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迷い脚

五.

 昼間の緊張感のせいか、この頃の不規則な生活のせいか、七ツ(午後四時ごろ)を過ぎた頃にはひどい眠気が襲ってきた。玄舟斎の太刀筋を今日のうちに思い出そうと努力をしていたのだが、睡魔には敵わずに維人は夕餉を抜かして床に就いた。
『わが師、直伝の<燕>じゃ。お主に盗めるかのう』
 夢見に落ちる間際、古菅の屋敷の門で師匠が言った言葉が反復され、維人はまぶたの裏側で飛び交う燕を追っていた。しかし、秘伝の技が名前から想像されるような軽薄なもののはずがないと、疑う心がすぐに生じて、燕は視界から去っていった。まぶたの裏側の風景はすぐに夜になっていった。しかし、その闇は朝までは続かなかった。
 屋敷を縦断する長い廊下を、慎ましい足音が行ったり来たりしている。音の軽さからして、善右衛門のものではないことを、はっきりしない意識の中で感じていた。時間が良く分からない。だが、夜分ではあるようだ。
「維人さん」
 軽の声がした。ふすまの向こうに屈んで、こちらに声を掛けているらしい。維人はすぐさま半身を起こして、枕元に転がせた刀に手を伸ばした。
「入りますよ」
「はい」
 短いやり取りの後に入ってきたのは、軽だけではなかった。見慣れた皺顔の男も一緒だった。黒屋吾平(ごへい)であった。吾平は澤湯の村で維人を拾い、善右衛門に預けたその人である。維人にとっては生みの親のような人であるから、身構える必要はなかった。
「如何なさいました?」
 維人は布団を一気に押しのけて三人が座るのに十分な広さを作ると、正座を整えながら聞いた。
吾平は維人の正面に同じく正座するとすぐに話を始めた。
「小柏に向かった女中が戻らぬのです」
「町方へは?」
「伝えましたが動いてくれませぬ」
 腐っている訳でもさぼっている訳でもないが、所詮町方は事が起こってからではないと動いてくれないのが大抵だ。吾平がこうした相談を二蔵の家に持ちかけるのは、あまり多くはないが初めての事でもない。結局、家督は創次朗が継いでいたために、維人を養子に出したことに二蔵家が恩義を感じる必要はないのだが、人の良い善右衛門は繋がりを切らずに、続けている。育ての親と生みの親を別に持つ維人への配慮も少なからず有るのだろう。
「小柏に宿はありますか?」
「農村ですが泊まれはしましょう。しかし、七ツ(午後四時)には出る手筈でした。泊まっているとは考えがたいですし、それならば連絡の一つぐらいはよこす筈です」
「女中とは誰です?」
「結と志麻にございます」
 よく覚えた百人一首のように、二人の顔が浮かんだ。
「様子を見てきていただけませんか?」
 吾平は知る好もないが、昨晩飛脚の死体を見たばかりである。良くないことが起こっている可能性は否定できないものになっていた。
 大きく頷くことで、返事とした。軽は手際よく身支度を整えてくれた。その間に吾平の口から今は五ツ半(午後九時)であることを知った。暮六ツの鐘と共に二人は戻る予定であったが、六ツ半になっても戻らなかったため、町方に届けたらしい。しかし、取り合って貰えずにしかたなく二蔵の屋敷を訪ねたのだという。
「夜分などと構わずに、来て下されば良いのに」
 軽の言葉通りだった。
 提灯を手に外に出ると半月が南中していた。真剣で二つに割った手鏡のようで、不吉を宿した怪しい光だった。何が何でも、二人の内の片方が戻らぬようなことは避けねばなるまいと意識を固めた。中途半端に起こされはしたが、眠気はとうに飛んでいた。
