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神代の子 ―諸―

十五.

 新月はまだ三日先のことになるが、今夜はもう闇の中にあった。山に囲まれた香治の盆地では、日も月も出入りが遅れる。月はまだ龍臥峰の向こうだろう。山際はほのかに明るく縁どられている。
 夜目になれている錆丸にとって、暗中で影を見分けることは造作のないことであっても、忍び勤めとは無縁の湖袖にとって、黒に差などない。不安を訴えるように、子虫のたてる僅かな音に驚いては左右を見回す仕草を繰り返していた。両手は膝の上においた荷を強く握りしめている。その荷は、先々のことを備えて集落の外に隠しておいた衣類だ。湿気や虫などに対する手入れは朽丸がしていた。
 その朽丸を、二人は待っている。
 平端を出たのが夕刻の事であった、ここへたどり着いてからかれこれ二刻(約四時間)を得たことになるだろうか。錆丸は食べ物を口にしたが、拒んだ湖袖はそろそろ疲れを覚えるころだろう。
 案じて再び握り飯を勧めたが、湖袖は首を横に振った。
「体に堪えます」
 見つめた錆丸が言うと、湖袖はまたも首を振った。見えていないのか、視線は他所を向いていた。
「朽丸はまだでしょうか」
「直に参るとは思いますが……」
 あやふやな返事にならざるを得なかった。もう三度同じことを申し上げている。当てにされていないだろう。湖袖も何も返さなくなった。
 錆丸にも不安はある。
 朽丸が忍び込んだのは法皇の御座であり、それは下手を打てば生きては戻れないことを意味するものだ。朽丸がへまをするとは考えたこともないが、誰しも損じることはある。
 ただ、辺りに飛び交う虫は多くとも、それを報せに来る虫は一匹もいない。胸騒ぎがしないのもまた事実であった。
 それにしても時がかかりすぎていている。
 錆丸と朽丸は常に、任を終えた後には集落から西に数里離れたこの地に落ち合うようにしていた。どこかへ忍んだ時には、追手を連れている場合もあり、まっすぐに平端の家に戻るのは素性を明かす行為と同然だからだ。もちろん、半端な追手なら気づかないほど鈍くはないし、撒く自信もある。ただ、それは数人を相手にした場合であって、追手が百人もいれば話は別だ。しかし、そうであっても集落から離れた場所で合流すれば、人知れず手を打つことができる。
 もちろん場所は少しずつ変えていた。
 ここから少し離れたところにある廃れた名無し稲荷が目印だ。先に稲荷に着いた者がその床下に石を重ねて稲荷からの距離と方角を残し、後の着いた者が積を崩すという、単純な決め事により、集合地点を変えながらも行違わないようにしている。
 錆丸が稲荷に入った時、石は積まれていなかった。二人以外の足跡が残っていないことも確かめてある。すなわち、朽丸はまだ来ていないのだ。
 これほど遅いとなると、やはり何か予期せぬことに遭遇したと考える他になさそうだった。それは同時に最悪の場合を考え始めねばならないということでもある。つまり、朽丸が死んだ場合の行動である。
 答えは一つだった。一人で法皇の目論見を探るのが無謀と言える以上、香治の国を離れるしかない。そして、安全な土地を見つけてひそやかに過ごす。どれほどの追手が来るかは分からないし、当然のこと下津留にも戻れない。一言で言えば、それは香治へ来る前の湖袖の生活そのものであり、元に戻るだけだと言えばその通りだ。ただし、それを支えるのは、物心が芽生えたころから湖袖を守り続けてきた朽丸ではなく、己になる。湖袖は心細く思うだろう。つい先日、顔を合わせたばかりの錆丸にも不安だ。関係を疑われないようにと、これまで距離を置いてきた策が裏目に出たとしか言えない。
 『廃れ者は数おれど、波織様の影人は手前一人だ』とは、いつしかの頭領の言葉だった。意に沿えば、湖袖にとっての影人とは朽丸に他ならず、その役目を錆丸が引き継ぐことは不可能なのだ。
