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神代の子 ―諸―

七.

 一年と半年。
 人が汗水を垂らして働いたなら、その年月は束の間だろうか。人ならずも鶴亀ならば、産毛が生えるよりも短いものだろうか。年月とは不確かなものだ。植物でさえ実をつけるものとそうでないものに分かれるのだから、人にとってのその価値はなおさら変わるものだろう。
 ただ、他人はどうであれ、糸蘇にとってのこの一年半は大きな意味を持っているということは確かに言えた。
 糸蘇にとってのそれはちょうど、父、玄仁が行方をくらましてから経過した年月であり、奇しくも糸蘇が真の神代としての力を急速に身に着けるようになった年月でもある。その間に、慕っていた人間がこの世を後にしたことも、忘れることはできない。
 もっとも、それほど内容の濃い歳月も、決して長いとは感じなかった。
 誰に問われるでもなく、糸蘇はそう自答する。
 もちろん、短くもなかった。そう思うのは、確かに間に起こった物事の数は多くあれど、時の経過を深く意識したことは少なかったように感じているからだ。歳月を気にかけて過ごしたのは父の失踪から間もなくの頃だけで、その後は、とくに壬生をこの世から送り出して以来は、いかにして法皇に報いるかということに心血を注いできた。
 そして、今まさに、その時が来ようとしている。神覧試合の今日この日を後にしては、もはや機会などないと考えた方がいいだろう。法皇を殺すならば、周囲の者たちの油断が生じる戒羅の間、つまりは日が沈むまでの勝負となる。
 糸蘇は平静を装って、人けのない内裏を徘徊していた。
 最も名の知れた贄姫とあって、平端のどこに顔を出そうとも糸蘇を怪しむ者はおらず、まして詰問する者などはいるはずもなかった。顔を見れば誰もが会釈をし、蛇をまたぐかのごとく、すっと歩き去っていく。腫物のような扱いを受けているのは自覚するところであった。
 内裏を巡る回廊は、空を覆い尽くした梅雨の雲が陽の光を遮っているせいで、湿気の多い床下のような空気を帯びていた。
 もし、すべてがうまく運び、糸蘇がすべてから解き放たれる時が来るとするのなら、初めにすべきは、二週間以上も前に梅雨の終わりを占った陰陽師たちに詫びることかもしれない。なぜなら、この雨雲を呼んだのは己だからだ。
 その行動に及んだ理由は二つあった。一つには、景色を暗くすることによって室内に浮かぶ闇を増やし、行動をとりやすくするため、そしてもう一つには、これから始める己の蛮行を、尊い陽の元で進めたくなかったためだ。
 これほどまでに強い雨を降らせることができるとは期待していなかったが、自身に芽生えた神代の力は本当に自然さえも手中に収めるほどになったということだろう。いつのことか恐ろしいと思った湖袖の水神の力を、気が付けば己で体現している。少しも笑えやしないが、おかしなことではあった。
 今の己には水に加えて、火と土の神代の力がある。どう試しても、五行の残りである木と金を手繰る力は目覚めることがなかったが、五行相生と五行相克を踏まえれば二つの力が備わっていなくとも補えると睨んでいた。すなわち、土が金を、水が木を育むという理である。
 ただ、それをどう扱って法皇を殺めるのか、その策はない。己の持つすべての力を彼の御仁にぶつけることは、何ら難しいことではないと分かっているが、その周囲にいったい何人の、罪のない下人や武士たちが立っているのかは分からないのだ。いかに己が罪人として扱われる覚悟があっても、あるいは命を賭するそれがあっても、他者を巻き込むそれはない。ただ、それが己の命取りとなりうることを、一つの覚悟のうちに含んではいた。
 糸蘇の脚は、矢のようにまっすぐと法皇の御座を目指している。天上楼と呼ばれるその場所は、大掛かりにも今日のためだけに、ここ三か月の間に建立されたもので、糸蘇に限らず、戒羅の内務に関わる者達の間じゅうに知れ渡っていた。祭儀場を一望できる位置にある御座は、反対に祭儀場から一目できるということでもある。
 楼はいわゆる上手の中心にあった。本当のところ、今朝までは己のような刺客を導くためだけの、罠だということも考えてはいたものだ。しかし、蒔キ式の前に楼に掛けられた御簾の隙間から、法皇が挨拶をしているのを糸蘇は目にしている。ただ、手を上げるだけの所作であったが、そこにいることは確かだった。
