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迷い脚

第八.

 道場の試合はつまらないものだった。先月の試合に出ていない維人は二月ぶりの参戦であり、他の門下生に置いて行かれていないかが不安であったが、それは杞憂だった。むしろ玄舟斎と直に立ち会ったせいか、他の者が弱くなっているような気さえした。結果、五戦して四勝を上げることができた。一敗の原因ははっきりと分かって、休みが足りていないことによる疲労だった。その疲労も癒えぬまま、維人はまた稲荷参道を歩いている。昨日の夜のこともあってか、やけに右肩が重くて度々肩を回した。
 この一月の間に何度と無く通った道だけに、小柏の村が見えてくるまでそれほど長くは感じなかった。村の入り口から右へ入っていったところに為三の屋敷がある。二蔵の屋敷を出るときに懐に入れた吾平からの一朱銀が入っているかを確かめると、人差し指に重みが引っかかった。
 低い垣根の向こうに為三の屋敷が見える。戸という戸は全て閉まり、廃屋に戻ったかのような静寂に包まれていて、ひとけは微塵にも感じられなかった。おそらく無駄足だったのだろうと懐の奥で一朱銀を転がしながら、維人は戸の前まで入った。
 戸を叩く乾いた音が屋敷に響いたが返事は無い。三回叩いた後に為三の名を呼んだが、それでも望んだ返事は返ってこなかった。維人は少し悩んだ挙句、日を改めることに意味があるかを計るために中を覗いてから帰ることにした。
 戸を引いてからまず驚いたのは、その内側に百姓道具が一切無いことだった。あの時担いでいた鋤すらない。農具は小屋にしまっているのかもしれなかったが、草履の類も全く無いとはどういうことなのか、検討もつかなかった。覗いて見える奥の間も、底から見る限りでは箪笥(たんす)も置いていない。がらんとしていた。
 長く居ては良くない。そう思って屋敷を出ようとしたときに、入り組んだ廊下の奥で何かが動いた気がした。目を凝らしてみるが動きそうなものは何も無い。しかし、鼠にしてははっきりと視野に入ってきた気もする。維人は草鞋を履いたま床木の上に踏み出した。ぎりぎりと歯を食いしばるような音が足元で鳴り始める。よく見ると床が腐って抜けている箇所があった。吾平の言う、二日で修繕したと言うのはどうやら概観だけらしい。為三は何かを隠しているか、何かから身を隠しているような暮らしぶりのように思えた。
 廊下の先には部屋が二つあった。そのどちらにも家具が置かれていなかった。人が生活していた臭いもしなかった。強いて言えば<い草>が腐る湿気っぽい臭いがする。その不快な臭いが立ち込めていなければ、あるいは気づくことが出来たのかもしれない。維人が気づくのはほんの一瞬遅かった。二つ目の部屋にも何もないことを確認して振り返ったときに、いきなり横から伸びてきた手によって、口を塞がれた。
 手の主は、目の細いあの侍だった。
「静かに。声を出さずに聞くんだ」
 穏やかな声色でその男が言う。よく見ると男は顔の端のほうに小じわを生やしており、見た目以上に歳を取っているように見えた。
「ご安心されよ。拙者はお主の敵ではない。刀から手を引きなされ」
 いつのまにか維人は右手を柄にかけていた。しばらくその男の目を見つめてみたが、男は目をそらさず真っ向から視線をぶつけてくる。それだけで男を信じたわけではないが、騙まし討ちは無いと見て手を引いた。
「この屋敷は面倒な連中に包囲されている」
「あなたを見張っておいでか?」
「いや。拙者は昨晩潜り込んだ。連中は拙者を知らないが、貴公が入っていったのは見ているはず」
「……何の目的で?」
「ここでは申せぬ」
 二人はささやくような声で口早に言葉を交えた。
「どのみち連中を退けねば、貴公はここから出られまい」
「それはあなたも同じはず」
「その通りだな」
 男は余裕の表情でにやりとした。
「どうします?」
 維人の問いを待っていたかのように男は策を述べた。
「まずは貴公がこの屋敷を出て連中を引きつけられよ。拙者はその後に出て、連中の虚をつく」
「いきなり斬り合いになったら?」
「それはない。連中も貴公から話しを聞きだすのが目的のはず」
「話し、とは?」
「直ぐに分かる。そろそろ出られよ。長居しては怪しまれる」
