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迷い脚

九.

 江戸屋敷の藩主、篠山順義(ささやまよりよし)の寝所に血が流れたのは夏の盛りの時期で、その惨事の下手人は知れなかった。火急の事で調べるに至らなかったのだった。しかし、順義公の命に別状は無かった。歳の若い家士が身代わりに命を落とした。寝所に流れたのは彼の心臓からこぼれおちた血だった。傷は相当に深く、正確に心臓を貫いていたから、おそらく息絶えるまでの時間は短かったのだろう。部屋には争った形跡が残っていたが布団が捲れて撥(は)ねていた程度で、騒動は短いものだと思われた。
 順義公に危険を伝えて、寝所に身代わりをおくことを進言したのは、当時の首席家老の塚本だった。塚本は城下から早馬を飛ばして、藩中で蠢いていた策略を主君に届けることで、結果的に若い家士を犠牲にしたが暗殺を防ぐことができた。
 しかし、順義公は逃げ延びたものの藩政は元通りに戻ることはなく、塚本の知らぬところで政変は進んでいた。藩主が行方を暗ましたのと良いことに、かねており機を伺っていた造反家老と藩主の近縁にあたる篠山義成(よしなり)が、その中心に居た。義成は勝手に留守居役を名乗って、塚本家を閉門にすると、藩政を牛耳り始めたのであった。
 塚本は慌てた。表情にこそ見せなかったものの順義公との連絡が取れないまま閉門とされたのは大きな事だった。目算では暗殺騒動を抑えた後に江戸に身を隠した順義公と連絡を取って下手人を挙げ、それを証拠に造反藩士たちを捕らえていたのだったが、閉門となってしまっては監視の目に触れて下手な行動が取れない。それはつまり、順義公の孤立を示す。このままでは、順義公が表に顔を出さない限り、藩政は義成にものになってしまう。
 渦中の中心部で、義成は順義公の探索を始めた。主君を救うためであると称したが、その実は今度こそ主君を亡き者にしようと言う思惑であることが良く伺えた。そして、誰の入れ知恵かは知れないが、その探索は一月で打ち切るものとして、見つからなければ自身が藩主となって徳川へお目通りをするという意向を示したのであった。
 当時の家中で飛び交った様々な思惑と同じか、それ以上の数の考えが塚本の頭の中で飛び交った。既に塚本は家老職を奪われていて、屋敷の面積も小さくなり、二十一畳あった自室も六畳に減った。塚本はその六畳の中に塚本派と知れていない近臣を集めて、夜な夜な密議の長に就いた。密議の中心は遠く離れた江戸の順義公を如何にして救い出すかと言うことだった。
 
「浜本千蔵(せんぞう)という、殿の御傍用人が江戸にいた」
 森野辺泰明が言った。
 すっかり日が落ちた暮六ツ過ぎの二蔵の屋敷で、維人は善右衛門と並んで隣藩の大事を耳にしている。維人が今朝に立てた今日の計画では既に就寝していたはずで、泰明が話し始めてから早くも四半刻が経っているが、維人は一切の眠気を感じなかった。泰明の口から聞かされているこの話が、ここ一月のいろいろな出来事を締めてくれると悟っていた。
「千蔵は、殿と塚本様の文を鳩を使って届けておった」
 塚本派は千蔵が飛ばした鳩の脚に括られた文を読み、順義公の身の安全を知ることができた。文によれば、順義公は千蔵の手引きで江戸市街の笹屋という旅籠に身を隠しているようだった。千蔵は文の中で、笹屋に身を隠している限りは安全だと言っていた。千蔵と笹屋のつながりはどういったものかは知れなかったが、千蔵は長く順義公に仕えている身であるから、塚本は千蔵の言葉を信じることにした。しかし、安全が確保できたからと言って、何かが進展したわけではなかった。義成は順義公の命を狙っている。義成を留守居役から降ろすには、順義公が生きている証を伝えねばならない。一番手短なのは順義公を藩へ戻すことであるが、多くの障害があった。
 順義公も義成も統一した考えを持っている事があった。それはこの江戸屋敷の異変を他藩やお上に知られぬように処理しなければならないと言うことだ。殿が不在であると知れれば、藩は何かしらの処罰を幕府から受けることになるだろう。それはあってはならないことの一つだ。体面上は何事も無いように振舞うため、義成は順義公を病に仕立て上げて、床に伏せていることにした。
 塚本は、その話しを耳にしたとき、そこに別の謀(はかりごと)が見え隠れしていることを知った。幕府にとって、順義公は病人になっている。その事実によって、順義公は外出ができない。義成は上告一つで江戸の目を味方につけたのである。
 塚本派の密議は続いた。
 順義公を連れ出せない以上、やり取りは文を使うしかない。そう、鍵は文だった。
「義成を引き摺り下ろすには、上意文を広げるしかないと、塚本様は申した」
 だが、上意文は鳩の脚に括りつけられるような軽いものではない。
「そこで、飛脚を思いついた」
「しかし、よくもそのような大事な文書を<通しの並>のような安い飛脚に頼めたものですね」
 維人が口を挟んだ。
「むろん、考えがあってのことだ」
 森野辺泰明の口が笑んだ。
 