 唯一の問題はどこからそこへ上がればよいのかということだ。おそらくその場所はごく内々に言い留められている。近くを歩いても刀を差した武士たちを見ないのは、彼らを配置することで場所を悟られないようにするために違いない。
 糸蘇は今、それを突き止める術(すべ)はないかと、歩きながらに模索をしていた。
 神代の力に頼るなら、灯放のように天井楼を燃やしてしまうが早いだろう。しかし、どれだけの人々が巻き添えとなって命を落とすかは知れない。もし己に木を自在に操る力があれば、おそらく壁板など簡単にめくることができるのだが。
 壁板をめくる。しかし、そこまでの必要があるだろうか。
 糸蘇はふっと、思い至った。
 このところ目覚めた力ばかりに気持が行っていたが、元はと言えば、己は蘇生で知られた贄姫で、術式で身を立てて者なのだ。嫌になるほどひたすらに書物を読み漁った過去の己が、今の己に語り掛けている。ただただ、中を見ればよいのだ、と。
 考え事をするような振りをして口元を隠しながら、糸蘇は神見の術を唱え始めた。その名の通り、神が万物を見通すかのごとく、目に映らない物事を己にだけ晒す術である。単純ではないが、不死の術よりずっと易いものだ。
 徐々に、視野が漠然としてきた。降り続ける雨が霧に変わったかのような情景に、糸蘇はまどろみに乗じたような錯覚を覚える。しかし、瞬きをするほどに元の景色が戻り、さらにその後、壁板の木目が存在感を失い始めた。
 幾重もの壁を透いて、その向こうに見えたのは空洞だった。右を見ても左を見ても、段どころか縄梯子すらない。術が不完全なのではないことは、壁の向こうを歩く張り番の姿が証ている。そしてそれは、社屋の外に目を向けても同じだった。ここには壁以外の物は何も存在していないのだ。
 となれば、いったい法皇はどこから天上楼に降りるのだろうか。
 本当に神のごとく天から降り立つはずはない。あるいは、もしや、そのように演じるために、上るためのものを設けていないというのだろうか。だとすれば天上楼は威厳を保つだけの無用の長物であって、法皇が実際にそこに座すことはないということになる。
 糸蘇は天井を見上げた。ここで神の目に何も映らなければ、天上楼はただの床となろう。
 目が覚めるような強い光が閃いた後で、糸蘇の目に映ったのはただの天井板だった。見回せば先ほどまで透かして見ていた壁が、元の姿に戻っている。
 すぐには身に起こったことを理解することができなかった。それでも己の目が一瞬の出来事をつぶさに覚えていた。
 二つの黒目は、天井板の裏に刻まれていた無数の文字を捉えていた。書を裏から読むような体では意味も内容も読み取れはしなかったが、意図だけは察することができた。
 これは明らかに術式を阻むためのものだ。逆説的に、この状況が上に何かがあること雄弁に語っている。
 ただの御座ならば隠す必要はない。よほどこちらに見せてはならないものが上にあるということだろうが、果たしてそれは何なのだろう。何を持ち込んだというのか。
 もちろん、これが巧妙なだましで、実は法皇がいないという可能性も残っている。
 神覧試合という言葉の重さに疑いを抱くことはなかったが、すべてが張り番の謀であって、法皇がこのさびれた集落にやってくること自体が戒羅を盛り上げるための作り話だったのかもしれない。となれば、天上裏の文字は、法皇が姿を見せないことを怪しむ者への対策とも取れた。あまりに大掛かりな仕掛けだが、威厳を守るためにはやりかねないことだろう。
 そう思えばなおのこと、上を覗かずにはいられない。罠だとしても、死が手招いていたとしても、これは、漁師にとっての水面の魚と同じなのだ。
 糸蘇は肉眼で天井を見上げた。術に依らずに眺めれば、そこにあるのはごく普通の板である。
 燃やすか。
 最初に首を振った方法を考え直す。脳裏にある灯放が引き起こした火事場の絵図はその危険性を糸蘇に訴えたが、一方でそれを食い止めた湖袖の姿をも思い起こさせた。火をおこしつつ水をまいたのなら、すべて焼き尽くすようなことにはならないのではなかろうか。
