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神代の子 ―諸―

十二.

「なんぞ虫がいおる」
 床に寝そべった法皇が天井を見上げてつぶやき、気づかぬかと言わんばかりにこちらを見た。対して糸蘇は息を切らして膝をついている。足元には、額から鼻筋を伝って垂れた自身の汗があちこちに飛散していた。そこに涙が混じる余地はなかった。
「終いか? 糸蘇。遠慮はいらぬぞ。ここは結界で囲んでいるゆえ、外を巻き込むことはない。神代の巫女とやらの力、存分に発揮するが良い」
 法皇が余裕しゃくしゃくと言った。
 もはやこちらの精魂が尽きかけていることは明らかで、糸蘇は覇気ひとつ吐けなくなっていた。
 遠慮も手加減もしたつもりはなかった。だからこそ招いた事態だともいえるのだが、どんなに火を放っても水を浴びせても法皇の顔をゆがめることはできず、今や法皇はこちらを見物しているようなありさまだ。
 糸蘇にとって、今の状況は全くの誤算だった。というよりも、考えにすらなかったことだ。法皇は人間とは思えない所業を繰り返してきた狂人であっても、神代の子ではなく、五行を司る力など持ちえないはずだった。だが今、この男は火も水もあまつさえ木も操っている。それも糸蘇のそれらよりも強力にである。
 中でもその木を手繰る力が、ことさら厄介だった。糸蘇にとって最も拠り所となる五行は土なのだが、こちらが土を動かそうとすると、その土の気を吸って、木が活発に動くのだ。木克土。五行相克のそのままである。そのうえ、天上楼が地面から浮かんだ位置にあることも、不利に働いていた。ここでは土の気そのものがなく、先の結界が邪魔をして下から持ち上げることもできない。
 理に従えば、木に敵うのは火なのだが、生んだ火はことごとく水に潰されてしまう。糸蘇の手繰る炎は灯放ほど強くはなく、一部を焼く間に同じかそれ以上の木が新たに生えてくる。察するに法皇が土と水を木に与えているのだろう。いつのまにか、法皇の周囲はまるで天然の御簾が組まれているように、常に枝が張っていた。
 乱れた呼気を整えないまま、糸蘇は法皇の顔を見た。
「ふん。物足りぬのは父親譲りか」
 目が合うなり、法皇が冷ややかに言った。
 ひねりあがった口角が憎々しく、父ともども虚仮にされている分かっているが、睨み返す余力もない。糸蘇が頭を垂れたような姿勢になると、法皇が高笑いをした。
「良い心がけや。その無様に免じ、最期に楽しむ時をくれてやろう」
 糸蘇はもう一度法皇の、父であった者の顔を見た。同じ顔も人格ひとつでこうも醜く歪められるものなのか。父を憎んだ夜はいくつもあったが、例え夢の中でもここまで崩れたものではなかった。あるいはこれさえも、悪夢の一つなのかもしれない。ただこの夢は醒める術を知らない。
「その前に、その役に立たない神代の力を殺しておくとしようか」
 法皇の言葉は、糸蘇の脳にまで入ってこなかった。糸蘇は今、地鳴りのように低く轟く音を聞き続けている。いつぞや神代の力を使い過ぎて寝込んだ時に聞いたものと同じだった。すべての思考を遮るほどに頭が痛み、眩暈がする。気が付くといつの間にか、法皇の手が眼前に迫っていた。
 意図せず目を閉じると、全身から力が奪われていく感覚がした。首を残して体が水に溶けだしてしまったかのような錯覚を覚える。事実、手足はもちろん舌さえ言うことを聞かなくなっていた。
 父もこのようにして体を取られたのか。あるいは祖父は、このようにして最期を迎えたのか。母はどうか。皆は、この先で私を待っていてくれるのだろうか。
 体を奪われた脳髄が闇雲に思考を走らせる。悪夢の続きは黄泉へと流れ込んでいるらしい。
