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迷い脚

十二.

「それでは、少なくとも年内は維人様をお見かけするのも今日が最後になりますかな」
 この足でそのまま城下を出て江戸に向かうと告げると、黒屋吾平は残念そうに言った。
 維人が手元に置かれた胡麻団子に手を伸ばすと、左のわき腹がかすかに痛んだ。打ち身が完全に癒えたわけではないが、三日前のような激しい痛みは無い。
「戻りはいつ頃を?」
「そうですね……」
 銘は修行であるから、何かしらの心得を得るまでと答えたいところだったが、実際のところどれ程になるか分からず、二蔵家の面々からも時期を決めて戻るように懇願されていたから、
「まずは一年ほど」
と、答えた。
「では来年の盆頃ですかな」
「そうですね。玄舟斎先生の一回忌には顔を出します」
 ふと、吾平が優しい顔になって茶をすすった。
「維人様は立派になられた」
 突拍子もない事を言われて、維人はたじろいだ。
「いや未だに無役のしょうもない男です」
「澤湯村のあぜ道であなた様を拾った時は、こんな日が来るとは思ってもいませんでした」
 吾平が親の目で言った。
「それに、市村様の話では家中でも噂になる剣の達人とお聞きしますよ」
 基之進が何を言ったのか知らないが、そうなのか、と維人は少し口元が緩んだ。だが、家中には自分より腕が立つ人間が十人以上いることを知っていて、慢心はできないと思った。
 ふと、吾平と基之進の関係が気になったが、考えてみれば基之進と志麻が出会ったきっかけは黒屋にあるわけで、縁が遠いわけではない。だが、吾平が基之進と会うようになったと言うことは、いよいよそういう日は近いのだろう。維人自身はこの前の親善試合から基之進と顔を合わせていない。少し前のようにおもむろに避けている訳ではなく、単に試合の日からは旅支度が忙しくて会う暇が無かったのだった。実を言うと、黒屋のある伊佐木町に来る前に市村の屋敷を訪ねたが、家人は不在だと使用人に言われたのだった。
「そういえば、今日は結も志麻さんもいませんね」
 わだかまりのはけ口と言うわけではないが、それとなく吾平に聞いた。
「結は所用で春日町に出したのですが、そういえば帰りが遅いですな。志麻は、十日前に辞めました」
 吾平はきっぱりと言った。
「そうですか。確か志麻さんは、さるお武家のご息女だと聞きました。縁談でもまとまったのですかね」
 言いながら、人の家を覗き見しているようで歯がゆかった。
「いや。お父上が病に伏して、看病が必要なんだそうです」
「なるほど。では市村の御家も大変なわけですね」
 言ってしまった、と思ったが遅かった。黒屋は市村の家名を隠していたはずである。
 吾平は唖然とした顔でこちらをしっかり見ている。維人は視線を反らそうときょろきょろしたが、吾平は頑として目を向けてくる。
「維人様は一体どこでお知りに?」
 吾平の詰問に苦しい抗弁を垂れようと口を動かした維人には目もくれず、吾平は勝手に喋り始めた。
「ははあ。基之進様からお聞きになりましたか」
 維人は答えにつまり、吾平の舌に話の運びを任せることにした。
「ご存知の通り、市村様は体の弱いお家柄のようで、毎月の薬代が高くつき、台所は火の車なのだそうです。志麻がこの黒屋へ奉公に出されたのも、そうした背景があってのことでして。志麻は、唯一嫁ぎ先の決まっていない市村様のご息女でしたから。奉公に来た当初は一番末の妹が病気無く勤めているか不安なようで、基之進様が何度が様子をうかがいに来られたこともあります。ただ、人目に付くのを嫌って遠まわしに眺めていることが良くありました」
 全て、初めて聞く話だった。幼い頃からの長い付き合いで、知らないことはないと思っていた基之進の周囲にそんな事情があったとは、考えもしなかった。話を聞くにつれて、維人の耳は先端まで赤くなった。
「維人様。この話は結にも言っておりません故、誰にも漏らしてはなりませんぞ。この黒屋の信頼に関わることになります」
 吾平が熱心に説くので、維人は深く頷いた。真剣な顔を造るのに酷く苦労した。
 
(黒屋と市村家にそんな事情があったとは……)
 別れの挨拶もほどほどにして黒谷を出た維人は、荷物を肩に引っさげた旅姿で中山道を目指して城下を下っていた。東堀の坂を過ぎて春日町に入っていく。秋晴れの空はことのほか天が高く、どこまでもすがすがしかった。春日町の旅籠はどこも出立の客を見送ったあとで、忙しなく次の客を捕まえる準備をしている。一時は往来の減った飛脚も活気を取り戻してきたようだ。
 維人は二ヶ月前に夜回りをした時の情景と重ねて今を見ていた。相も変わらず無役で半人前の剣士だがあの頃と違って、今は目標がある。この二ヶ月で、初めて死骸を見た。初めて他藩の人間に関わった。初めて斬り合った。流派の真髄も知った。全ての経験が今に繋がっている。
 春日町の端が近づいている。城下の境を意味する堀を越えれば、維人の初めてはまた一つ増えることになる。
 とん、と背中を叩かれた気がして、維人は振り返った。
 額が触れるほどの距離に、結がいた。
「藩を出るの?」
 歯に衣着せぬ言い方が、いつもの通りで心地よかった。
「嫌な言い方をする。旅に出ると言ってくれないか」
「同じじゃなくて?」
「剣の修行へ行くのに、脱藩みたいで聞こえが悪い」
「なんだ。てっきり役目を探して出稼ぎに行くのかと」
 考えてもいないことだが、確かにそのようにも見えると思った。
「いつ戻るの?」
 やはり親子。吾平と同じことを聞いて来たので、維人はほくそ笑んだ。
「来年の盆には」
「そう」
 結の返事はそっけなく、一瞬だけ俯いたように見えた。
「……」
 維人は沈黙を破らないように肩をそっと寄せて、達者でな、とどうにか言った。
 結は二度軽く頷くと、それ以上は維人の歩みに付いて来ることなく、立ち止まって見送った。数歩進んで振り返った時、結の顔は笑って見てた。無理やり笑っているように見えないこともなかった。
 維人は一歩一歩確実に中山道の土を踏んでいった。曲がりなりにも一本道の中山道が歩むべき道を語っている。その脚にもはや迷いは無く、維人は弾んでいた。

終わり