 悔やむべきは、もっと早くにそれに気づくべきだったということだ。気づき、朽丸が忍ぶ間に錆丸が湖袖を守るという役目を逆にすることを薦めるべきだった。
 後悔が錆丸の手を震わせようとしたときに、遠くで数匹の蛙が一斉に鳴き始めるのを耳が捉えた。繁殖行動というよりも、警戒を知らせる声だ。
 立ち上がろうとする湖袖を制し、錆丸は物陰から様子を伺った。
 誰かが近づいてくる。
 東の山際を照る月光が二人分の人影を浮き出した。一人は朽丸の体形に適っているがもう一人は女のようだった。
 確かめるべく、錆丸は口笛を短く吹いた。朽丸ならば、笛は短く一回、長く二回なるはずである。
 短い一回の後に長い二回が続いた時、錆丸は安堵を手にした。しかし、次第に連れている女の顔が明るみに出て、息は重たくなった。
「朽丸……」
 驚きを言葉に変えたのは、湖袖が先だった。錆丸の出した立つなという指示はいつの間にかないがしろにされていた。
「そちらの方は名賀糸蘇様とお見受けいたしますが……」
 錆丸の目からしても相違なく見えたが、朽丸はなぜか首を横に振った。
「糸蘇ではあるが、糸蘇ではない。名は圭子という。そなたは、泉家の湖袖であったな」
 糸蘇の口がそう語った。面食らって錆丸は何も言えなくなった。
「ひとまず稲荷に」
 角張った顎を掻きながら、さもややこしそうに差し出した朽丸の案に乗る形となった。
 三人を先に歩かせるべく見送った時に、錆丸は圭子と目が合った。糸蘇と同じ顔立ちだが、戒羅で目を合わせた時には感じなかった背筋を撫でるような妖気ともいうべきものが滲んでいた。不思議にも彼女の後ろに立つとその気配は隠れ、あの時と同じ後ろ姿になった。
 稲荷に着くまでの獣道は朽丸が先導し、二人の贄姫の着物が掛からないように背丈の高い草を曲げて歩いた。しんがりの朽丸はその痕跡が乗らないように巧みに他の枝葉を戻していった。稲荷までの半里もない道のりは、これまで待っていた時間に比べればはるかに短いものだった。
 稲荷に建てられた小さな御堂は長く人の出入りを忘れてきたためにかび臭く、時期も時期であった。
「少し燃せば匂いも飛ぶが?」
 圭子の発言に朽丸が首を振った。
「灯りは一里を照らすともいう。今限りでこの場所を捨てるつもりはない」
 名賀家の一女を相手にしながら怠惰な言葉遣いに聞こえたものの、圭子は嫌な顔をしなかった。
「ではやめておこう」
 錆丸は二人の会話を聞きながら、朽丸の真意を測りかねていた。
 糸蘇という第三者を招きながらここを捨てるつもりがないということは、この名賀家の女をこちらに引き入れるということに他ならない。錆丸自身はまだよいとして、湖袖に御心を仰ぐことなく決めたとはどういう了見なのだろうか。
 朽丸は、分かっていると言わんばかりにこちらに目配せをした後、湖袖に向き直った。しかし、湖袖はそれを無視するかのように目も合わせずに座り、我先に口を開いた。
「まず、こちらからお話しします」
 半ば辟易と朽丸がこたえる。
「お願い申し上げます」
「では錆丸。お願いします」
 少し戸惑いながら、錆丸は湖袖の手元を見た。
 待っていた時の不安が待たされた怒りに転じたのかと思ったが、どうやら違うらしい。膝の上に置かれた例の包みが、大事そうに握りしめられている。
 務めて平静に、錆丸は祭儀場でのいきさつを述べた。
 
「疑いがかかる前に平端を離れたということか。そのほうがいいだろう」
 錆丸が顛末を伝えると、朽丸がそう言った。圭子も、まるでうたた寝をしているかのように目を閉じたまま、ゆらりと頷いた。ただ、朽丸が続けた「どのみち平端にはもう用がない」という発言には異があるようで、片瞼をゆっくりと上げて朽丸を一瞥したが、特に何も言葉にはしなかった。
「して、そちらの経緯は?」
 黙ったままの湖袖を横目に、錆丸が促すと、朽丸は湖袖に向き直った。
 朽丸の口からは、忍び込んだ天上楼での一部始終が語られた。自身でも得心していない様子で、要所で言葉の歯切れが悪くなり、助け舟を求めるように圭子を見たが、圭子は微塵も反応することがなかった。
