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神代の子 ―諸―

十一.

「上村殿が!」
 走りながら一人の宮司が叫んでいた。
 集落で戒羅に携わる宮司は数えるほどしかおらず、彼らの姓には等しく“上”の一文字が付くことぐらい誰もが知っている。
 内裏に居を構える糸蘇には、顔も声も覚えがある。齢は確か三十半ば。昨年妹に生まれた子をいたくかわいがっていた。今日の納メ式で禍差を運ぶ役目を貰ったことを憂いていたが、この騒ぎからすると死役となったようだ。
「亡骸はいずこじゃ!」
「まだ祭儀場に……」
「さらされておるのか! 早う引き上げてやらぬか」
「今はまだ危険にござります。奴ら、まだ上村殿の亡骸から一間も離れておりませぬ故――」
 先とは逆方向に小走りで去っていった二人の男の奥の空を、濃淡のない雲の帯が流れていく。急逝した若い宮司の一生を模すように、その流れは速かった。
 糸蘇は喧騒の始終を物陰から見ていた。
 可哀そうにとは思ったが、それ以上はそこに心を置こうとはしなかった。心に蓋をすれば、訃報も鳥のさえずりのようなものだ。聞こえなかったと言えばそこまでのものである。張り番たちが祭儀場に足止めされる隙に内裏の奥に進むというのが人の不幸に乗じるようなものでも、この行動も悲劇の根源を討つためとなれば悪い事ではないはずだ。
 今朝の潜入と違って、日の傾いた今はひと気も少ない。大安の日は張り番の多くが納メ式に向けて動いており、それさえ始まってしまえば大半は見物に行くのだ、と耳にしたことがあったが、どうやらその通りらしい。天上楼の真下あたりは尚のこと閑としていた。
 しかし、今のところ朝と違うのは人の動きだけであって、壁が動いているわけではないし楼へ上る階段などは、相変わらず影も見えない。
 こうなると、やはり天上楼には誰もないのではないかという疑念が沸く。今朝方、御簾の隙間から見た法皇らしき人物の手というのも、己の目が願望を映しただけなのかもしれない。
 だが、仮にそうだとしても証しが欲しい。
 糸蘇は忘れ物を思い出そうとする老いぼれのように、天上楼の下の階をうろついた。時折、見物席の野次が糸蘇を揶揄(からか)うように回廊に反響する。
 同じ光景が二巡りほどし、徐々に焦燥が募り始めたところで糸蘇は急に立ち止まり、そろりと天井を見上げた。
 かすかに床板の軋みが聞こえたのだ。
 自分の足元の同じところを踏んでも軋みはない。自身の鼓膜が確かなら、上の方から聞こえた気がしている。
 短い試案を挟んで、糸蘇は今朝と同じようにして神見の術を唱えようと口元を覆った。しかし、今回は口を動かす必要もなかった。糸蘇が行動に移すその前にもう一度、先ほどよりも大きな音で天井が鳴った。よく見ると微細ながらに天上板の木目が震えている。
 出くわした異常な光景の中で冷静さを求めて周囲を見回すものの、辺りには人影ひとつ見当たらない。大地が揺れているわけでもなさそうだ。もしそうならば、祭儀場の縁を彩る松が揺れていることだ。
 気を落ち着かせて再び板を見遣っても、やはり木目が小さく振動している。糸蘇には黙って見つめるの他になかった。
 きわめて不可思議なことにその天井板は、複雑にかみ合っている釘板を外すような揺れをしている。やがて板は、自由を求めるかのごとくゆっくりと足枷を外して、十枚近い他の天井板を伴いつつ、糸蘇の足元をめがけて降りてきた。
 木は、五行の一つである。湖袖が水を、灯放が火を操るように、神代の巫女ならば木を操る者がいたとしても不思議はない。しかし、糸蘇の知る限り、木の神代は平端には現れていない。いわば空席となっているものだ。
