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迷い脚

七.

 維人が黒屋を訪れたのは眠りから覚めたその日の夕方のことだった。疲労が残っていることは感じていたが、昼過ぎという半端な時間に目が覚めて、特にやることも無く、持て余すようにして屋敷を出たのだった。
 黒屋に着くと維人は、店の客を帰すまで待つように言われて、前に通された部屋に案内された。以前と違うのは部屋に通したのは結であり、維人が待っているのは吾平だった。いつかの胡麻団子が手元に出されているが、志麻は外に出ているのか、姿が見当たらなかった。中秋の名月を迎えつつあるこの頃である。もはや蝉の鳴き声は城下にわずかに響く程度だ。しかし、蝉の代わりに松虫が飛び込んでくるようなことも無かった。
 維人は団子を食した後、横になろうとは思わなかった。黒屋の一人娘とは言っても兄妹のような結とは違って、これから会う吾平は生みの親のような人であるから、失礼は避けなければいけない。大人しく正座の上にこぶしを乗せて待っていると、奥の廊下がきしむ音が聞こえてきた。
「しつこいお客もいるものでして」
 血が通っていると話しの切り出し口も似通うらしい。そんな事を思いながら維人はお辞儀をした。
「調べはどうでした?」
 維人は単刀直入に聞いた。
「町方の日下(くさか)様のお調べを受けました」
 吾平の口にしたその名前は珍しい名前だが聞き覚えはなく、優しいお方だと言われてもいまいち判然としなかったが、吾平の口調がまろやかなので一安心した。
「為三さんのことは?」
「聞かれました」
 吾平は答えながら神妙な顔つきになり、不意に不思議なことを言い出した。
「為三さんを襲ったお侍さんの話になりまして、直接本人に聞きたいと日下様が仰いました。そこで、小柏の村までの地図を書いて為三さんの屋敷をお伝えしたのです」
 ところが吾平の教えた屋敷はもぬけの空で、為三はいなかった。外に出ているのかと町方の役人が辺りの百姓の屋敷を訪ねて歩いたが、為三を知るものは誰もいなかったと言う。日下は翌々日になって再び吾平の前に現れた。
「為三と知り合ったのはいつだと、聞かれました」
「いつと、お答えに?」
「その時のちょうど一月前だと、お答えしました」
「今日だと、大体四十日前になりますね」
「はい」
 維人が黒屋の使いで小柏の為三を訪れたのは今日の一月前だ。その時は為三と黒屋は長い付き合いなのだと思っていたが、今の話では知り合って間もない時だったと言うことになる。
「しかし、農家とは長い付き合いがあるものではないのですか?」
「もちろん。他の百姓様とは長いお付き合いをさせていただいておりますよ」
 作物を買う相手となる百姓は数が多い方が商いが安定する為に、一軒の百姓だけでなく、できるだけ多くの百姓と関係を持つのが黒屋のやり方だと、吾平は言った。為三との関係もそうした中で結ばれた縁だと言う。深く聞くと、吾平は経緯を語ってくれた。何でも、為三が住居としていた屋敷は長いこと人が住んでおらず、廃墟となるのを待っていたようなぼろ屋だった。それを、わずか二日足らずで人が住めるように修繕し、為三が顔を見せるようになった。それを耳にした吾平が、為三は努力を嫌わない人だと判断して商いを持ち掛けたということだった。
「維人様」
 吾平が熱っぽく呼んだ。
「為三さんのお屋敷を見てきてくれませんか」
 吾平の心配を汲んでやりたいとは思ったが、この一月は歩き尽くめで脚がおかしくなっている。一つ返事ではいと言うことができなかった。しかし、吾平はなかなか諦めそうもない視線を送ってくるので、ついには明日にと言う約束をしてしまった。
「ご面倒をお掛けします」
 吾平は畳に頭をつけた後で一朱銀を二枚並べ、一枚を維人に、もう一枚を為三にと言葉を据えた。
維人は一枚だけを袂にしまい込み、もう一枚を吾平に戻した。
「私の分は、無事に為三さんに渡してから受け取ります」
 吾平は維人の顔を見て、にこやかに頷いた。
 維人が黒屋を出ると、陽はするすると西の空を下って行き交う人の影を長くし始めていた。その赤みを帯びた陽を正面に、眼を細めながら二蔵の屋敷に向かう維人の頭の中で既に明日が始まっていた。明日は古菅道場の試合がある。吾平の頼みは明後日にしたかったが、試合の後で小柏に行かざるをえまい。
(基之進は来ないだろうな)
 昨日の話ではもう開放されていると思うが、今日は目付け方の会合があったはずである。きっと会合が終るなり家に戻って睡眠をとっているはずで、明日の朝に目覚めたとしても試合には出ないだろう。そうでなくともこのところは顔を出していないのだ。