 要するに朽丸は、天上楼で法皇と対峙する糸蘇を眼にし、糸蘇が敗れ、それが圭子になった法皇には敵わず、窮地に陥っていたところを割り込んで救出し、そのままここへ連れてきたらしい。
「連れてゆけと言うたのは私だ」
 終いまで話すと、圭子が自白した。
「そなたらは名賀家に対して恨みをお持ちのようだが、この際それは捨てた方がよかろう」
 その一言に、少なくとも錆丸の腰が浮いだ。
 九代目洲汪帝に禍差を贈り、泉家が滅ぶきっかけを与えた人物こそ、名賀玄仁と聞いている。泉家に禍を持ち込んだ家柄を恨むのを止めろとは、簡単に心得たと返事のできるものではない。
 掴みかかかるまでしなかったのは、心のどこかで名賀家の後ろ盾となっている人物がいることを理解していたからだろう。だからこそ、それを探るべく名賀糸蘇への接近を試み、香治国を納める法皇の御座に忍び込んだはずであった。とはいえ、やはり呼吸一つで掌を返せるものでもない。糸蘇の口がそれを推してきたということもある。圭子という人物も、実は糸蘇が演じているだけかもしれない。そのほうが現実味がある。
 下津留から来た三人の視線を一人で受けて、圭子は黙った。見えていないのか、誰とも目を合わせなかった。
「その意をお聞かせ願えますか?」
 湖袖が言った。
 再び圭子が口を開くまで、少し間が開いた。
「法皇を屠らねばならぬ」
 圭子から聞かされたその決意は、一方で分かりきったことでもあった。朽丸が伝えた一部始終からすれば、あえて説かれることでもない。知りたいのはそれよりも動機である。
 こちらが黙っていると、圭子はそのまま続けた。
「そうせねば、この世がこの世でなくなる」
 三人は顔を見合わせた。
「この世でなくなるとは、天上楼では口にしていた、神門がどうという話と関係があるのか?」
 朽丸が問い詰めても、圭子は眉一つ動かさす、まっすぐに湖袖を見た。
 神門。字川で波織から借り受けた書物には出てこなかった文字であり、当然ながら錆丸の記憶にない言葉だった。ちらりと湖袖を見たが、こちらの姫君もわずかに首を傾げている。
「いかにも。法皇は五行を揃え、神門を開かんとしている」
「神門とは如何なるものでしょう?」
 湖袖が問う。
「神と人の世を隔てる門のことだ。大昔に五巫女の力によって閉ざされた。開いた者がいたかは知らぬが、神に通ずる門であることに違いはない。開けばこの世の秩序は崩れるであろう。生ける者が生ける者ではなくなり、死者が死者ではなくなる」
「つまり、法皇は不老不死の力を得ようとしているとでも?」
 朽丸が口をはさんだが、圭子は首を横に振った。
「さて。法皇一人の命の在り様が変わるくらいならばまだよいが……。あの男がその程度で門を閉ざすとは思えぬ。いずれにせよ、そなたらが名賀家を恨んだところで、話は進まぬ。すべてを命じた法皇を屠らねばそなたらはもとより、生ける全ての生活も危うい」
「……我々と行動を共にし、何をするおつもりなのか。お聞かせ願えますか」
「姫様――」
 厄介ごとに巻き込まれては敵わないと言わんばかりに朽丸が遮ろうとしたが、湖袖は静かに目配せをして、聞きに徹するようにと云った。
「こちらの打つべき手ては一つだ。同じように五行を集め、あの男を屠る。もし仕損じても、こちらにも五行があれば、門を閉ざせる」
「そのためには?」
「まず、灯放に、村雲と言う名の戦い手の力がいる。それと木の神代を探さねばならん」
「待て、村雲は神代ではないぞ」と朽丸が口を挟む。
「分かっておる。しかし、あの男が唯一、金の神代の力を手繰ることができる」
「詳しくお聞かせ願いたいものです」
 糸蘇が詰め寄ると、圭子は首を横に振った。
「いずれは」
「なぜ今ではないのです?」
「役者が足らぬ。それに、我が今知り得ていることも全てではないのだ。正直なところ、なぜ禍差が金の神代の代理となるのか……」
