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迷い脚

一.

 小柏(こしわ)の村から城下へ向かう稲荷参道を、二蔵維人(にのくら ゆきひと)は歩いていた。重くも軽くもない、平素な足取りだった。普段からひと気が少ない稲荷参道において、朝でも昼でもないこの時間帯はなおさら人がいなかった。
 維人は剣客であった。髷(まげ)もいたって普通に彼の頂点を縦断していた。袴(はかま)を履いて、まどろみの底のような、あるいは雨の日の信川(しながわ)のような緑に近い黄土色に染まった小袖を着ていた。特別なことはない草履を擦って歩き、姿勢も何も面白みのない男に見えた。
 ただ、少しばかり律儀な男であった。道中で車を引く行商に会う度に会釈を送っていた。が、それが帰ってくることはあまりない。しかしそれは、維人に非があるわけではなく、この暑さのせいなのだろう。今年は蝉も大泣きの大暑である。なにせ五月雨の終る頃には油蝉が騒いで止まなかったのだ。八月を回りつつある今では、その声も既に出がらしであった。他所の人間への挨拶もほどほどに、維人も朝帰りの道を急ぐことにした。
 維人は自身の出生について、何も知らない。周囲の誰もが知らないことであるから、仕方のないことだった。中山道沿いで城下に最も近い澤湯(さわゆ)村で、とある商人に拾われ、人の伝(つて)を通して武家の養子に入ってから来月で二十と四年になる。
 養子に入った家は貧乏ではなかった。父は二蔵善右衛門という名剣士で、古菅(ふるすが)道場の師範代であった。一時はその腕と品性を買われて、御家の剣術指南役にも任命されたほどである。今でこそ退役して、禄も落ちたが、傘張りや楊枝削りのような内職をしなくとも、食べていくことが出来るのは善右衛門の財産だろう。そうは言っても、維人は養子の身で、親のすねかじりという訳には行かず、少なくとも自身の賄(まかな)いの責任はあった。
 維人が養子に貰われたのは、当時の善右衛門に子供がおらず、剣術指南役を御免になった背景があったからだと聞いていた。どこの馬の骨だか知らないが妙な手付けのかからない維人と養子に取っておけば、老後はまず安泰と言えたためだった。維人が元服する頃に禄が減っても、生活に困らなければ良いと。<維>には、歩むと保つの二つの意味が掛けられていると聞かされたこともあった。何事もなければ、維人は善右衛門から家督を継いで、今頃は父と同じ、剣術指南役を目指して武に励んでいたであろう。
 しかし、維人が後々は二蔵家を継ぐことになるだろう周囲が騒いだ一月後、維人の面倒を見るべく善右衛門の遠戚から連れてこられた軽(かる)という乳母によって、話しが変わった。軽は、乳母に留まるような女ではなかった。その才色が善右衛門に見初められて、今では二蔵の後妻である。家督は善右衛門と軽の間に生まれた、創次朗に継がれている。
 そのような状況にあって、維人が家人から疎まれないのは善右衛門の人格に因るところももちろんあるのだが、実の子の創次朗と変わらない愛情で維人に接してくれる軽の存在も大きかった。周囲は、軽が居なければ維人が家督を継いでいたはずだと維人をそそのかすこともあるのだが、維人自身は軽の恩恵を大きく感じていた。血筋など微塵もつながっていない両親のおかげで、維人は無役でも米を食(は)めるのである。
 無役の維人の仕事は決まっていなかった。やることが無い訳ではないが、仕事が入るときはいつも何の前触れもなく、唐突に決まる。決まっているものがあるとすれば、それは夜に行われるということだけだった。
 夏の昼間が暑いから、などという野暮な理由ではない。もっとも秋に拾われた彼にとって、暑さが苦手なのはよく知られた事実ではあるが、江戸開幕の初期の頃とは違って侍の品行方正が落ちきったこの時勢にあって、剣客の仕事なぞは余程の大義名分が揃わない限りは夜が主だった。
 維人が砂利を蹴りながら、伊佐木(いさき)町にある甘のもの屋、黒屋(くろや)にたどり着いたのは正午を回ろうかという頃だった。黒屋は城下の西の外れに門を構えるから、お盆を控えたこの時期は店頭に萩と人が並んでいる。
「入るよ」
 疲れた足を踏み入れると、中にいた女中が皆そろって振り向いた。
「奥に通して」
 一番奥で勘定をしていた、やや上背の女がすぐに応えた。
 維人は女中がめくった暖簾(のれん)の下を潜り、奥へと続く廊下に吸い込まれるようにして入っていった。そのまま、いつもの中庭が一望できる一室に通され、帯刀をするりと外して座した。試技を始める前のように刀を膝元に横にした。維人の尻に重心が乗る頃合に、先ほどとは別の女中が熱いお茶と胡麻餅を持ってきた。
「お結(ゆい)さんは?」
 一礼の後に維人が聞いた。
「お客を帰したら、来ます」
「そうか。じゃあ、いただいて待つとするよ」
