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迷い脚

二.

(どれほど寝ただろう)
 維人が眼を覚ますと、ばたばたという音が屋根から漏れていた。夕立である。維人は横たわったたまま枕手を組んで天井を見上げた。今、家中の所々で話しが上がっている<穏やかではない話し>を聞いたのもこんな雨の中だった。
 その日は昼前まで快晴で、午後過ぎからどんよりとした雲が空を囲って、暮れには激しい滝のような雨となった。その日の雨で、信川の下流の村は畑を水浸しにしたらしい。一方の維人は古菅の道場で、その大雨に負けないような汗を流していた。
 大雨の中、やってくる門下生は一人もいなかった。正午過ぎに善右衛門と屋敷を出て道場の板を踏み、今に至るまで打ち込みを続けている。家督を創次朗に継がせて隠居した善右衛門は修行に励む必要はないのだが、無役の維人を遊ばせないようにこうして稽古をつける日が少なくなかった。
 ただ、善右衛門は、維人が放っておくと遊びだすとは思っていない。それは母の軽も同じで、維人を疑ってのことではなく、揚げ足を取っては喜ぶ世間を気にして維人が真面目に剣に励んでいることを証明するように、あえて天気の悪い日に道場へ連れて行くのだった。
 維人にとって、善右衛門の指南はありがたかった。かつては御家の流派となったその技を生身で味わえると言うのは、他の人間にできないことだ。また、一戦一戦がためになるのも事実だった。また、もう六十を過ぎている善右衛門の剣は、力がなくなった分だけ技の凄みがあり、対峙することで仙人と戦っているかのような感覚を覚える。本当のところは、道場の師範である古菅玄舟斎(げんしゅうさい)に稽古をつけてもらうのが一番なのだが、ここ二年ばかり、師範は病に倒れて道場に来ていない。もっともその病も快方に向かっていると小耳に挟んでいた。
 不意に。維人の握っていたはずの竹刀が宙を舞った。すでに喉元には善右衛門の竹刀が伸びている。たまらず維人は両手を挙げた。竹刀が二回転して床に落ち、激しい音が天井に轟くのと同時であった。
「これまでにしよう。帰り支度を致せ」
「はは」
 二人は鏡のように対象に礼をして、雨の気に湿った道場の板の間を後にした。二人の背中は剣士の熱気でしっかり濡れている。城下の風に流されて降る霧雨が背に当たるのが心地よかった。
 その日は軽が親戚の寄り合いに出ると言うので、夕餉(ゆうげ)は適当な料亭で済ませることになっていた。いつものことであるが、善右衛門は歩きながら喋る事はなかった。無口な人間ではないが、食事の席でも何でもしゃべりながらと言うことがない。つまり、喋る時は喋るが、食べる時は食べ、歩く時は歩く人間だった。それを家訓して皆に押し付けようとしないのは、善右衛門の人のよさではあった。ただ、維人も真似をすることはないが、善右衛門と共にするときはその訓示に従った。
 善右衛門に連れられて入ったその料亭は山科(やましな)亭といって、舌の肥えた人には知られた店であったが、維人が入るのは初めてのことであった。店頭の傘入れに刺さった貸し傘を見れば、そこそこ高い店であることが知れる。二人は四畳半ほどの小じんまりとした部屋に案内された。
「最後は悪い癖が出たな」
 料理が出されるまでの間、善右衛門が最後の一本を振り返った。
「お前の逆袈裟はまとまりがない」
「はい。以前にもそのように」
 そうだろうと、善右衛門が頷いた。
「なので、今日は体が開かないように努めたのですが」
「うむ。それも大事なことではあるが、それ以上に直した方が良いところがある」
「と、仰いますと」
「肩を絞るのだ。お前は左肩の使い方が甘いのだよ」
 肩を絞らないから逆袈裟を斬った後に左手の薬指と小指が柄から遠くなり、鍔元の握りが弱くなる。間が開いていれば握り直して済むことだが、間を詰められていると、構えを正眼に戻しながら握らざるを得なくなってしまう。
「だから、力のない老人でも刀を絡め取ることができるのだ」
 維人はただただ頷いた。その頷きには、刀を絡め取ることができるのは善右衛門のなせる技だという納得も含まれていた。
 出された料理の品評は出来かねたが、それが京料理であることは味噌汁の色で分かった。赤出汁は京料理の代名詞である。真ん中に載せられた鱚(きす)の干物が程よい照りを出していて、食欲をそそった。手始めに味噌汁に箸をつけて、滑らかにすると一思いに干物を突き、丁寧に骨を剥がした。思ったよりも肉が薄く、箸は魚の体に深く沈まなかったが、味わうには十分な油に、二人はしばし、無言で膳をむさぼった。維人があらかた手をつける頃には、善右衛門は既に箸を置いていた。
 ところで、と不意に善右衛門が言ったような気がし、顔を上げると目があった。
「隣藩のことは聞き及んでおるか?」
 善右衛門がそういうので、あまり覚えのない維人は、はあ、と気のない返事をした。
