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迷い脚

十一.

 維人にとって、その日が忘れられない日になることは、確実だった。
 前日の夜は、刀は愚か木刀すら手に取らず、瞑想にふけった。そして、一月前の夜回りの生活に戻ったかと誤解されるような刻限に眠りに就いた。興奮が火を消した後の墨のように熱を帯びて、眠りを妨げると予想していたからだった。
 古菅道場は維人が入門した頃の栄を失いつつあり、交流戦に集う門下生の数も長い目で見ると減ってきている。今回は亡くなった玄舟斎の霊を鎮める目的もあった為、二十五人の関係者が集まった。その中には当然、道場の師範代を勤める父の姿があったが、基之進は見られなかった。志麻と一緒に来るよりはましかもしれないと、維人は複雑な気持ちになった。
 交流戦は先月より十一名も多く始まる事になりそうだった。
「変わりないか?」
 善右衛門の維人に対する最初の言葉がそれだった。
 この十日は一度も家に帰っていないせいか、善右衛門の目には心配の二文字が浮き彫りになっている。あるいは、寂しい、の三文字かもしれなかった。
「この通り。ですが、少々髭が伸びました」
「うむ。そのようだ」
 優しい物言いだった。
「今日は私も出ようと思う」
「ははあ。それは楽しみです」
 維人が迷い無く言うと、逆に善右衛門が驚いたようだった。後になってからその驚きの意味を考えると、これまでの自分自身には無い言葉だったことに気づいた。言うまでも無く手練である善右衛門を相手にすることは負けを意味するのに近く、楽しみだとはとても言えなかったのである。善右衛門はこの会話の中で、維人の成長を知ったらしかった。
「今日は面白い日になりそうだ」
 善右衛門が言った。
 その後の話は、ごく普通の世間話だった。森野辺から万事解決したとの文が来たこと、創次朗の新居がなかなか決まらないこと、黒屋吾平が維人を案じていること。維人が道場に篭っている間にも周囲ではいろいろなことが起きていると、改めて思い知った。中でも興味を引いたのは、善右衛門が今日の試合に雨月流を誘っていたことだった。しかし、藩政の立て直しに奔走しているようで藩外に出られないと断られたと聞いて、維人は善右衛門と無念を共有した。
 最初の試合は五ツ半(午前九時)に始まり、一試合一試合、着実に消化されていった。門下生達は道場離れが進んでいたせいか短期決戦が多く、正午を過ぎる頃には半分以上の試合が終っていた。ここまで、維人は三戦無敗である。昼餉は午後の試合に影響を出さないように、白米と味噌汁だけで済ませた。
 午後の維人の一戦目は兄弟子の土浦半兵衛という男が相手になった。今日の交流試合に顔を出している兄弟子は五人いるが、今でも頻繁に道場を訪れて稽古をつけるのは半兵衛ぐらいである。その半兵衛の実力はと言えば、維人より上であった。
 半兵衛との一戦は木刀の形が変わるのではないかと思えるほど、激しい打ち合いで始まった。維人も半兵衛も午前の試合数は同じであるから消耗した体力は同じようなもので、試合前の不平等さは無い。十歳と離れた年齢の分だけ維人に勢いがあって良いはずなのだが、半兵衛の巧みな太刀裁きに維人の剣術は押されていた。維人のかかとが一歩ずつ着実に道場の板の間を跨いでいく。維人は苦しくなって腰を捻り、半兵衛の勢いをいなした。半兵衛は一瞬左足を滑らせたが、すぐさま体制を立て直して維人の小手を打った。それが決定打になって、維人は一敗を期した。
(しかたない)
 玄舟斎の遺した奥義の手がかりをつかんだからと言って、急成長するわけではない。何かに気づくことは何よりの成長だが、それはきっかけに過ぎないのだと維人は自分に言い聞かせながら一礼を終えて自席に就いた。
「惜しかったですね」
 不意に横にいた男が言った。
 見れば基之進であった。
「なんだ。遅いじゃないか。来ないかと思ったぞ」
「このところ、お役目と家の都合で忙しく自由が利かぬのです」
 一月近く会っていなかったわだかまりを忘れて話し始めたのだが、家の都合と言われて志麻の顔が浮かんだ。基之進に気づかれないように横目で周囲を見回したが、志麻の姿は見えない。なんだか妙だと思いながら、一安心している自身に気が付いて、維人は目を伏せた。
「まあ、いろいろあるな」
 維人が白々しく言った。
「二蔵さんはどうですか?」
「毎日、木刀を振っているだけさ」
 目の前で繰り広げられる試合に目を配せつつ、二人は言葉少なに話した。
「今日はやらないのか?」
「……迷っています」
 基之進がつぶやく。
「今日に向けた準備もして来なかったので、怪我をするのではないかと……」
「臆しているのか」
「はい」
 維人が何とかできないかと思案していると基之進はこうも言った。
「師範のことを思えば、来たからにはやりたいのですが」
「そうか。では俺とやろう」
 基之進は無言で頷いた。
 半兵衛と試合をして消耗した体力が戻るのを待った結果、維人と基之進が対峙したのはその日の最後の試合だった。その試合が来る前に善右衛門は他の門下生と何戦か交えたが、いづれも稽古の体を離れず、試合とはいえない展開だった。維人自身は基之進との試合を目標に置いた為、善右衛門とは交えなかった。いや、そもそも善右衛門と交えるつもりは無かった。
 維人と対した基之進の目は気力に満ちていて、熟練の半兵衛に比べれば力(りき)みがあったが逞しかった。維人は初めから本気にはならなかった。基之進の感覚を戻させるようにして、最初は力を込めずに基之進の木刀を導いて、そこから徐々に切れを上げていった。三度目に基之進と距離をおいた時に立ち会っていた善右衛門から、そろそろ良いだろう、と声を掛けられて、二人は正眼に構えなおした。勝負は一瞬で、逆袈裟から突きの一連の太刀筋で基之進の体の自由を奪った維人が勝利した。
 五戦一敗の戦績で、交流試合は幕を下ろした。玄舟斎亡き後の古菅道場の再興ためにも門下が一身となることが必要だと言った善右衛門の閉めの言葉が耳に残る中で、維人は基之進から食事に誘われたが、あいにく用事があると断った。家用を大事にしろとも言うと、基之進は怪訝な顔をしていた。維人は門下の各人を送り出した後、道場に残って善右衛門と試合の後肩付けを始めた。
「父上」
 全ての道具を蔵にしまった後で、維人が言った。
「一戦、如何ですか」
「何? 今からか」
 善右衛門は驚いた風だった。交流試合の中で臨まなかったのに、ここで臨んできたことを意外だと思っているのだろう。しかしそれは、維人が今日もっとも望んでいたことだった。交流試合では人目に触れてしまうため、燕を試すには人払いをした後の道場で無ければできないと分かっていたからだった。
「分かった。良いだろう」
 燕のことは一言も言わなかったが、善右衛門は何かを悟ったようで承諾した。
 
