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神代の子 ―諸―

八.

 随分と長い歳月を平端で過ごしてきたが、今、目の前にある光景はどれだけ遡っても覚えのないものだ。
 何も行列を見るのが初めてというわけではない。見物席があふれるほどに戒羅へ人が押し寄せたことはなかったにしろ、飯屋に並ぶ行列ぐらいのものは年に数度はあった。
「ほほう。こりゃ、すごい」
 横手から上がってきた馴染みある声に、村雲は振り向いた。悪い方の脚をかばうように、飯屋のはす向かいの建物に伊丹が寄りかかって立っている。
「いつもよりも良い匂いがするのう。何の匂いじゃ」
「店先で飯を売っているらしい」
 周囲にまで広がった人込みに動きづらそうな老人を見かね、傍まで近づいて答える。辺りは戒羅の野次よりもはるかに騒々しく、いつもの声では通らない。
「ほう。つまり、店には入りきらぬということか」
 つられるようにして伊丹の声も大きくなった。
「どうだか。確かにいつもより人は多いかもしれないが、永村の初詣も似たようなものだ。それでもあの社の敷地に大方が収まるんだぜ?」
「比べる物が悪かろう。社で人一人がとる幅は、飯屋でのそれとは全く違うからのう」
 伊丹の反論に村雲は首を振った。他愛のない会話も、声を張っていると口論のように聞こえてくる。
「そうだとしても、あの料亭の二階は広い。少なくともこの集落の住む者のうちで、自炊していない輩と旅客ぐらいは収まるはずだ。神覧試合だからってやってきた旅客にしたって、貴族ばかりだ。こんなところで飯は食うまい」
「うむ。もっともじゃな。じゃが、なれば何故儂らは入れんのかのう」
 伊丹が首を傾げたところで、村雲の後ろに誰かが立った。
「二階を買った馬鹿がいるらしい」
 振り返れば朽果だった。四角い顔が顎で二階を指している。
 促されてそのまま料亭の二階に目を遣ると、誰かが外を眺めているのが見えた。
「誰だあれは?」
「知らん。知らぬ馬鹿だ」
 知らぬ馬鹿とはどっちがだ。言いかけて村雲は口を閉ざした。
「残念じゃな村雲。今日は、得意の禅が組めぬぞ」
 楽しそうに伊丹が言う。
「……今日はそのつもりはない。雨も止んだことだ。
 まあいい。何であれ飯を食わねばならん」
 村雲はそう言って、暑苦しい者たちが並ぶ飯屋の人だかりに加わった。
 分け入ってみるとそこは群衆というより、肉片を求めてたかる狼の群れのようで、押し合いに呑まれてすぐに方向を失った。雨の後の晴れ間も殊更蒸し暑い。途中で飯をあきらめようかと思ったぐらいだが、やがてその押し合いに朽果が加わると、二人は周りをぐいぐいと押しのけて飯屋の売る握り飯をかっさらうことができた。
 銭を置く余裕はなかったが、後で払えばいい。後払いとなれば、伊丹も金を出さざるを得ないだろう。そう思いながら人込みを抜け出すと、当の老人はいつの間にか、他所から串焼きの魚を調達していた。
「ひとまず、ここを離れよう」
 村雲の言葉を先頭に三人は喧騒を離れ、御所へ向かう街道近くの栗の木が生えた小広い空き地を見つけて飯を広げた。青々とした葉が先の雨を受けて、露を抱えている。
「おい、錆止の分がないぞ」
 手ごろな切り株の上に並んだ食物の数を確かめて言うと、朽果は顎をしゃくった。
「もう食べているだろう。あいつは手前みたいに、わざわざ混む頃合いに行かない」
「そうかい、ならいいんだが。しかし、俺みたいに、は余計だ。混み合う頃合いに来たのは、お前だってそうじゃないか」
「俺は手前を待ってやったのだ」
「何のためにだ?」
「まあまあ若いの、飯が冷めるぞ」
 湯気など出ていない握り飯を手に、伊丹が制した。
「話は後だ」
 勿体つけるように朽果がそう言って黙るので、村雲は仕方なしに握り飯を口に詰め込んだ。
 もともとと言えばそれまでだが、弾む会話などはなかった。ただ黙々と三つの口が飯粒を食み、三人分の咀嚼音を、目の前にある人の口のような形をした樹の洞(うろ)が飲む。そんなひと時が続いた。
 村雲は無意識に食べ急いだ分、鼻息が荒くなった。
「で、俺に何用だ?」
 食べ終える手前のところで息苦しくなって、村雲は手を緩めた。
 先に食事を済ませた朽果が、息を吐いた後でつぶやく。