 小柏までは片道二里ある。普通に歩けば一刻でたどり着く距離だが、維人はその一刻も縮めるべく早足で歩いた。稲荷参道は、秋の虫の鳴き声でささやかに賑わっていたが、維人が歩むとその周囲だけがぴたりと静まった。信川の水面は割れた鏡を写して上下にうねっていて、維人の腰から下を照らしていた。しかし、稲荷参道を進むにつれて信川が離れていくと、その光も川のせせらぎも遠くなって消えていった。
 信川から離れて大分行った辺りの、維人が左のふくらはぎに張りを覚えた頃だった。正面に光るものが見えた気がしたのである。維人は一瞬足を止めて向こうの闇を凝視し、ついで南の空を見上げた。一瞬、光るものが月ではないかという考えが浮かんだが、半月は雲をかぶり始めて南中している。掠れはすれど、見間違えようのない月である。先ほどの光が月光を反射した何かだという考えた浮かんだ時、手に汗を覚えた。
 自然と慎重になる足運びを、先ほどの速度を思い出すようにして速めていく。ふと、参道の傍らから声が聞こえた。
「二倉さん」
 それほど低くない、男の声であった。
 再び足を止めて、獲物を狙う狐のように目を細めるとしゃがみこんだ男の姿が目に止まった。驚いたことに基之進である。
「ここで何を」
 声が大きくならないように気持ちの高ぶりを抑えつつ、維人が聞いた。
「いや、そもそも夜回りは如何した?」
「昨晩の一件で、春日町から此方方へ回されたのです」
 吉田老の判断で、喧嘩しか起こらない春日町を夜回りの対象から外して、夜分は人の通らない信川の近辺を警備することになったと基之進が言った。
「こちらへ」
 最初の質問の答えがこの、少し先の茂みにあると基之進がもったいぶった。見たほうが早いということなのだろうか。基之進は提灯の火を消して、極力、腰を屈めるようにとも要望してきた。この辺りは人の手が入っていないせいで雑木林も雑草も背が高く、三尺を越えている。腰をか屈めてしまえば、二人の存在を周囲に漏らすのは掻き分ける草の根が鳴らす音だけである。それも、西から吹きはじめた山風にかき消されて行った。
 かすかな血の臭いが、ふと鼻に届いた。濃厚ではない分だけ、安心はできた。
 案内された先には三人の人影があった。維人と基之進を含めれば五人になる。うち二人が女であることは目ではなく鼻が捉えた。血は、居合わせた一人の男が流しているようだ。雲間の月は辺りの雑木林が邪魔をして頼りにならず、周囲は真っ暗だ。維人はまず、吾平に頼まれた用事がここで済んで欲しいと祈るような気持ちで、二人の女を確かめた。
「結さんと志麻さんか?」
「はい」
 志麻からは返事がなかったが、一つの影が頷いたのが分かった。
「動転しているようです」
 基之進の言葉に維人も頷いた。そうだろうなという意味を込めた。
 結の隣には、姿かたちから知るに農夫であることが分かる中年の男がいた。手傷は左腕に負っているらしく、右手でしっかりと抑えていた。傷自体はたいしたことがないようであったが、憔悴した男は伏目がちではっきりと顔を見ることは出来なかった。が、凹凸のあるその顔の形に見覚えがあった。少し見つめても思い浮かばず、気のせいであろうと目をそらした瞬間に、ああ、と思い出した。男は半月前に黒屋の使い走りとして小柏の村を訪れた時に茶をいただいた、たしか為三(ためぞう)という農夫である。驚きは一瞬にして、まずいな、という焦燥に変わった。
 維人と黒屋との関わりは何度か基之進に話したことがあるが、使い走りに言ったことは、建前上で話せていない。為三に知れればその話につながる様で触れない方が良さそうだった。とはいえ、今は非常時である。建前よりも大事なことがあるのは百も承知していた。ただ、保険代わりに結に目配せをすると、此方の事情を知ってから知らずか頷いてくれた。
「ひとまずはここを離れましょう。成り行きはどこか別のところで」
