web clap

迷い脚

三.

 維人が少し早い夕餉を簡単に終えると、それを待っていたかのようにして雨足が遠ざかった。夏の夕立は引き際が潔く、後に湿り気を残さない。澄んだ空気のなかで気分を一新したのか、蝉が基之進気を取り戻し始めた。その鳴き声はもうすぐ秋がやってくることを告げているようにも聞こえ、維人の心を少しばかり打った。日が落ちるのに掛かる時間も、少しずつ早くなって来ている。
 基之進が遅いので、二蔵の屋敷から市村の屋敷の外に脚を伸ばそうとしたところだった。小気味良い軽妙な脚運びで維人の正面から市村が迫ってきた。
「すみません。遅くなりました」
「いいさ」
 咎めもせず、維人が歩き始めると、基之進がすぐ横についてきた。
「飛脚の件。何かつかめたか?」
 維人が聞くと市村は口を真一文に結んで首を横に振った。
「さっぱりです。色々探りは入れているんですが、今一番の手がかりは町人の証言だけです」
 維人が黙って歩くと、その合間合間を基之進の言葉が繋ぎだした。
「証人は一人ではありませんで、聞いて回ったところ十人は下りませんでした」
「暮六ツ(午後六時)の鐘が鳴った後ですから、その後を歩く飛脚は目立ちます」
「しかし、不思議なことに」
「証言が出るのは、春日町だけなのです」
 基之進の言葉がぴたりと止んだ。それまで足元に落ちた小銭を探るように伏目がちに歩いていたのだが、視線を維人の顔に当てて、維人の論を求めてきた。
「今朝は、春日町を出て行く先知れずになったと聞いたが」
「そうです。しかし、出たがどうかが怪しくなってきました」
 ふむ、と維人は相槌を打ちながら、顎をしゃくった。
「証言の出所はほとんどが中山道沿いの旅籠のお引きです。追って見ると西へ向かっては居たようなのですが、同じごろに西から戻ってきた佐吉という定飛脚(じょうびきゃく)が居まして、佐吉の言うところでは、そういう飛脚とはすれ違わなかったそうです」
 定飛脚は通し飛脚の反対で何人かの手で目的地まで書簡を取り次いで運ぶ飛脚のことである。一人ひとりが走らねばならない距離が決まっているから、街道沿いの宿場町に飛脚問屋が点在している。佐吉は藩内の飛脚問屋の中では、とくに役人から信頼の高い風見屋の脚だった。もちろん、それだけで佐吉の証言が揺るがないものになるわけではないが、定飛脚はよそ者に敏感である。土地のものであるがための縄張り意識が助けているのかもしれない。見知らぬ飛脚が通れば、意識しないわけがないのだ。ましてや、日も落ちてまもなく空が墨汁で塗られようかという時に春日町を出ようとする飛脚に会えば、同業者として止めないわけに行かないだろう。
「そうだ。ひとつだけ、妙な証言が出ました」
 基之進が忽然と言い出した。
「見かけない飛脚が東堀の坂を登っていったというものです」
「……この坂を?」
 まさに今二人が下っている坂が、東堀と言う城下から春日町へ伸びる下り坂だった。春日町方からここを通ったと言うことは、つまり城下へ向かったことを意味している。
「それではまた、話しが合わないではないか」
 蝉と鈴虫が同時に鳴いているようではっきりせず、維人は無性に苛立った。しかし、それは基之進にぶつけても意味のないことだと言う分別はあった。
 ふてくされるようにして無言で歩くうちに何か手ごろな推測が浮かばないか思案のしどころであったが、東堀の坂を下りきったところで、煩わしくなって来た。元々、維人は深く考え込むのが得意ではない。
(要するに迷い脚なのだ)
 どこに行ってしまったか分からないから、探さねばならないのだと、気がつけば自分に言い聞かせていた。基之進からも、飛脚の探索の手伝いはお願いされていない。夜回りに付き合うだけでよいのだから、飛脚の件は目付方に任せておくのが良策であった。
 中山道は城を避けるようにして、南側を迂回している。城下町はほとんどが小高い岡の上にあるためにそのような道の反り方をしていた。中山道と接しているのは春日町のみである。街道沿いに二里も行けば小さな農村がいくつもあるのだが、宿場としての役割を果たしているのは藩の領土の中では春日町を置いてほかになかった。したがって、維人と基之進が見回るべき場所もごく一部で日ごとの夜回りはそれほど長くならない。その代わり吉田利尚は、基之進に一刻(二時間)に一度、暮六ツから九ツまで、三度に渡って見回るように命じた。