「朱往という男。何者か知りたくはないか?」
 村雲は一瞬止った手をごまかすように、口から握り飯に食らいついた。
「……さほど」
 片意地を張った後で、すぐに「まあ、聞くだけ聞いてやる」と翻したものの、それでも目は合わせなかった。
「禍差使いだ」
 今度は勿体つけずに、朽果が答えた。
 とっくに想像はしていたが、実際に人の口から聞かされると鳩尾(みぞおち)をえぐる様な刺激がある。脳裏にあるのは、壬生と対峙した数々の猛者たちが血にまみれて横たえる姿だけだ。必然と息絶える己の姿が瞼に浮かび、村雲は額に汗を浮かべた。飲み込み損ねた魚の小骨が咽喉の入口でごろごろしている。
 ぼとり。
 硬直した村雲に代わって、伊丹が魚を落とした。死んだ魚が立てた小さな音に、再び村雲の顎が動き始めた。
「そうかい。予想はしていたが……な。しかし、どこで知った?」
 村雲が訊ねると、朽果は口を尖らして見せた。
「この目で見た」
「どこでだ?」
「……どこでもいいだろう。嘘はついてねえ」
 白々しい顔つきで空に浮かぶ雲を追い始めた朽果の目を、村雲は品定めするようにじろじろと見た。そのうちに、落とした魚を拾ってむさぼり始めた伊丹が言った。
「どうする。村雲よ」
「どうも何も、やるだけだよ。後ろには糸蘇がいる。殺されるわけではない」
 不次と違って――。
 その一言は、口にしなかった。
「言っておくが、死ぬほど痛えぞ」
 朽果が腹をまくって壬生につけられた古傷を見せるそぶりをしたが、すぐに引っ込めた。
「ま、確かに死にはせんがな。懸命にやるこった」
 魚の背骨を吐き捨てて、朽果が立ち上がった。
「見ぬのか、次は?」
 じきに育ミ式の役持ち達を招集する太鼓が鳴る刻限だ。
 伊丹の問いかけに、朽果は興味がなくなったと短く答えた。
「ここから出ていくつもりか、朽果」
 相槌一つで済まそうとした伊丹に変わって村雲が言葉で斬りかかると、朽果は数歩進めていた足を止めて、ゆっくりとこちらに横顔を見せた。
「何故そう思う?」
「今自分で言ったろう。興味がなくなった、と」
 戒羅に興味がない人間がこの集落にいる必要はない。どこか他に行くと考えるのが筋である。
「しかし、なぜだ? お前の弟分が頂点をとったから満足したのか? そんな安い理由で、何年もいたわけではないだろう?」
「……手前には関係のないことだ」
「ああ、そうだな。その通りだ。俺には何の関係もないことだ。しかし、何だ。むしゃくしゃする」
 言いながらに村雲は、己が馬鹿なのではないかと思った。これでは、齢一桁の子どもが喧嘩に負けてくずっているようだ。静止したままこちらに耳を傾けている朽果の奥で、伊丹は呆然としていた。
 村雲は箸をおくかのごとく、深く息を吐いた。
「まあ、いいさ。誰しも潮時はある。このところお前と錆止が行動を共にしていないのも、それが旅支度だったということなら納得はいく。いや、いかないが、納得したことにする。今日を境にここを去るのも、いい区切りだろう」
 朽果は何も言わなかった。またゆっくりと顔を動かし、横顔をしまいこんだ。
「村雲。手前が大事にしているのは何だ?」
 そのまま歩き去るのかと思っていたところへ、今度は朽果が聞いてきた。
 巨漢の男の後頭部しか見えないが、その裏側に真剣な目が据えてあるのは想像に易い。朽果の背中から放たれているものは殺意とは違う、もっと別の、言い表す言葉の見当たらない強い圧力だ。
「……戒羅だ。俺にはそれしかない」
 熟考の末に、村雲は言った。
「もしそれを誰かが壊したら、手前はどうする?」
「どうって……」
「そいつを恨む、か?」
「恨みはしないが、腹は立つな。慣習を大事にしない奴は、先人を踏みにじる奴だ。世の成り立ちを理解していない」
「じゃが、古きを挫くときは必ず来るぞ、村雲」
 急に伊丹が割って入ってきた。
「そうか? なぜ古いものを挫く必要がある? 古木にも緑は茂るし、鳥も棲むぞ」
「生きている古木ならのう」
 そう言うと伊丹も、不自由な片足をかばいながら器用に立ち上がった。が、その場でよろけ、慌てて手を伸ばした村雲にもたれかかった。
「生きている古木、なあ」
 不自由な老人の左足を見下げて言った。
「失敬な。儂の足はまだ死んでおらんわい」