 珍しく基之進が音頭を取った。憮然としている維人に痺れを切らせた風にも見えたが、間違っていない判断だと思い、従うことにした。
「辺りには刀を持った人が潜んでいると思います。お気をつけください」
 結の言葉を左耳に受け、少し安心した。普段の結は、黒屋吾平と違って話し口調に身分を出さない。長い付き合いだが年下の基之進でさえ丁寧語を使うのに、ここで結が普段の話し口調で話したのでは後で面倒なことになるところであったが、先ほどの目配せが利いたようであった。
 結の言葉はそのまま右耳には抜けず、維人の頭に留まった。留まらせたのは、基之真に呼び止められる前に見た白い光のせいだった。
(刀を納めずに歩き回るとは……)
 余程の事情があるにせよ、相手も正気の沙汰ではないということだと悟った。
 五人は音を立てないよう、努めて余計なものに触れないよう、草むらを抜け出した。雲間に覗く半月がちらちらと背中を照らす中、一列になって歩いた。先頭を基之進が、三人を挟んで維人が最後に歩いている。普段を考えれば逆のような気もしたが、今夜の基之進は何故だかたくましく見えた。役目を持った男の背中とはこういうものなのかもしれない、と思い返したのは三人を安全なところまで連れ戻して、基之進と分かれた後だった。基之進は吉田老への報告があるのか、城下に入るや、さすらいの浪人のように去っていった。
 二蔵の屋敷の門では、吾平が落ち着きなく待っていた。到着がもう少し遅ければ、稲荷参道で落ち合っていそうな挙動だった。
「おお!」
 輝いた表情で四人を出迎えた吾平を横目にして、維人は軽に軟膏を持って来るように伝えた。為三の傷を塞ぐためである。黒屋の三人を客室に通して、維人は自室の隣で空いている寝室に為三を連れて行った。灯りにさらすと傷は思ったとおりで、それほど深いものではなかった。小指の爪の半分ほどの深さの傷が、為三の左の二の腕を斜めに横切っていた。傷口は既に乾き始めて、血は滲むが噴出しはせず、町医者を呼ぶほどではなさそうである。
 これでもかと言わんばかりに軟膏を塗りたくり、包帯を巻く軽の横で、維人は為三の口から顛末を聞いた。為三は滑舌はよくなかったが、話しを分かりやすくまとめてくれた。
 黄な粉に使う大豆の出来を確かめに来た結と志麻を連れて、為三は畑を回った。回っている中で、志麻の草履の緒が切れて、折悪くあぜ道を踏み外して足をくじいてしまったらしい。畑から為三の家屋までは少し距離があったが、歩けない距離ではないと判断して、歩いたのがよくなかった。志麻の足は痛みが広がり、予定通りには帰れなくなってしまった。泊まりも考えたがどのみち吾平にも報告をする必要があった。結は志麻を為三に預けて帰ることを考えたが、志麻は嫌がったらしい。聞くところによると志麻は、さる武家の四女で仕方なしにそこそこ名の通った商家に奉公に出された女らしい。為三と会うのは初めてだと言っていたから、何らかの嫌悪を覚えたのだろう。箱入り娘のような一面が除けた一幕だった。
 とにかく、結は志麻を置いていくこともできずに悩んでいた。その時の来訪者はまさしく結にとっては天の助けと言えたであろう。隣村まで足を伸ばしていた薬師が戻ってきたのである。薬師が手際よく薬を出すと、志麻の痛みは和らいで、嘘のように歩けるようになった。
「たいした事はなかったそうで」
 不慣れな土地で怪我をして慌てていたところに、確かな治療を得て気分を取り戻したということだろうと、維人は頷いた。
 小柏の村を出たのは、暮六ツになるかならないかという頃だった。夜道に若い女二人を放り出すわけにも行かず、為三は城下の近くまで送ることにした。何かあったときの護身用に、鋤(すき)を担いだ。参道を歩き始めるとすぐに、彼らの後方で日がゆっくりと山際に着地して、息を潜めるようにして消えていき、代わりに上弦の月が南東の空で輝き始めたが、それは心細い明るさだった。三人は真っ暗な道を、為三を先頭に三角になって歩いた。