 糸蘇は操られるかのようにして、法皇の後について歩いた。幼少のころに龍臥峰を彷徨った後、父に背負われて下山した時の感覚を思い起こさせる。己の意識とは別に体が動いているのだ。決して心地よくはないが、曲がりなりにも父の背がそこにあるからかもしれない。
 そして、糸蘇は天上楼の一角に置かれた。眼下に広がる祭儀場は、まさに戒羅の最中であった。庵の中に誰かが居て、玉砂利の上に二人がいる。近くに転げている首なしの躯は誰だろうか。すべての者の名を知っているはずなのだが、思い浮かばない。
「どうや、糸蘇。お前の望んで踏み込んだ戒羅よ。死に際に見るのに相応しかろう」
 言われればその通りだった。戒羅が目的ではなかったが、御条親王を追って飛び込んだのがこの世界だった。そして彼はもういない。己の手で最後の始末をしたのだから。
 御条親王は私を許してくれるだろうか。
 祭儀場で怪しく光る禍差を見ながら、糸蘇はそんなことを考えていた。
 
 許せぬ――。
 村雲はそうした声が鬼面から漏れるのを聞いた。
 何をだ、と問いたくもあるが、答えはなかろう。二人は畳の上で茶を煎じながら会しているのではない。玉砂利の上の戦時にある。
 だが、気にはなる。朱往の繰り出す切っ先三尺ほどの鎌鼬に慣れはしたものの、こちらからの攻め手に欠いたまま立ち回っているうちに、そちらが気になりだして、村雲はなお防戦一方になっていた。
 あの女どもめ――。
 鬼面から小さな怒号が聞こえる。
 怒りの矛先はどうやら女らしい。太刀筋から武骨な男なのかと思っていたが、よほどの怨恨があるのだろうか。いや、武骨だからこそなのかもしれない。そういう男の方が悪い女に引っかかりやすいとは、伊丹の言葉だ。
 とはいえ、詮索をしている場合ではない。余計なことに捕らわれれば、ここが村雲にとっての死地となりえる。滑りやすくもある玉砂利の上では墓標も立つまい。気になるというのならば、後で何が許せないのかと聞けばよいことだ。
 見物客が飽き始めているのは、ここに届く声の量で十分に分かっている。だからといって勝負を焦るわけではないが、村雲自身、そろそろ動かねばなるまいと思っていた。その証拠ともいうべきかは定かでないが、脱線している余裕があるということは、攻める余裕もあるということである。
 もっとも、その隙を見つけたわけではない。
 朱往の動きは相変わらず無駄がなく、村雲との間合いに反応して刀を振るうからくり細工のようだ。
 ただ、そうであっても血は通っている。ならば、煽るのも手だろう。禍差遣いを相手に通じるのかどうかは終わった時に分かることで、試す前から決めるものでもない。
「女難かい?」
 村雲が言葉をかけた。茶屋で独り言を盗み聞いたような具合になった。
「――」
 返事はなかったが、先ほどまでの呟きが裁断したかように途絶えた。隙とは言えないが、少なからず意識がこちらに向いたようだった。
 村雲はそこに機を見た。すぐに攻め込むことはできなくとも、どうやらそれは朱往の気を取るのに一役買ってくれるらしい。
「堅物そうな身のこなしだが、女には弱いのか? 朱往」
 構わずに村雲が続けた。
「……」
 朱往は応えずに、こちらをじっと見ている。鬼面の眼孔には影が差して目の動揺を確かめることはできないが、止まった足の動きから様相が知れた。
 ただ、鬼の構えにはまだ隙と呼べるものがない。もうひと押し、肩の力を抜かせる何かが必要だ。
 ならばと、村雲が構えを解いた。
 男は見たところ武士のような振る舞いをしている。こちらが構えを解けば、不意を打とうとはせずに、同じように反応すると見込んだ。
「……」
 朱往は身構えたままこちらを見ている。