 今、さきほどまで回廊と天上楼を隔てていた天井板とさらにその上の床板は、糸蘇を階上へと招き入れる床板へと変わり、その頂の向こうには天上楼の壁が見えた。そこには、浅藤色の衣が掛けられていた。
 糸蘇は瞬時に、誘っているのだと察した。浅藤色は名賀大社の巫女だけが着ることを許された色だ。それを吊るす真意は分からないが、己を意識してのことだというのは疑う余地もない。
 法皇がいる。おそらくその隣には、まだ見ぬ木の神代も座していることだろう。あるいはほかにも、天上楼で待っているのかもしれない。ただ、どうであろうと一分の油断も許されないのは同じことであり、ここで退くつもりは毛頭ない。
 糸蘇は慎重に一段目を踏んだ。支えのない中空の板は、水辺に浮かべたそれのように空気中を滑ったが、さらに踏み込むと反発するようにして糸蘇の足を支えるようになった。
 奇妙な感覚だった。浮足立っているという言葉なら口にも耳にもしたことがあるが、浮板に立っているというのはかつてないことだ。板は糸蘇の体こそ支えているが、その均衡は常に針の山を歩くように危うげなもので、一つ間違えば堅い床に全身を打ち付けてしまうところだ。掴める物といえば、目の前で同じく浮いている板であり、支えになどならない。
 何度か転げ落ちそうになりながら、糸蘇は上階まで到達した。
 心を落ち着けた後で袴を少しめくると、最後に天上楼に飛び移った時に強く打ち付けた向う脛が青く変色していた。
 後ろを振り返れば、外れていた床板は元の通りに戻り始めている。来たとき同じように糸蘇にはそれを見つめることしかできず、楼に閉じ込められた格好となった。
 あとには静寂が待っていた。自然と生じたものではなく、人によって造られたような風情のない沈黙だった。
 澱んだ風が正面の、祭儀場の方角から流れ込んでいる。天上楼の奥で、風に合わせて御簾(みす)が揺れる。風はそのさらに奥から壁伝いに流れ込んでいるようだ。かすかに、祭儀場の声を載せていた。
 糸蘇の目は祭儀場に向いた窓の手前、御簾の裏に座る人物を捉えていた。法皇だろうか。それにしては姿勢が良くも見える。
 すぐに御簾の奥に見える影が音もなくこちらを振り向いた。軽く咳払いをしたその音が記憶にある法皇のものよりも随分張りがある。御簾の向こうに座すことが許されるのは法皇を除いていないはずだというのに、妙に心が騒ぐ。武者震いの類ではない。
 男はもぞもぞと体を揺すってから、ゆっくりと立ち上がった。糸蘇は隙を見て辺りを確かめたが、他には誰もいないらしい。木の神代はおそらく壁の中に隠れて、こちらの様子を伺っているに違いない。ともすると、他の武官も一緒だろう。
「いかがしたのだ。糸蘇」
 己の名を呼ばれたときに、糸蘇は首筋に何かが這い上がるのを感じた。法皇への嫌悪感がなしたものではない。声に覚えがあるのだ。記憶をたどると、父玄仁のものと同じに聞こえる。
 御簾の横から男が現れたが、斜陽を後ろに背負っていて顔が見えない。ただ、父に酷似したその男の背格好が、父の姿を見かけたと言っていた今朝方の張り番の会話を思い出させる。糸蘇は何一つ言葉に出せず、ただ、男の影を見つめるしかできなかった。
 男がこちらに近づくにつれて、影に塗りつぶされていた顔にゆっくりと色が塗られていく。現れたのは、やはり父の顔だった。
「久しいな、糸蘇」
 父の肉声が、糸蘇の意識を揺さぶる。
「ここで何をしておられるのですか」
 たじろぐあまりに絞り出した声がそれだった。
「法皇様はご高齢が故、御所を出られなんだ。よって儂が代わりとなってこれを務めておる」
 用意していたかのような玄仁の言葉に、怒りが込み上げる。
「つまり、父上は影になられた、と。そういうことにございますね」
「……左様じゃ」
「法皇のおっしゃることを聞くためだけに、神主の座をも捨てたと」
「そのことについては済まぬと思うておる。しかし、変わり身を務めるにあたっては、神主との兼業は務めらぬのじゃ」