 六ツ半は見回りの中で人の往来が減っていく時間帯であった。下城の鐘はとうに鳴り響いていたから人の渦は城から城下の隅々へ向かって発散して行く。しかし城下の入り口とも言うべき春日町に向かっていく人はほとんど居ない。ここは商人の町であるから、城勤めが帰りに脚を向けることはないのだ。
 維人は人の往来をぼんやりと見ていた。不思議な感触だった。
 基之進のような列記とした武士と、圧倒的に違うところがある。それは無禄だと言うことではなくて、維人と商人のつながりであった。黒屋によく出入りすると言う理由もさることながら、自分自身と商家のつながりには深いものがあるような、その気になればいつでも商人の道が開けるような気がしていた。そのため、こうして街角にどっかりと腰を下ろして、町人の行き来をぼんやりと眺めることは、普段の維人にはよくあることだった。だが、お役目として、それを行っていると言う今の状況を考えると、それは不思議な感覚だった。まるで町長になったかのような錯覚が浮かんでは、瞬きをする度に消えていく。
(御役目とは不思議なものだ)
 半ば羨望の目で、町並みを見た。視線の先に基之進が居た。
「二蔵さん。行きましょう」
 基之進の声で維人は己を取り戻した。見回りの途中、基之進は飛脚問屋の前と通りすがるたびに、中を覗いては帰っていない飛脚が居ないかを訪ね歩いていた。基之進の顔色をうかがうために、左手で吊った提灯を掲げると、その飛脚問屋が掲げる看板が映った。看板は杉の木を斜めに切った板でできていて、その楕円型の年輪の上に墨で「風見飛脚」と書かれてある。基之進は町方役人を仲介にして、春日町を出て行った通し飛脚が居ないと証言した佐吉に会ったのである。
「はっきりとした口調でした。疑う余地は狭そうです」
 維人は、"はりこ"の牛の如く首を縦に二回振った。
 六ツ半からの見回りは春日町に点在する八の飛脚問屋と二十五の旅籠を巡って、七ツ半に終った。迷い脚の件として得たものは何もなかったが、見回りとしては無事を手に、まずまずの滑り出しだった。終る頃には中山道は閑散としていて、歩いているのは吐く息の酒臭い人種だけになっていた。その日の残り二回の見回りは二人の草履の裏側の藁を二、三本だけ、乱すに留まった。
 夜回りも二日目、三日目と続くうちに二人の体も夜に慣れ始め、初日の終わりの時よりは、あまり疲れなくなっていた。ただしその分だけ朝はめっぽう弱くなり、日が昇るとすぐに蒸してくるこの時期は少々二人の背中に残酷だった。眠気が飛ぶ頃には布団も背中も水を巻いたように湿っていて、同時に結構な体力を消耗しているのである。
(どうせなら、良い汗をかこう)
 維人はそう覚悟をして、善右衛門や門下生を誘って道場で汗を流すのだが、他の者より早めに引き上げて、やはり早めの夕餉を取り、二蔵の屋敷の門で基之進を待っている時に、その覚悟を半分後悔する癖がついた。

 夜回りを始めてから、十五日を経た。
 夜回りのほとんどが春日町の中に限ったことで、四日に一度ぐらいは怪しい糸に引かれて隣接する宮前町などに足を伸ばすこともあったが、何分平和だった。この間に起こった出来事と言えば、酔っ払い同士のいざこざが関の山である。維人も基之進も刀や身分に物を言わせるような事件はなかった。そういった喧嘩事は町方に任せてその場を後にしていった。
 十六日目の日は、抜けるような晴れ空で、西から吹く風が乾いた空気を城下に運び、秋が迫っていることを告げて走っていた。このところは騒がしかった夕立も、大気が気分を害したような大雨も遠ざかり、稲荷参道に寄り添う信川は、今にも枯れそうな侘(わび)しい流れを生んでいる。
 暮六ツの鐘がなる少し前に、維人は信川のほとりに腰を下ろし、基之進を待っていた。夜回りを放り出して、基之進を呼び出したわけではなく、むしろその逆であった。市村家の下男が基之進の使いで二蔵の屋敷にやってきたのは、軽が維人の夕餉の支度を始めようとしていた時だった。急かされはしなかったが、幾分かは早く出なければならず、夕餉はいつもの半分だけ胃袋に納めて屋敷を出た。