 日が沈んだ後の不安が三人の心から消えようという時に、為三は辺りの雑木林が人為的にざわめくのを聞いた。一瞬のことだったので、気のせいだろうと塞ぎこむことを考えたが、この辺りの雑木林はもっと密やかにざわめくのを農夫としての耳が知っている。為三は思わず振り返った。つられて結も振り返った。
 暗がりに、誰かが立っていた。
 輪郭もも分からない誰かだった。しかし、双眸だけが月光を浴びて不気味に光っているのをみて、その視線がこちらに投げ出されているのを感じた。
 為三の足が止まったことに気づき、志麻も振り返った。振り返って暗闇に光る眼を確認と、一目散に逃げ出した。志麻を追って結が走り出すと、暗闇の眼が動き出すのは同時だった。為三は結と志麻が視界から消えるとすぐに二人を追うようにして逃げた。
 三人と一人の距離は見る見る詰まっていった。為三はとにかく必死に逃げることを考えて走り出したのだが、足音が次第に大きくなっていくにつれて、無理があると思い始めた。手には鋤を持っている。二十年以上も使い続けた鋤だが、人を相手に使ったことは一度もない。しかし、どう考えても力のままに振回す他に思い浮かばなかった。
 耳の後ろで金属が擦れる音がした。聞いたことが無い音だったが、きっと刀が抜かれた音だと感じた。為三は、ただただ我武者羅に、走りながら、また振り向きながら鋤を振回した。為三の下半身は好き勝手に動こうとする上半身について行けず、もつれて倒れこみ、為三は鋤を振りながら稲荷参道の脇の畦(あぜ)に転げた。運よく両足が土壌を捉えたものの、勢いが止まらずに尻餅をつくと、一瞬だけ体を支えた左腕に激痛が走った。真っ暗で良く分からなかったが、生暖かいものが左の甲から薬指に伝っているのを感じた。
(斬られた……)
 こみ上げる情けなさを噛み締めながら、手傷を知った。
 見上げると男が立っていた。月を背負っているせいで今度は双眸は見えず、代わりに輪郭が分かった。
「お侍でした」
 為三は暗い表情で維人に告げた。
「お侍は、少しばかり俺を見下ろすと、またゆっくりと刀を構えました」
 為三は侍を真似て、右手で手刀を作って八双に構えて見せた。
「そこへ、あの人が来て下さったんです」
 基之進が来なかったら、自分の命はなくなっていたかもしれないと言った。
 暗闇の侍は基之進の姿を確認すると舌打ちをして逃げたらしい。基之進は三人を連れてすぐに安全なところに退避しようとしたが、為三が手傷を負っているのを見て参道横の人目に付かない場所を選んで休息の場とした。そこに折りよく維人が通りかかったというわけだった。
「しかし、さすがは維人様。いやさすがといっては失礼でしたか」
 為三を寝室において客室へ戻ると、仔細を知らない吾平が言った。
「いえ。礼ならば目付け方の市村基之進に伝えられた方が宜しい」
「……お役人様ですか?」
 吾平は不安そうに答えた。
「ご安心くだされ。調べは入るでしょうが、咎める様な事にはならないでしょう」
 察して維人が答えた。
「基之進は優しい男です」
 同意を求めるように、二人の女中に視線を送ると、結は深く一度、志麻は慌てたのか二度三度頷いた。
 その後の会話の途切れは、そのまま維人の気の途切れにつながった。今この瞬間なら、泥のように眠ることもできると思えるほどの眠気が襲ってきた。もう九ツ(深夜零時)に近い。黒屋の三人を送って戻ると、まぶたは琴の弦より細くなっていて、維人は帯だけ解いて布団に入った。
 夢の中では、忘れたはずの燕が舞っていた。

続く