 善右衛門の剣は、昼間の親善試合で見せたような指南の剣とは全く違っていた。維人の太刀をいなすのではなく、しっかりと受け止めては跳ね返してくる。かといって、攻め込んでくることも少なかった。元々、善右衛門の剣術は応じて返す反撃の手なのだ。維人は反撃の隙を見せないように一本一本を丁寧に出す必要があった。隙無く攻め込む術は、これまでに何千回と取り組んだ善右衛門との乱取りで身に着けていた。
 二人は押し合っては離れる所作を十度以上も繰り返した。やがて痺れを切らしたのか、あるいは体力が尽きてきたのか、善右衛門の方が打ち合いを嫌うようになった。維人が踏む込むのをいなしては距離を置くようになったのである。
 見せてみろ――
 そう言われた様に思えた。
 善右衛門との距離は二間弱。燕を打つには距離が足らない。五寸河原で玄舟斎が実演した時は九間の開きがあったが、あれは老いた体で勢いをつけるのにそれだけ必要だっただけで、実際には五間もあれば足りると言うことが判っていた。
 維人は思い切り勢いをつけて善右衛門に突進し、渾身の力を込めて右足のつま先から天井に抜けるようなすり上げを放って、善右衛門の体を押しのけた。上手くいったのを確認しながら、維人自身も後方に五歩退いた。
 五間の距離ができた。
 維人の体は既に半身になって、右手を善右衛門の視界から隠している。燕は既に、維人の手中に納まっていた。
 善右衛門は、恐らく既に気づいていたのだろう。対処を知っているのか、はたまた師範代の余裕なのか、開いた距離を消そうとせずに正眼に構えて受けの姿勢を見せた。
 維人は道場の板が剥がれるぐらいの力を後ろに回した右足の親指に込めて体を前に弾き出した。玄舟斎と全く同じようにして右手を善右衛門の死角に隠したまま、姿勢を低くして突進した。維人の視界で善右衛門の像は上下に揺れるも、正眼の構えは崩さない。<手を返す>瞬間が近い。維人は左足を床に叩きつけ、跳躍した。
 善右衛門が左肩を引く。
 構わず、維人は後ろに回した右手を下から引き抜くと同時に持っていた木刀を滑らかに離し、順手から逆手に切り替えた。<燕>の隠し技だった。跳躍した維人の膝は善右衛門の肩の高さに至っている。五寸河原で玄舟斎から受けたのと同じように、維人の木刀は逆手に握られて自身の膝下をすり抜け、善右衛門の額に届く、はずだった。
 善右衛門が視界から失せたのと、左のわき腹に鈍痛が響いたのは同時だった。
 仕組みは簡単で、善右衛門は下から伸びてくる維人の木刀を交わしながら右足を軸に体を回し、
隙だらけとなった維人の胴を打っただけだった。胴を打たれるまでが予想以上に早かったのは、維人が手を返した時に善右衛門もまた手を返していて、逆手に握られた木刀を端的に当てて来たせいだった。
 ともかく維人の燕は空振りに終わり、善右衛門の反撃をまんまと受けた。防具のおかげで肋骨は折れなかったが、しばらくうずくまるには十分だった。
「そうか。お前も<裏手>を身に着けたか」
 体を起こせない維人に視線を合わせて、善右衛門が言った。
「経緯(いきさつ)は知らないが、どうやらお前も流派の真髄を知ったのだな」
「<裏手>というのですか」
 維人は不恰好に、ぜいぜい言っている。
「そうだ。私が今使ったのも<独楽(こま)>という、一番簡単な裏手の一つだ」
 善右衛門は、裏手は使いどころが難しいこと、燕はその中でも特に気を使う必要がある一手であることを教えてくれた。
「では、どのような時に使えば宜しいのでしょう」
「未知の相手が良かろう。仕組みを知っているものにとって、裏手は驚くに足らないものだ。裏手の効力を守るためには、人前で用いてはならぬぞ」
 つまりそれが、森野辺泰明に勝ちを譲った理由の一つなのだと悟った。
「父上」
 維人は体を起こして、そこに直った。
「それがし、江戸へ剣術修行に参りとうござる」
 今日の結果がどうであれ五日ほど前から心に決めていた胸の内を、維人は父に伝えた。

続く