 この短いやり取りの間に、朽果は立ち去っていた。かろうじて見えたのは、群衆に塗れる間際の背中だけだった。
 本当にこれが最後となるならばさみしい限りだが、それ以上に、怒りさえ覚える振る舞いだった。不次の騒動の折には、一緒に伊丹を助けに行った男が、今の何でもない一幕では伊丹を支えようともしなかった。まったくの別人のようである。戒羅に興味を失うのは勝手だが、共に過ごしてきた人にさえ興味を失ってしまっては、もはや人と呼べない生き物になり下がったということに他ならない。
「そう怒るな」
 村雲の怒りを、伊丹が優しく受けて言う。
「誰しも去る時は来る。それがこの世でないだけましというものじゃ。いずれどこかで、またお主の道と交わる日が来るということになろう。その時に互いが抱くのが怒りじゃとしたら、それも悲しいことじゃよ」
「もっともだ、爺さん。が、今はまだ納得がいかない。あれほど勝敗にこだわってきた男が、何故急に心を変えるのか」
 教えてくれはしないが、裏がある。そう思わざるを得なかった。
「そっとして置くがいい。あやつらにはあやつらの、生まれと育ちがある」
 何気なしに伊丹の口から出たその言葉は、小骨のように村雲の記憶に喰いこんだ。
 今、真横で独りで立とうと踏ん張っているのは、不次の過去を知っていながら明かさなかった老人である。同じ道理なら、朽果や錆止の過去も知っているということなのだろうか。
 村雲の視線が刹那に忍ばせた弾劾をするりと交わして、伊丹は不格好に立った。吹けばまた転びそうな具合だった。
「杖を持ったらどうだ?」
「そんな物。手がふさがろう」
「そのうち手をついて指を折るぞ。いや、そうでなくても危なっかしい。年寄りの冷や水とやらだ」
「なにを。年を取ると冷や汗すら無縁じゃぞ」
 村雲はよろよろと歩き始めた伊丹の後ろについた。そのまま数歩進むと、何事もなかったかのように歩を進めたが、それでも村雲は不安になってついていくことにした。
「妙な空じゃ」
 道すがら、不意を突いて伊丹が言った。
「雨なら止んだばかりだぜ」
「ここではない。御所の空じゃよ」
 言われるままに目をやると、空の大部分は分厚い雲に覆われているというのに、御所辺りの上空だけ雲が抜けて見えた。
「たまたまだろう。雲の隙間ぐらい、どこにもできるものじゃないか」
 確かに今の空模様で雲がないのはその一か所だけだが、天井とは違う雲の蓋など、風向き次第でどこにでも穴が開くものだ。
「うむ。儂もそう思っておったがのう、今朝までは」
「……今朝からなのか?」
「気づいたのは、じゃ。以来ずっとあの形のまま、あそこに隙間がある」
「まあ、しかし。よくわからんが、留まっている雲があってもおかしくないだろう」
「村雲よ。行雲流水とは言う言葉を知っておるか?
 お前さんの頭で真意を理解できるかはさておき、雲も水も流れ行くのが自然のあり様なのじゃ。留まっておることは絶対にない。あるとすれば、それは自然に逆らう力が働いているということに他ならぬ」
「じゃあ、なにか? あれは御所が雲を消しているとでもいうのか?」
「分からぬ」
「爺さんまで……」
 村雲は先の朽果との問答を思いだした。本人にさえ分かっていないことを聞かれても歯切れが悪いだけだ。
「しかしなあ、分かりもしないことを不安がっても何も始まらないぜ」
「分かっておるわ。しかし、村雲よ。これは教訓じゃ」
 伊丹の矛先が急に村雲に向いた。
「時も風習も人の生き死にも、すべて節理の中にある。時が来れば消え、死に絶えるのが定めじゃ。それが必要とされなくなるということ。そして、同時に、新たな何かが生まれたということじゃ。戒羅も、そこから逃げおおせることはない」
 老人は先の古木の話を蒸し返してきたようだ。
「だがな、爺さん。戒羅は既に多くの者者を巻き込んでいる。何も偽姫や戦い手だけの話じゃないぜ? それを急に取りやめれば、多くが路頭に迷うぞ」
「無論じゃ。無論、すぐに終わりは訪れんじゃろう。じゃが、いずれは消える。その時にお主はどうするか。考えるのは今からでもよかろう。言うておくが、その時に儂がいるとは限らんぞ。お主が、お主のために考えるのがよかろう」
 老人の遺言のような一言は、村雲の心と草鞋に太く長い釘を刺した。

続く