「ごゆっくり」
 二人は、見合いの席のように頭を下げた。
 庭の木に止まった蝉がけたたましく鳴いている。その蝉の声が小柏の蝉に比べて、なんともやかましく思える。城下の賑やかさは蝉にまでも移るものかと、維人は渋んだ。その渋みを消すには胡麻餅では力不足であった。
 香ばしく風味もあるがそれほど甘くはないその餅を平らげると、どこからともなく蝉が入って来て、弱弱しく維人の目の前にぽとりと落ちた。仰向けに返り、闇夜に戸棚をあさる盗人のように手足を動かしている。死に際らしかった。維人はしばしその有様を、どちらかというと意地悪く眺めていたが、急に哀れに思えて、ちょうど手にしていた団子の串を蝉の腹にぷすりと刺した。蝉はすぐに、張り治療に満足した老婆のごとく動かなくなり、維人は死骸を串ごと庭に放った。
 四半刻(三十分)後にお結がその部屋に入ってきたとき、維人は横になって<うとうと>していた。
「おう」
 結の鳴らした畳のきしみに気づいて、半身を起こした。なんともな彼の不恰好さにお結は苦笑いを浮かべる気にもならなかったらしく、醒めた顔で遅くなったことを詫びた。
「この時期は込むのよ」
「いいさ。おかげで大分休めた」
「あら、そう。大方、蝉がうるさいとでも思っているのかと」
 聞き流そうとしたが、思わず苦笑した。
 戯れもほどほどに維人は急に真面目な顔つきに戻って、昨晩から今朝にかけてのことのあらましを、結に説いた。
 小柏の村には決して遊びに行っていた訳ではなく、れっきとした頼まれごとの為であった。維人はこの黒屋のご用人というわけではないのだが、今、目の前に座っている黒屋の主、吾平の一人娘である結に遣わされていた。
 小柏の村は城下から西に、雑木林を左に見ながら二里ほど行った先にある農村である。一年を通して取れるのは、米、麦、大豆に小豆などの穀類が主だが、小流でも野菜も取れる。黒屋の遣いと言うのは小柏の農家から米の調達をしてくることだった。普段も真夜中に商談をまとめるのかと言えば、そんな訳はない。黒屋では今年の萩の売れ行きが良すぎたため、材料となる米が不足して急を要したためであった。
 元来、黒屋は萩などは売りにしていなかった。夏場はかき氷や餡蜜(あんみつ)などで採算を取っていたのだ。萩を売り出したのは一昨年の盆からである。萩は先祖へのお供えであるから、家のものが作るのが常であるが、このごろは不精な武家も多いらしく、手伝いのつもりで始めたことが大きな商いとなってしまっている。嘆くべき現象には違いないが、売れてしまっているからには商人としてやって行くべきと黒屋吾平が判断した。もっとも、売るからにはそれなりでなければならないとも言った。
 今年もなおの人気が出ているのは、そうした去年の評判が押しているには違いないが、それだけではない。人を殺すような大暑だったのも背景にあった。人の不幸を商売道具にしてはいけないと言って、今年の萩の値段を去年の半分以下に落として、ただ同然で配っていると、維人は結から聞いていた。
 とにかく、黒屋の米は底をついていた。小豆に関してはその他の甘のものの材料を回すことで賄っていたが、米不足はどうにもならなかった。
「いい返事が貰えたよ。(手押し)車を出すと行っていたから、もう半刻で来るんじゃないかな」
「半刻なら、切らさずに済みそうね」
 維人から視線を外して、庭に生えた木の陰を見て、ぽつりと言った。
「ご苦労様。お手間賃は志麻に貰って頂戴」
「志麻?」
「さっきの子」
 胡麻餅が入っていた盆に視線を落としながら、結は慌しく部屋を出て行った。
 維人は結の華奢(きゃしゃ)な背中が消え、次いで足音が消えるのを聞き届けて立ち上がり、再び帯刀した。志麻とやらに盆を届けるか少し迷ったが、結局は左手の平の上に載せて元来た廊下を帰した。暖簾(のれん)を潜ると、脱ぎ捨てたはずの維人の草履が覚えのない並びに整えてあり、その横に先ほどの女中が立っていた。先ほどは気にもかけなかったが、よく見ると白くて小奇麗な顔立ちをしている。維人の好みではなかったが、志麻を目当てに訪ねてくる客が居ても不思議ではなかった。
「志麻さん?」
 女中はこくりとうなづくと、目で草履を履くように促した。
 維人は顎元で二度うなづいて返事をして手早く草履を脚に巻くと、軽く地団太を踏んで感触を確かめて立ち上がった。体(てい)良く志麻が渡してきた紙包みを袂にしまい込む。二朱銀が一枚入った重さであった。
「これ、少なくないか。真夜中に四里半も歩くのは、結構大変なのだが」
 維人が愚痴を言うと、その二朱銀は結の心添えも含まれてのことだと志麻が言うので、反論をする気にもなれず、一度天井を仰いでから続けて肩を落とした。
「では、失礼するよ」
 背中で無言の志麻の視線を受けたがそれはきらめく鏡のように一瞬だけで、維人は他所者のように背を丸める気持ちで黒屋を出た。

続く