 二つの異なる神代の力をひと時に合わせて使ってみた試しはある。ただ、それはただ放出しただけであって、今考えたことのように双方の力加減がそろうように調節したことはない。一つ間違えれば、大惨事となりうることは確かだ。
 その覚悟が己にあるのか。
 問いは如実にその姿を変えた。
 と、そこへ遮るようにして祭儀場から歓声が上がった。怒号のようにも聞こえたそれは、蒔キ式の終わりを示唆していた。
 次の戒羅まではまだ時がある。その間にはこのあたりも人が行き来することだろうし、法皇も場を離れる可能性が大いに高まる。いわば、朝日が昇ったようなものである。魚は水面を離れ、岩陰に身をひそめる。漁師は取れ高に依らず、帰港するしかない。民への貢献はまるで違うが、刺客も同じく、命を狩る者としてその習性の上に立っている。端的に、機を逸したのである。
 おのずと膨れた肺がため息をつかせ、糸蘇は天上の木目を睨めつけていた視線を切り捨てて、その場を離れることにした。
 今は逸しても、まだ今日は狙う機会が存分に残されている。むしろ、一番最後の納メ式を狙うのが一番易いのかもしれない。祭儀場は間違いなく最高潮となるからだ。
 もちろん、納メ式に己の名前が挙がっていることは言われるまでもない。だが参ずるつもりもなかった。代役を灯放に依頼し、糸蘇はまたここに潜むつもりでいる。
 朱往という鬼手のことは分からないが、村雲と灯放ならば大いに盛り上げ、勝ってくれるだろう。糸蘇はその間に、法皇を仕留めればいい。大事なのは、それまでの間に、上に上る方法を見つけ、法皇の居所を確たるものにすることだ。
 糸蘇は厳かに外廊下を歩いた。途中、数人の張り番や御所から派兵されたらしい武家の姿を目に留めたが、誰も糸蘇を注視するものはいなかった。
「なんと、それはまことか」
 ふと、内裏をめぐる回廊の一角にさしかかった時に、誰かの驚嘆の声が聞こえた。どうやら角を挟んだその先で立ち話をしているらしい。四十、いや五十は近いだろうか。梯子と思われる老齢の男のしゃがれた声だった。
 後ろを歩く者がいないことを確かめて、糸蘇は静かに壁に背を付けた。
「うむ。まことじゃ。信じられぬやも知れぬが、実として儂は見たのじゃ」
 口調は老いているが、先ほどのものよりも張りのある声が続く。
「むう。しかし、法皇でなければあれは誰じゃ」
 まるで己の陰口を耳にしたかのように背中を冷やしながら、会話を盗み聞く。
「……いや、しかし。まさか、ありえん」
 何かを見たといった男が、ぼそぼそとつぶやいた。
「なんじゃ、気色悪い。はっきり申さぬか」
 最初に聞いた声が焦れる。すぐにしゃりしゃりと頭をかく音が聞こえて、少しの間静かになった。
「名賀の玄仁殿に、見えた」
 しどろもどろに男が答えた。
「玄仁殿とな? ……馬鹿を申せ。いや、ありえん」
「だから、そう申しておる。じゃが、目は目じゃ。儂ははっきり見た」
「それは分かった。何もお主を疑っておるわけではない。しかし、玄仁殿は一年半も前から姿を晦ましておるのじゃ。ここだけの話ではなしに、皆死んだと思うておる」
「分かっている。だから儂も、己の目が信じられぬわけじゃ。浦春様の亡霊騒ぎもあったばかりじゃて」
「そうじゃ。それも亡霊ではないのか」
「……糸蘇さまの前でも、同じことを言えるか?」
「言えぬわ」
 再びの沈黙の後、しゃがれた声が続ける。
「昨今の糸蘇様は何か恐ろしくなった」
「お主も、そう思うか。実は、儂もじゃ。なにやら、こう……」
「目が怖い」
「そうじゃ。人を殺したような眼をするようになった」
「……もしや、玄仁殿も」と、しゃがれ声がつぶやく。
「よさぬか。糸蘇様に限って、そんなはずがない。きっと何か、理由があるのじゃ」
「じゃと良いが。とにかく、玄仁殿のこと、糸蘇様には言うでないぞ」
「当り前じゃ」
 その言葉を最後に二人の男が動き始め、床が軋んだ。とっさに糸蘇は角を離れて、目についた柱の陰に隠れた。息が止まる思いだった。
 すぐに、「いやいや、まさか」としゃがれた声が通り過ぎていった。
 同じことが糸蘇の頭にもあった。
 父の屍を見たものは誰もいないわけであり、父に似合わない表現にはなるが、しぶとく生き残っていることも十分に考えられることは事実である。
 しかし、その一方で、なぜ今日という日に姿を現すのか。糸蘇にとって、それはまったく理解のできるものではなかった。

続く