 来るか来ないかで言えば、玄舟斎も基之進と同じように来ない可能性が高い人物だった。十日以上も前に快方祝いで訪ねたときは技を披露するほど体力を回復していた翁であったが、今朝方、善右衛門から聞いたところによると、あの後再び体調を崩して床に伏せているらしい。
(いや、そもそも師匠には試合のことを伝えていなかったな)
 あの時は気を使って、試合の階数を増やしていることを伝えなかったのだと思い出した。だが、このままでは来月に実施する正式な試合も玄舟斎が見に来る可能性は低そうだ。そうなれば、師範の襲名の話しも展望は望めそうに無い。未だに無役の維人の将来と古菅道場の跡取りの話は密接につながっているから、それは気の滅入る話題だった。維人としては正式な道場の跡取りとして玄舟斎を襲名してお家の為に武を磨いて生き、道場主として後世に名を残したいたいという気持ちがある。つまり、無役で道場暮らしの独活を目指すつもりはないと言うことだ。
 独活。そう思ったとき、何故だか昨日すれ違った侍の姿が思い出された。しかし、それはすぐに違う興味に変わってしまい、維人の頭から消えた。
 目の前に、基之進の背中が現れたのである。黒屋を出てからまだそれほど歩いていない。基之進とはあまり縁がなさそうな商人の町、伊佐木町で彼を見かけるのは珍しかった。思わず掛けようと思ったその声は、喉から発せられずに消沈した。建物の影で見えなかったのだが、基之進の隣に女が居たのである。その瞬間、基之進がこちらを振り返りそうな素振りを見せたので、維人は思わず右手の蝋燭問屋に飛び込んだ。
「いらっしゃいまし」
 真正面に居た番頭と眼が合った。
「あいすまぬ。間違え申した」
 妙に堅い侘びを言い、そそくさと店を出ると二人の姿は既に見えなくなっていた。
 気がつけば維人は二人が歩いていったのとは全く逆方向の伊佐木町を一番早く抜ける道を辿っていた。歩きながら、何を慌てているのかと馬鹿馬鹿しく思いもしたが、振り返っているうちに自分がどれほど鈍い人間であったかに気づき始めた。いつしか基之進が、維人と黒屋の関係を妙に気にかけていたのも、稲荷参道で為三が襲われた近くに<偶然>居合わせたのも、あの時妙に積極的に働いたのも、全て説明が付く。
 基之進は志麻を気にかけていたのだ。どこにきっかけがあったのかは全く分からないが、維人が志麻という黒屋の女中を知る前から知っていたのだろう。
 今日は、人と人の繋がりとは意外に見た目と異なることを思い知る日だと、思った。長い付き合いだと思っていた黒屋と為三は非常に短いものであったし、いつの間にか基之進と志麻が結ばれている。こうなってくると、他にも見落としていることがこの狭い城下にもあるように思えてきた。案外、迷い脚の件も身近な人間が鍵を握っているのかもしれない。
(ばからしい)
 一番身近な善右衛門の顔を思い浮かべてひとしきり苦笑したところで、さっきまで考えていた独活のことを思い出した。為三や基之進のことをさて置いても、昨日の侍は雨月流の暗殺者かもしれなかった。しかし、隣藩の閉ざされた道場の剣士が何の用事があって我が藩へやってきたのかと考えると謎ばかりである。思い浮かぶのは一つだけで、奴らは山賊と化して行き交う行商や飛脚の路銀や農家の作物を狙っているという考えだ。色々考えながら帰路を辿るうちに、落ちた侍とは哀れなものだという儚さが込み上げて来て、維人は考えるのを止めた。
 屋敷に戻って自室に向かおうとすると、後ろから軽が呼び止めて夕餉の支度ができたと伝えてきた。普段はわざわざ自室に呼びに来るので、後ろから呼び止めるのは少し珍しいことだったが、深く考えないことにした。今日一日で数日分の考え事をしたせいか、すこし聞き分けが良くなった自分がいた。夕餉は質素で、小振りの秋刀魚が季節感を醸し出していた。
 秋刀魚の油の臭いが鼻についたのか、風呂を上がって部屋に入った後も油の臭いが辺りを漂っている気がした。昨日までの生活習慣が直らず夜だと言うのにやけに目が覚めている。仕方なく木刀を手にとって庭に出た。
 暗闇に敵を思い描いて正眼に構える。物音一つ立てないその影に向かって二十数度、木刀を振った。このところ道場には通えていなかったが力は衰えていないようで、腕がだるくなるようなことは無かった。その後は感覚を取り戻すように、払い、すりあげ、突きと型を増やして、維人の体は半刻(一時間)ほど暗闇に踊った。その中で、手探りながらに燕を再現しようと試みたが、結局手がかりがつかめずに玄舟斎が見せた型だけを真似るに留まった。
 木刀を置いた後は二度目の風呂に浸かり、黙って寝た。

続く