 鐘が鳴った。穏やかで侘しい信川の水面が、響く鐘の音につられて振動している。基之進の影が見えないことに不満が募り、足元の小石をに投げ入れると、水嵩(みずかさ)が減って底が近くなった川に拒まれて、小石が一度だけ跳ね上がり、川べりに消えた。基之進がやってきたのは、西からの風が維人の体を押し込んで、辺りの草花がざわざわと葉を擦る音を唱えた時だった。
「何があった?」
 待ちきれずに、基之進の方へ足を進めながら、聞いた。
「飛脚が斬られました」
 思わず目を剥くと基之進が、こっちです、と言って踵を返した。維人は黙って基之進に従い、そこから半里ほど小柏の村と逆の南へ歩いた。移動の中で、斬られた飛脚が探していた者ではなく、風見屋の飛脚で一番の脚自慢の佐吉であることを聞いた。二人とも複雑な心境のまま参道を早足に歩き、その横で夕闇が川を黒く染めていく。信川のほとりに出来た提灯集(ちょうちんだかり)に合流する頃には、すっかり暗くなって人影が判別できなくなっていた。
 維人は目を細めて、人だかりの中心に居る人物が大目付の吉田利尚であることを悟った。町方は払われたのか、影を見ない。二人が混ざったことで周囲に気を配ったのか、三つあった提灯の灯りが一つを残して吹き消された。
「その方は?」
 面識はあるはずだが、闇が人格を消すのだろう。維人は素直に名乗った。
「二蔵善右衛門が長男、維人にございます」
「ほお。創次朗の兄か。いや、失礼した」
 家中ではあまり知られない名だと分かっていたからこそ、父の名を出したのだが、思いもよらず創次朗と比較された気がして、維人は気分を害した。
「維人殿は、剣の才覚がございます。死体の検分にお連れした次第です」
 誰の入れ知恵か知らないが、基之進が真っ当なことを言った。吉田老は、むう、と気合を吐くような合意をし、ほとりの奥の草むらに二人を引き込んだ。
 しかし、死体の検分など、全く経験したことのない維人である。腰ほどもある草むらの入り口に差し掛かっただけで、喉の奥に険のあるものが込み上げて来た。舌の奥でそれを押し込めながら、基之進の往路が無言であった意図を感じ、ひとまず佐吉の傍まで行った。
 裂け目が見えた。ひび割れたのとは手法の違う、絹豆腐に刃を通したような滑らかな裂け目だった。裂け目は佐吉の右肩から入って、左のわき腹に抜けている。裂け目の奥で背骨が断たれているのが見えたが、何度も確かめる気には成れなかった。血は既に乾いていて、干からびた味噌田楽のように佐吉の体にこびりついていた。裂け目が背中にあることは足首の向きから知れたが、顔を見ることは維人の心が拒んだ。
 維人は立ち上がり、誰に対してでもなく自分自身に首を振った。検分が出来なかったのではなく、
佐吉を殺したのが、剣士の仕業だと分かったのが、非常に悔やまれた。再び、喉の奥から込み上げて来た粘り気を懐紙に吐き出して草むらを出ると、吉田老が待ち構えていた。
「どうだ?」
「右から切り下ろされています」
「それは分かっておるわ」
 大目付の期待した答えではなかったらしく、一蹴された。検分役という今の立場を考えれば、そういわれても仕方のないことであるが、話も知らずに呼び出された挙句に言われたことに、少し腹が立った。
「儂が知りたいのは、切口から何か知れることがないか、ということじゃ」
 維人は吉田老に気づかれない程度に頬の下をわずかに膨らせながら思案したが、これと言って浮かばなかった。
「申し訳ござらぬが、それがしは死体を検分したことがありませぬ故」
「……ならば、仕方あるまい」
 吉田老の視線はあっさり維人を外れ、左横に断っていた基之進へ向けられた。
「他には居らんのか?」
「申し上げましたとおり、当番の者は全員、出先でして……」
 ここで初めて、維人は呼ばれた訳を知った。佐吉の死体が見つかった、この信川の川べりから近くて、剣について覚えのある知人と言えば、自身を除いては他に居なかった。当番の不在だけでは検分しない理由には足らず、とり急ぎで下男を走らせたのだと。
 吉田老は深いため息を吐き出して、周囲に告げた。
「ひとまず、死体を運ぶ。ここにあまり長く居座って、辺りの百姓に騒がれたくない」