「さようか」
 善右衛門はその素振りに少々不満を覚えたようだったが、説明口調に続けた。
「半月前のことになるが、政変があったらしいのだ」
 隣の藩の名前も知らないわけではないが、日ごろ全く縁のないことであるから、話半分に食事を進めながら聞くことにした。善右衛門もどうやら維人の耳に入れておくことが目的のようで、この場を選んで話している様子で、箸を止めぬか、というような冷ややかな視線を寄越すことはなかった。
 その政変が起きたのは、先月の終わりの頃だった。塚本という首席家老が政変の果てに職を解かれた。仔細は伝わってこなかったが、塚本という家老には政治的な落ち度はあまりないのだが、敵が多くいて、大勢が結託したことで政治の頂点から引き釣り下ろされたらしい。それに留まれば、いわば対岸の火事であったが、塚本の政敵の面々は退陣だけでは腑に収まらぬところがあったようで、塚本に積極的に助勢を与えてきた派閥の者達も一掃したらしい。
 あまり暗い影を祭事に落としてこなかった塚本家老の失脚には、納得しなかった者も多かった。そうした塚本の復興を望む声に塚本派とも言うべき家々の勢いがのって、武家同士の間で少し大きな反乱が起きたのだという。
 結果的に、反乱の引き金となったことが相まって、塚本家はもちろん、大きな家が二、三、閉門となった。
「その一つに森野辺無涯(むがい)を擁する家があった」
 聞き覚えがあった。が、はっきりしない為、善右衛門の言葉を待った。
「雨月流、森野辺道場の使い手だ。聞き覚えがあるだろう」
 雨月と聴いただけで、背筋が伸びるものがあった。政治のことは全く耳には入ってこないが、雨月流についてはこの近辺では最も優れた剣術であると、春日町を訪れた剣客達から何度か聞いたことがある。
「雨月流は、名前とは裏腹にすこぶる荒い剣だと聞いています」
 鱚を一砕きに飲み込んで言った。
「うむ。森野辺道場は京や江戸には名が届かぬが、この辺りでは知れた道場。それ故に流派の中での争いも凄まじいものがある。切磋琢磨の域を超えた、生き残りを掛けたような凄さだ」
 善右衛門の言葉は、歳を感じさせない歯切れの良さを持っていた。その鋭さには、あたかも、かつて雨月流と交わったことがあるかのような、冷たさが含まれていた。実際にあるとすれば、善右衛門が指南役を務めていた頃だろう。いや、考えれば考えるほど、あって然るべきだと思えてくる。
「一連の処罰の中で、森野辺道場も閉ざされたと聞く」
 維人が雨月流について問うのを嫌ったのか、善右衛門が急にぼそりと言った。歳を感じさせる物言いだった。
「だが、門下生は道場の閉鎖が一年とは言え、修行に励むとは限らぬ」
「他流試合を望んで、我が藩に来られるとのお見通しでしょうか」
「それならば、嫌な顔をせずに受けてやればよいのだが、どんな名門であれ人を傷つけることを愉しみとする輩はいるものでな」
 懸念がある、短くそういった。
 政治の中枢を握る家柄は、かならず犬を飼う。番犬ではなく、平たく言えば用心棒である。しかし、商人のそれとは違い、彼らはその家とのつながりを微塵にも外に見せてはならない。いざと言う時のために身辺に潜ませておく者の顔が、世間に知れ渡るようでは意味を成さないのだ。そのため、誰知らず用人達に養われる。光の差さない暗い土蔵の中で育つ独活(うど)のように。
 そうした独活のほとんどは、役を持たない。維人のように無役の道場通いが多い。独活は独りでも生きるが、誰かが手を入れなければ味は腐る。腐るだけならばまだ良い。物によっては、人の手が入らないのを良いことにして他の独活を尻目に伸び続けるものもある。そうした独活は気づかぬうちに増長を続け、いつの日にか土蔵を突き破って空を侵す。
「ここ数日、中山道で怪しげな侍を見たと言う商人が居るらしい。お前も気をつけなさい」
 善右衛門は目を瞑りながらそういった。話を閉じたかに見えたが最後に付け加えた。
「もし。立ち合うようなことになったら、距離を開いてはならん。あの太刀裁きは尋常ならざる速さなれば、間を置いてしまっては、より不利に向く。恐れずに飛び込むように致せ」
 稽古をつけている時のような鋭い目になっていた。
 そのことに善右衛門自身が気づいているかは知らないが、維人は思わず唾を飲んだ。喉の奥に行き詰まりを感じて、冷めかかった赤い味噌汁に箸をつけ、一気に流し込んだ。里芋の甘みより赤味噌の苦味が強いのを舌の奥で感じながら、やはり義父は雨月流とやったのだと悟った。
(そして、敗れたのだ)
 善右衛門が隣藩との御前試合の中で、雨月流の三代目師範の森野辺無涯と戦って、一本も取れずに破れたこと。そして、御前試合は善右衛門が剣術指南役を辞する三日前のことだったと知ったのは、その後のことだった。
(つまり雨月流を下せば、ある面で、俺は義父を越えるのだな)
 薄く閉じていた目を開け放ち、維人は布団から飛び出した。雨が気忙しく屋根を叩いていた。

続く