 息の詰まる瞬間だった。こちらは全くの無防備で、下手を打てばこのまま窮地に追い込まれかねない。もちろん、朱往が村雲の誘いに応じず、対話を避けて斬り込んできたとしても、対処する腹はある。
 朱往は何も言わずに、息を吐いた。そして、ゆっくりと肩の力を抜いた。
 村雲はその連続した動きを見ながら、心の中で笑った。
 朱往が解いたのは肩の緊張だけで、禍差を握った右手の力はそのままに、体重の乗っていない左足を少しだけこちらにずらしたのが見えたのだ。油断をさせて切り込むつもりが見え透いている。
 やはり、禍差遣いに対話は無用らしい。
 村雲が静かに刀を握り直すと、朱往が一足飛びに間を詰めてきた。
 村雲はそれを待っていた。
 向かってくる禍差を避けながら、朱往の左腕に絡みつくように動く。
 なぜならば、そここそが禍差を避ける一番の場所なのだ。これまでは朱往の左腕に跳ね飛ばされることを恐れて躊躇っていたことだが、こちらの隙をついて一撃喰わせることに気を取られている朱往を相手取ったならば、左腕周りに食らいつく隙が生じる。
 結末は村雲に味方をし、村雲は朱往の左に張り付いた。
 朱往が蚊を落さんばかりに暴れまわるが、村雲も必死だった。もしここで振り落とされ、尻もちでもつこうものなら、禍差の餌食となることは必至なのだ。
 二人の足元の玉砂利が蒔き散って、茶色い地肌が露見する。
 戒羅を無事に終える筋道は、このまま禍差の動きを封じて組みつつ、鬼面を割ることだ。ただ、蒔キ式では錆止が犬見の鬼面を割れなかったことを忘れてはならない。普段の戒羅なら拳で砕ける鬼面でも、今日は拳のほうがが負ける。とはいえども、なにも鬼面を割ることが絶対なのではない。犬見が脱ぎ捨てたように、鬼面が地面に落ちればいいのだ。
 朱往の左についたまま、どうにかして鬼面の結び目を手繰って解くか、それができないなら引きちぎってしまえばいい。神覧試合の戒羅の終わりとしてはいささか地味でも、命には代えられないことだ。
 村雲は拳を交えながら、朱往の頭部をつかむべき立ち回った。
 鬼面を結ぶえんじ色の紐は朱往の灰がかった黒髪に隠れることなく目の前に見えている。だが、掴めない。己の頭だったら痛むことが想像できるほどにきつく結ばれたその紐は小指の侵入すら許さず、暴れ回る朱往の頭から鬼面をはがすのは、絡んだ釣り糸を水中で解くのと等しい労力を要するかに思える。
 味気のない納メ式に対して見物席から怒号が沸きあがっている。
 それを気にかける余裕はないが、離れて正攻法に戻るべきだと、己の闘争心も訴えはじめた。
 村雲は舌を打ちながら、ここはひとつこの場を離れて構え直そうと考えた。それは良く言えば思案の末だが、勝負の場においてはただの迷いであった。その考えが出た時点で、村雲は勝負を裁く神に見放されていた。
 避ける間もなく、村雲は朱往のひじ打ちを脳天に受けた。
 見事にまでに、村雲の首がゆがんだ。
 ぐわりと天地が曲がり、ひざが折れる。
 慌てて体勢を直そうと動くが、足が思うように動かない。
 反して、目はこちらに向かってくる禍差の刃を捉えている。
 寸でのところで命を奪う一撃を躱せたのは、奇跡に思えた。客の何人かは目をつむったかもしれない。
 しかし、なおも体勢は最悪だった。玉砂利が右の頬に喰いこむほど地面に突っ伏している。体を転がして追撃は避けられても、その次にまっているのは、冷たい鉄の感触しかない。
 万事休す。そう思った時、視線の先に、祭儀場の地面が連なるその奥に、灯放の姿が見えた。
 次の瞬間には肌で熱を感じ、半身を起こして見れば朱往の立っていた辺りに火柱が立っていた。村雲の履物を焼くほどの熱が火柱となって、そこで渦をまいていた。

続く