 笹屋にふらりと飛脚がやってきたのは、前日の夕立が長引いたせいで朝もやが濃く張った日の出前のことだった。その飛脚は背筋をしゃんと伸ばした飛脚走りではなく、寝起きの番頭のように背を丸めて、掛けられたばかりの笹屋の暖簾を潜って消えた。その飛脚が再び通りに顔を出したのはそれから直のことで、出てきたときには威勢の良い、江戸の通し飛脚に代わっていた。笹屋に入っていったときとは正反対に背筋をしゃんと伸ばして、早足に中山道へと消えていった。
 それが、千蔵だった。五十両と言う小判を積んで、飛脚の身柄と衣類を買ったのである。その指示は藩中の塚本が文書と通して出したものだった。とにかく千蔵は<通しの並>に化けて江戸を発った。担いだ書簡には義成と造反家老に終焉を告げるための大事な文書が入っている。千蔵は、身を守るために元々の通しの並としての役割を果たしながら中山道を下り、塚本の屋敷を目指した。
 しかし、藩中では義成が目を光らせていた。江戸市街における順義公の自由を奪ったことに胡坐をかかず、次に打ってくるだろう文という手を塞ぐべく、飛脚の取締りを暗に始めた。だが、その動きは塚本の目にはしっかりと見通されていた。千蔵にはあらかじめ、藩内には踏み込まないようにと伝えていたのだった。
「千蔵は藩に最も近い中山道沿いの宿場町に着くなり、<通しの並>という仮身を捨てた。そして、塚本様の指示通りに近隣の住人に化け、さらに、失せた飛脚との関わりを隠すために、江戸から来るはずの飛脚が来ないと吹聴して回ったのだ」
 森野辺の言うところの<中山道沿いの宿場町>が、春日町であることはすぐに分かった。
(では、迷い脚は虚実か……)
 そう思った瞬間に、全身の力が抜けた。この一月の夜回りの意義が否定されたことに違いは無い。春日町の見回りも稲荷参道の見回りも迷い脚の直接の解決にはつながらないと分かってはいたが、地道に手伝ってきたことで役目と言うものを知るよい機会だった。その意味では、決して無駄な事ではなかったのだが、維人は本心で結果を実らせたいと思っていた。
 錯綜する思惑のせいで、森野辺の言葉は耳から遠ざかって、経のようになった。維人はすぐにでもこの事実を基之進に伝えに行きたい衝動に駆られている。
「しかし、貴公らのおかげで、無駄な犠牲者を出さずに済んだ」
 突然に森野辺の声が飛んできて、維人の意識が舞い戻った。瞬時に頭の中で直前の言葉を振り返ったが、何の事だか良く分からない。力なく、はあ、と返事をした。
 森野辺が感謝していたのは、中山道とその周辺の夜回りに対するものだと言うのが、その後の言葉で分かった。どうやら、造反の過激派達が義成の意に反して始めた中山道の書簡狩りを、食い止める形になったことらしい。森野辺の言葉の端から、それが断片的に伝わってきた。つまるところ、佐吉はそうしたことの流れの中で、過激派の連中に殺されたということになる。
(為三さんが襲われたのも、基之進が言うように飛脚と見間違えてのことか?)
 そう思ったとき、維人の胸中を閃光が駆け抜けた。
 為三、すなわち千蔵という構図である。そこに気付いた瞬間、維人の中で昼間の出来事が全て説明されたような気になった。
 森野辺の話は、維人の考えを証拠付けるようにして続いていった。過激派達は稲荷参道周辺をうろつくうちに為三に化けた千蔵に気付いた。そして、小柏の村にあった見た目だけ修繕した千蔵の隠れ家を探し当て、千蔵の帰りを待ち伏せて、結果的に今日の昼に、黒屋の使いとして住居を訪れた維人と遭遇したのだ。
 しかし、疑問がある。では為三はどこに消えたのかと言うことだ。
 これまでに聞かされた話から、千蔵という男はいざと言う時の<それなりの心得>がある男と察せられた。千蔵は志麻と結と稲荷参道の夜道を歩いたあの時、書簡狩りをしていた奴らと面を合わせている。江戸勤めだと聞いていたから面識は恐らく無かっただろうが、身の危険を感じたに違いないなかった。千蔵はその後、この二蔵の屋敷に泊まり、翌朝に出て行った。そのまま小柏の村に帰ったのだろうか。
(いや、普通なら帰らない)
 小柏の村に行くには稲荷参道を通るしかない。その参道に、千蔵にとっての刺客が隠れている可能性がある。普通の考えを持つ者ならば、稲荷参道は入ることが出来ない道に他ならないのである。
(しかし千蔵は流れ者に近しい存在だ。行く当てがあるとすれば……)
 黒屋だろう。そう考えた時に維人は、森野辺の口から出続けていた経が止んだことに気が付いた。維人が顔を上げると、反対に森野辺は頭を垂れて畳に手を付いた。
「善右衛門殿! 二度に渡るこの恩義、感謝の極みでござる」
 あっけに取られる維人の隣で、善右衛門が優しい笑みを浮かべている。いつの間にか開いた奥襖(ふすま)の向こうで見覚えのある男が、森野辺と同じように座礼をしていた。気になさるな、という善右衛門の言葉を機に上げられた顔を見て、その男が為三であり千蔵である事を知った。知ったが、もはや維人には何がなんだか分からない。耳の奥で閑古鳥の鳴き声が聞こえた気がした。

続く