 維人は不快感を隠しながら頷いて、廊下へ出た。玄関へ向かう一歩一歩が鈍るが、後ろを気にするのは屋敷を出るまでにしておかなければ、と思った。外に出た後に屋敷の中を気にしては、これから会うと言われた連中にあの男の存在を悟られてしまうかもしれない。たった数十歩の間に頭の中を駆け巡った疑念を振り落とすため、草履の紐を結ぶ手を止めて息を吸い、立ち上がりながら深く吐いた。自然と背筋が伸びて骨髄を中心に血の気がめぐるのが感じられて、維人の中で試合の準備が整った。しかし、これは確実に試合ではなく斬り合いになるだろう。過去に盗賊を相手にしたことはあったが、侍は無い。これまでに食い扶持を稼ぐために様々な物事に手を出してきた維人だが、踏み込んだことの無い領域に身震いをした。
 男の言った連中は、生垣の外で維人を待ち構えていた。屋敷を出たときに影が一つ動いたのは目の端で見ていたが、外に出るとさらに二人が物陰から現れて、維人は三方を閉ざされてしまった。
「ここの百姓をどこにやった?」
 真ん中の男が言った。明らかに為三の行方を問うている。まずは黙るのが肝要だろうと、維人は顔をしかめて何のことだか分からない振りをした。
「聞こえんのか、知らんのか。どちらだ?」
 相手の声が高ぶって、維人は閉口した。しかし、初めて会うはずの相手の態度に次第に苛立ちが募ってきた。維人にはそのような言われ方をする心当たりがまったく無い。
「分からん」
 維人が苛立ちに煽られて言った。
「名乗りもせずに無礼な聞き方をする、お主らが分からん」
「何?」
「人に物を尋ねるときは失礼が無いように努めるのが作法であろう。それが分からん輩に伝えることなど何も無い」
 維人が言いたいことを言っていると向かいの男が舌打ちした。一瞬、身が退けたがここまで来たら歯向かう姿勢を崩すわけにはいかないと一歩を踏み出す。すると維人を囲う三人の侍達も立ちはだかるように一歩を踏んだ。
「今は、我らのことを知る者を野放しにするわけには行かぬのだ」
 筆頭格の男が両手を広げると、両脇の二人が刀に手を掛けた。口金を切る音が両耳に飛び込んでくる。為三の居場所が分かるまで、監禁でもしようというのだろう。どういう背景があるのか全く分からないが、真剣だと言うことは伝わってきた。ならばこちらも、相応の覚悟で迎えなければならない。後ろの屋敷が気になったが、視線は左右の二人を牽制するように地を這わせるに留まった。維人はまだ両腕をだらりと下げたままだ。刀に手を伸ばせば、それが斬り合いの始まりになると悟っていた。
「それがしには関係のないこと。悪いが通していただきたい」
 あくまで戦意がないことを示唆して、素通りを請った。
「堪忍されよ」
 男がもう一歩前に出て言った。
「断る」
 次の瞬間、維人は屋敷の中へ向かって走った。恐らく包囲したつもりでいた三人は予想していなかったのだろう。維人を追って慌しく中庭になだれ込んできた。維人はそれを待たずに草履を履いたまま縁側から屋敷の中に上がりこんだ。このような状況に置かれると先ほどの目の細い武士が助太刀に来る保証は無かった。出汁にされているかもしれないのだ。そうならば、一人で三人と戦える場所を探して迎え撃たなければならないだろう。
「出て来い!」
 男が庭から維人を呼んだ。慎重なのか計算高いのか、そのまま維人につられて飛び込んで来はしなかった。維人は柱の影から庭に立っている男達の影を観た。二人分は確かに見えた。恐らくもう一人は裏口に回ったのだろう。何かの合図をきっかけに乗り込んでくるつもりに違いない。ならば、確実に一人の裏口を先に倒すのが得策だ。裏口と思われる戸がすぐそこにある。
 維人が柱から離れようとしたとき、庭の二人が騒いだ。
「貴様は!」
 直後に、うっ、というあえぎ声が響いた。
 続いて別の男の叫び声が上がるのと、裏口の戸が開くのは同時だった。
 維人は柱を背にして抜刀した。相手は既に刀を抜き放っていたが、裏口から入ってきたままの勢いで飛び込んで来ず、ちょうど二間の距離をとって静止した。屋敷の中は手狭でどちらも刀を振回すわけにはいかない。互いに正眼に構えた刀の切っ先が触れ合う距離にあって、詰めにくい一歩がそこにある。二人の刀は小刻みに上下に震動していた。
 背中に柱がある分だけ、不利になっている。それに気づいたのか、急に相手が手首を返して刀を下から上にすりあげた。切っ先が維人の刀に触れて上に跳ねた。