「その間に大社がどれほど変わったかご存じで?」
「言葉も出ぬ。しかし、もとよりその定めにあったとも思うておる」
「定め?」
「儂はもとより法家の者。寅之雄殿の後を継いで神主を継ぐほどの身代ではない」
「つまり、神の使いを捨て、法皇の僕に戻るのが定めであったと。呆れてものも言えませぬ」
 激高しながらも、何故が糸蘇の心は弾んでいた。一年半の寂しさが、今ここに吐き出されつつあった。ずっと望んでいた父の無事が、目の前にあるのだ。
 しかし。
「法皇様を呼び捨てるでないぞ、糸蘇」
 不意に曇った父の目が、今ここがどこであるかを糸蘇に思い出せた。
「この地の神ともあろうお方の呼び捨ては許さぬ」
 耳を疑う物言いだった。
 いかに父が立場を意識した発言をしてきたと言っても、法皇のことを褒めたことは、ほとんどなく、あったとしても自分のついた悪態を補うための飾りのようなものだった。だが、たった今父は、法皇を指してこの地の神、と言った。祖父や母が聞けば、あの世から首を絞めに来るような聞き捨てならないほどの形容である。
「ふふふ」
 父のしたことのない笑いが目の前の口から漏れ、糸蘇は頭を振った。
「父ではないな……」
 認めたくない感情が上回って、糸蘇の言葉は音にはならなかった。
 先ほどまでの温和な表情が消え、今、父であった人物は糸蘇には見せたことのない鋭い眼差しをしている。そのすべてを見下したような眼差しに覚えがあった。
 これは父ではない。父の肉を着た法皇だ。
 もっとも、その仕組みには推測すら敵わない。幻惑の術のようでもあるが、それは糸蘇にもできることだ。すぐに見破られるだろうことをわざわざ法皇がするとは思えない。法皇は本当に父の肉を、羽織のように着ているのだ。
「父ではないな……」
 聞こえるように、改めて言った。
「くかかかか。くふふふ」
 法皇のする厭らしい笑い声が天上楼を満たしていく。
「父に何をした」
「これは異なことを。父の顔を忘れてしまったか? 私がお前の父じゃよ。くふふ」
 玄仁の声のまま偽る法皇へ向けて、反射的に糸蘇の右手は火を放っていた。
 閃光のように走った火球は法皇の顔面を喰らったものの、一瞬のうちに消え失せた。後に湿気った匂いがしている。灯放が焼いた天井を湖袖が鎮めた時のそれと似た匂いだった。
「……随分じゃ」
 声色が変わった。父の声のままだが、皇族に特有の韻がそこにある。
「今一度問う。父に何をした」
「ふん。聞いて何になる」
 やはり法皇だ。この口癖のような文句は忘れようもない。当時の法皇の相手役を務めていた祖父、寅之雄の苦悩の顔まで鮮明に浮かぶ。
 忌々しそうに睨みつけてくる法皇に、糸蘇は一層の憎しみを込めて睨み返した。
「生意気が過ぎるところは、やはり父子か」
 舌打ちに挟みながら、法皇がつぶやく。
 しばらく睨み合うと、しまいに法皇が飽きたかのように目を反らし、言った。
「もとは朕の種から生まれた肉ぞ。それを返して貰うたまでや」
「肉体を奪ったと。そういうことか」
 そのようなことができると聞いたことはない。しかし、目の前の事象を見れば、そう言わんとしていることは汲み取れる。それはつまり、玄仁の死を告げる言葉でもあった。
 先まで弾んでいた毬が一気に潰されて、糸蘇の心に黒い幕が塞がった気がした。もっとも、毬はただ潰れたわけではない。すべての怒りを伴って、幕を破らんばかりに破裂した。
「ほう。父の後を追うか」
 一瞬のうちに火と水の力をそれぞれに宿した糸蘇の手を、かすめる程度に眺めて法皇がうすら笑う。
「覚悟の上。だが、その前に悪の権化を屠る」
 糸蘇が水をまとった右手を法皇に向けて突き出すと、法皇はゆっくりと床に向けて手をかざした。
「……せいぜい、試みてみよ」

続く