、実際に足を引きずるほどの鉄球なら、自身の頬は陥没していたことだろう。
 錆丸は間合いを見計らいながら半歩だけ犬見に近づいた。
 鉄球に味をしめて間合いを誤ったのか、犬見の右足が再び動き出す。
 同じ一撃を避けられると確信していた錆丸は、鉄球が鼻先を通過して犬見の脚を引っ張るような格好になるのを待った。そこに必ず隙が生じると分かっていたからだ。
 だが、錆丸の考えに反して、鉄球はまたしても錆丸の頬をより強く打った。

続く