 取り巻きの中の二人の男の影が腕組みを解いて草むらに下りて行くと、短い掛け声が二、三飛び交って、どこから持ってきたのか、一枚の戸板が起き上がった。ふすま一枚分の広さの板が二人に挟まれて倉村の中を進んでいく。維人と基之進は、佐吉を載せた板が戻ってくるまで、その方角を眺めた。
 板に載せる時に向きを変えるゆとりがなかったのか、佐吉はうつぶせのまま盛られ、脚の方からこちらに向かって来た。枯れ草色の布を被せられているが収まりきらず、稼業で培った立派な脚が力なく垂れているのが見える。初めて見た佐吉の顔は苦悶の表情を浮かべていて、地獄絵図の番人の如き悪相になっていた。町人との付き合いがあるとはいえ、飛脚とのつながりは今までになかったから、佐吉という男は初めて知った。同業者の中では評判の良い男だったと言うから、普段の顔は今とは違うことは理解していたが、その苦悶の表情が酷過ぎて、顔立ちを想像することはできない。飛脚街道を順風満帆に走り抜けてきた男の生涯は、理不尽にも苦痛に上書きされて終ったのかと思うと、深い悲しみが襲ってきた。
 気づいたのは、佐吉に送った視線を顔から肩に移した時だった。
「吉田様」
 維人は無意識に大目付を呼んでいた。
「何かあったのか?」
 吉田老は、もはや維人に寄せる期待は無いらしく、言葉の端に冷たいものが乗っていた。維人はそれに構わず、佐吉の為を思って身の丈を述べた。
「肩が割れていません」
 気を惹くには、その一言で十分だったのだろう。吉田老はすぐさま、板を止めた。
 佐吉は袈裟に斬られたのだと、そう思っていた。袈裟には違いないが、入り方がおかしいことに気づいた。切り下ろす太刀筋は、袈裟、唐竹、逆袈裟の三つがあり、下ろしは浴びせねば価値が無いと、善右衛門に教わったことがあった。つまり、肩口に刀の中心が入っていくように、肘を伸ばさなければ、空を切ってしまうのだ。佐吉がまともに浴びたのなら、鎖骨から断たれているはずである。命を奪ったその裂け目は右肩甲骨の背骨よりの位置から始まっている。
「刀の切っ先だけで、殺めています。余程の力か勢いが無ければ、これはできないと思われます」
 その上、佐吉は後ろから斬られている。袈裟を浴びせる余裕があったにも関わらず、太刀を浴びせていない。間合いを詰めなくても殺せることが分かっていたと言うことは、経験があると言うことだろう。
「背を斬るということは、待ち伏せではない。追いついて斬ったと言うのが筋であろう」
「しかし、この者は飛脚ですぞ」
 つい、荒っぽい言い方になった。
「簡単には出来ないと思われますが」
「飛脚だからといって、天下一の脚を持っているわけではあるまい。ところで、心当たりは無いか?」
 古菅道場は家中でも十指に入る有名な道場だ。大目付ともなると家中に点在する道場についての情報は日ごろ収集しているらしく、二蔵の長男の名は知らなくとも道場に出入りしていることは知っていたらしい。維人ならばと思ったのだろう。
「家中に、これほどの遣い手は居るかの?」
「存じません」
 きっぱりと断るように言った。
「それがしは、未だ一人前には程遠い、か細い腕でございます。立ち会った御仁は多くございますが、たった一度の立会いで腕を見極めるような目は持ち合わせておりません」
 もちろん、無いわけではない。家中の剣客で自分自身より腕が達、勢いのある剣を振るう者を絞っていけば、多くても十人だろう。しかし、家中といってもあくまで道場に顔を出すものに限ってのことであるし、ここで名を挙げるのは同志を褒めながら汚しているようで、悪い気がした。
「そうか」
 それっきり、吉田老とは言葉を交わさずに、維人は基之進と信川を上る帰路についた。途中で基之進が、何も言わずに検分をやらせてしまったことを仕切りと詫びたが、維人の中では既にどうでも良いことに下げられていて、とやかく言う気にはならなかった。その代わり、今日のこの後と明日の夜回りは、用事ができたので休ませて貰うと伝えた。基之進は、それ位の事で済むのならという腹積もりがあったのか、快諾した。
 久しぶりに、夜に眠ることになったわけだが、先ほどまで不慣れなことをしていたせいで心の疲れがひどく、冷めた夕餉を平らげた後は、風呂に入ってすぐに就寝した。

続く