 隙をついて男が半歩詰めてきたが、維人は背中を柱から外して回り、その半歩を上手くはぐらかすことができた。再び二人の間に刀身の橋が架かった。維人は右脚を下げて体重を移し、男を居間へと誘い出す。何も置かれていない部屋である。躓くちゃぶ台は無い。こめかみで後ろを睨むようにして、さらに二歩退いた。
 二歩目の脚が止まった時、見計らって男が踏み込んできた。
 刃と刃がぶつかって、維人の刀が左に振れた。さらに男が踏む込もうというところを維人は左上から逆袈裟に薙いだ。しかし、刀は男の踏み出した足にだまされて空を切ってしまった。それは、切っ先が触れ合うほど密になったこの間合いで、大きな過ちだった。
 維人が傷を負わずに済んだのは、善右衛門のお陰に違わなかった。
 いつだか善右衛門に教わったように、右に薙いだその後に肩をしっかりと絞っていたために、刀の先は相手に向かったままで、返す刀を上手く体の隙間に挟むことができた。結果、維人の握った刀の切っ先が飛び込んで来た男の腹を食って、男は自らの腹に白刃を立てることとなったのである。
 男の小さな呻き声が上がって、振り下ろそうとしていた男の腕がだらりと下がった。しかし、刀は一寸も腹に食い込んでいない。刀の腹を男の血が渡ってくるが致命傷とは言えないようだった。
 維人は刀を引こうとした。襲われたとはいえども見ず知らずの男を殺めたくはなかった。
 しかし、引き抜こうとした右手は強い力に抑えられて動かせなかった。気がつくと維人の二の腕を細い目の侍が握っている。
「おのれ、森野辺」
 血を流す男が言った。
「止めを刺してやれ」
 森野辺という侍が維人にささやいた。
「やめろ……」
「刺せ。こいつは主君を裏切った罪人だ」
 関わりたくないという思いから、維人は握りを緩めた。一瞬下がった柄は森野辺に持ち直され、刀は男の腹を貫いた。森野辺は一気に男を押し倒して、刀を引き抜いた。維人の刀は紅に染まっていた。
「貴様、……いつ、塚本の、屋敷を……抜け、出した」
 男は危うげな半眼を開いたまま森野辺の顔を見て言った。答えが待てぬほどの、虫の息だった。瞳が左右に細かく揺れている。
 森野辺は答えず、その瞳の揺れが止まるのをじっと見届けて、死ぬのを確認すると目を閉じてやった。男の口からだらりと黒っぽいものが垂れた。
「懐紙はあるか? 早く拭わねば駄目になるぞ」
 森野辺は維人に刀を返しながら言った。懐紙を取り出して拭くと血は綺麗に拭えたが、臭いは刀身に残った。刃紋がやけに禍々しく見えた。
「拙者、森野辺泰明(やすあき)と申す」
 本人の口から森野辺の姓を聞いて、はっと思い出した。
「森野辺と申されると、あの雨月流の?」
「まあ、一月前まではな」
「どういうことです?」
「森野辺家は閉門になったのだ。道場で栄えた雨月流も、今は拙者の下を離れておる」
「では、森野辺無涯(むがい)の名は?」
「一月前までは拙者が名乗っていたが、もはや存在せん」
 遠い目をして森野辺泰明が言った。
 森野辺泰明は背中を丸めて庭に下りると、最初に斬殺した男の傍に歩み寄った。
「無涯の名は、この浅岡にな、受け継がれておった。……金銭に惑わされた哀れな男よ」
 その話しはどうやら深く聞き出さないと全貌が見えそうになかったが、どうやら森野辺泰明は浅岡無涯に道場と雨月流を奪われていたらしい。口ぶりからすると浅岡という男も雨月流の使い手なのだろう。元の師匠には敵わなくて当然だろうが、そんな男と剣を交える寸前だった維人は命拾いをしたと言って良さそうだ。維人の刀が刺した男の口からは塚本という名前も出てきた。一月ほど前に善右衛門が口にしていたお家である。森野辺道場の件も含めて、父に聞くことがいくつかありそうだ。
 そう思った矢先に、森野辺泰明が言った。
「二蔵善右衛門殿はご存知だな」
 突然のその言葉に維人は驚きを隠せなかった。
「何故そのように思われる」
「先ほど右へ払ったろう。あの時の肩の使い方は善右衛門殿にそっくりだ。日ごろから訓練しておかねば、あのような窮地で発揮することはできまい」
 父を知っている口ぶりだった。どうやら、善右衛門と雨月流の間に関わりがあったという推測は当たっていたようだ。
「善右衛門はそれがしの父です」
「左様か。拙者はお父君の古い友人だ。すまぬが案内願えぬか?」

続く