「禍差が、金の神代の?」
「法皇はすべてを知っているが、私はすべてが断片なのだ。まずは集めねば始まらぬ」
 再びの沈黙が堂を制し、四人は暫し時の経つ音を聞いた。
 あまり時を経た感覚はしなかったが、壁の綻びから覗ける東の空がいつの間にかやんわりと明るんでいる。夏至を過ぎてもなお短い夜が明けようとしているらしかった。
「そろそろ糸蘇が目覚める。また一つ面倒なことになるだろうが、こやつに話をつけてやってくれ」
「話をつける、とは?」
「体を借りることはできても、我はただの霊じゃ。我から糸蘇へ直に伝える術はない。糸蘇からすれば、天上楼で眠り、ここで目覚めることとなろう。
 朽丸と言ったか。お主は成り行き通り、糸蘇を救ったと伝えるがよい。糸蘇が目覚めたら、平端へ戻れ。すべては役者をそろえるところからじゃ」
「味方するとは一言も言っておらぬ」
 朽丸が抗う。
「避ける理由もなかろう。それに、捨て置けばいずれお主らの首を絞めるぞ」
 圭子の目は挑戦的だった。
「あなた様は?」
 湖袖が正面から問う。
「私は鏡に戻る。時が来たら、知り得たことを伝えよう」
 圭子は糸蘇の懐から一片の鏡を取り出して付け加えた。
「砕いてくれるなよ」
 その言葉を最後に圭子はこと切れたかのようにその場に崩れ、糸蘇の寝息が聞こえてきた。
 神代の巫女が操る術式など知りはしないが、鏡をくだけば圭子は消滅するということなのだろうか。それをわざわざこちらに伝えるということは、この短い邂逅の中でこちらを信用したということなのか、それとも余裕を見せたかったのか。鏡を砕くつもりはないが、錆丸は何か妙な重しをつけられたような気分になった。
「如何なさいましょう」
 重たい雰囲気の中、朽丸が湖袖に今後の行動を聞いた。
 静かに目を閉じて迷いを見せる湖袖に、すかさず朽丸が言う。
「どう思いますか?」
「……従う義理はございませぬ。なによりまず、神門がどうというのに丸で現実味がございませぬ」
「従わねば世が滅ぶと言われても、ですか?」
「この世がどうなろうとも、我らは姫をお守りし、より安全なところへお導きいたす所存にござりますれば、姫様が無理をする必要はございませぬかと」
「しかし、私の水神の力を望まれているというのならば、私には無視できかねます」
 口ぶりからして、湖袖はその力が何人かの救いとなることを望んでいるのだろう。いつしか朽丸から聞かされた下津留での件が響いているのかもしれない。そして、もちろん朽丸もそのことは察してしかるべきだ。しかし、朽丸も粘る。影人としては主を危険に晒さない道を探すのが当たり前なのだ。
「ですが、湖袖様。天上楼で目の当たりにしました中では、糸蘇様が火と水と土を扱ってございました。つまり、五行のうちの三つは既にあるということにございます。湖袖様が危機を背負って戦う必要はないかと存じます」
 湖袖は目を伏した。そして、言い難そうにしながらも、静かに言った。
「朽丸。私も、人の救いとなりたいのです」
 二人の廃れ者は、黙る他になかった。湖袖の手には、包みが裂けそうなほどに力が込められていた。
 やはりか、と錆丸は思う。朽丸もまた同じだったようで、ため息をつきながら頭を垂れる一方、その口元は微かに笑んでいた。
「よろしいのですか。これまで以上に、危険になりますぞ」
 顔を上げることができず、伏したまま問う。
 湖袖の返事は短く、はい、とだけ返った。
「錆丸――」
「異はございませぬ」
 華奢な声が皆まで言う前に、錆丸は頭を這わせてそう答えていた。
 仰ぎ見た糸蘇の顔は、興奮からか紅潮して見えた。
 しかし、それがどうやら違っていることに、錆丸はすぐに気づいた。
 壁の隙間から覗ける空の色が、夜明けのそれではないのである。
 錆丸の眉間に寄った僅かな皺を見逃さず、朽丸もそれを振り返った。
「夜明けではないな」
 立とうという二人を置いて、錆丸は堂から飛び出した。
 東に赤い炎と黒い煙が昇っている。平端の空だった。

続く