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門下録

二.

 誠四郎が再び表に顔を出したのは、夕刻のことだった。
 大小の二本を腰に挿して玄関を出ると、黄昏の中を歩き出した。一心不乱にと言うよりも、どこか淡々としていて、顔は無表情だった。真っ直ぐな足取りは、ただただ、城下へ向かっている。
 昨週まで通りを紅く包み込んでいた街路の木々はこのところの寒さで色を落とし、黄昏に負けて真っ黒に塗りつぶされた顔の他人が、誠四郎の歩みとは逆方向にぽつぽつと歩き去っていく。もうすぐの下城の鐘が鳴れば、人影はもっと増え、黒い顔の分だけ夜が深まっていく頃合だ。
 誠四郎の進む道は、かなりの勾配を持った下り坂である。すれ違う者達の足取りは、皆一様に重たそうで、軽いのは坂の上に宿を取った旅人ぐらいのものだ。
 もっとも、誠四郎の足だって軽いはずはない。
 普段は考えもしなかったことだが、無二の友が死んだと聞かされると、見慣れたこの坂もひどく感慨の深い景色に変わってくる。思えば、半重を通じて小山近衛という人を知ったのも、この辺りの往来であった。誠四郎は移動を足に任せて、坂を下りながら、頭の中で半重との記憶をさかのぼっていた。
 誠四郎にとって不思議だったのは、一介の勤め人にすぎない半重が、家老職の人間とどういった繋がりがあったのかということだった。振り返ってみると、半重の話しの節々には小山近衛の名が表れ、半重と小山近衛は表にできない繋がりがあるように思えてならなかった。半重はその秘密の核心を語ろうとしなかったが、後年になって、深酒を食らった日に漏らしたことがあった。
 小山近衛は、隠密方の総括だったというものである。
 世が江戸に変わり、御家の政(まつりごと)が安定するまでの間、暗躍を重ねた隠密方を率いた人間が小山近衛である、と。
 隠密方の総括と言うと、その気になれば、邪魔者をことごとく闇に葬り去り、自身を政の頂点に置くこともできる人間だ。しかし、周囲の思惑を良い意味で裏切り、御家の血筋に自らの一族の人間を交わらせることもせず、それこそ隠密のように、表舞台から身を引いた。半重が語るに、それが今から二年前のことらしい。
『小山様は、怖くなったのだ』
 半重から聴いた言葉を思い出して、誠四郎は坂の中腹で、ふっ、と笑った。
 これ以上恨みを買って、子や孫の代で小山家を断たれるのが怖くなったと、小山近衛は言っていたそうだ。
 半重は、その晩の最後の一滴をお猪口に空けると、こうも言っていた。
『もし、俺が死んだら……』
『何?』
『……西町にある小山様をお尋ねしろ』
 冗談だと思って笑い飛ばした。しかし、その言葉を裏付けるようにして、半重の死は小山近衛の文によって誠四郎に伝えられたのでる。そうなってくると、半重の語っていた隠密方の話も、笑いの種にはできない。
 そのようなことを思い出している内に、下城の鐘は鳴ったらしい。
 誠四郎には、鐘の音が左から右に抜けていったが、城下は巾着を手にした侍や手ぬぐいを手にした職人で賑わい始めている。この時期の日没は、あっという間で、黄昏を過ぎた人の顔は提灯で蜜柑色に照らされていた。夜がもっと更ければ、一部の顔は赤く火照るのだろう。
 そんな城下の町を、誠四郎は黙々と日町の小山屋敷へ歩を詰めている。
 西町は、役人達の武家屋敷が立ち並んでいて、半目町と呼ばれていた。御家の主導権を今の殿が握るまでの間、力のある武家たちがにらみ合いを続けてきた、反目町である。傍目(はため)が悪いと、字を改めたのは近年のことだが、一部の間では未だにいがみ合いが残っている。それは、御家の底辺にいる誠四郎も既知の事柄だ。
 城の北部と西部は落差の大きい崖が邪魔をして道が敷けず、誠四郎が半目町に向かうには、実信城を右手に見ながら進むしかない。繁華な町を抜けた誠四郎は、最短経路となる御堀沿いに歩いていたが、御堀を埋める木の葉が放つ腐葉の臭いがつらくなり、再び町中へと足を向けた。
 小山の屋敷に着いたのは、日もすっかり暮れた夕餉の時刻である。そんな刻限にも関わらず、屋敷の入り口は餌を吸い込む鯰(なまず)のように開かれていて、誠四郎の足は吸い込まれるように屋敷の中へ導かれようとしたが、ふと、歩みを止めた。
 すると、空気を乱したのか、右手側に積まれていた手桶の山が、がたりと音を立てて崩れ落ちた。崩れた山の周りに、小さな木片が落ちていて、壊れた手桶がからからと転がっている。猫か何かがぶつかった様であったが、新月の夜は足元が暗くて視界が利かない。藍に染まった空はかすかな星の光しか宿していないのだ。
 気を取り直して屋敷の入り口を見たが、心なしか先ほどよりも門と玄関の距離が遠く感じられた。暗闇の占める分量が先ほどより多くなったせいもあるが、それ以上に、誠四郎の心がそれを嫌っている。虫の報せとも言うべきものかもしれない。辺りにひと気はないのだが、どこからか誰かが誠四郎を観察しているような薄気味の悪さが体に絡み付いて止まない。
 誠四郎は左右を見回し、屋敷の正面を離れて外壁沿いに東へ回りこんだ。裏口か、もしくは垣根の下がったところから、中を覗き込むためである。
 屋敷の東側は城の御堀に面した狭い路地であった。背丈の高いすすきが至る所に群生し、
やや歩き辛い。このところ使われていない道らしい。外壁はどこまでも高く、中を覗き込るような場所はなかったが、やがて裏口が見えてきた。
 裏口はきちんと閉ざされていた。家屋の光が、地面からくるぶしほどまである足元の隙間から漏れている。その光の中に二本の黒い筋が立っていた。
 戸の裏に立つ誰かの足の影がそこまで伸びてきている。
 誠四郎は察した。
 そして、その影を踏むようにして戸口の前に立った。
「……」
 戸の裏の人物は、こちらに気づいているのだろう。しかし、声は出さず、音も立てずに此方の様子をうかがっている。誠四郎もまたそうだった。右手は、大物の柄にかけている。
「誰だ?」
 新沼だ。新沼藤次(にいぬまとうじ)が戸の向こうにいる。
 天才死ねども、秀才は健在か。
 思わず緩んだ頬を引き締めて、誠四郎が名乗った。
「佐久間道場の、五村にございます」
「五村か。……何用だ」
「小山様にお会いしに参りました」
「……そうか。しかし、残念ながらお会いできんぞ」
 新沼は追い返すような言葉で出迎えてきた。
「どういうことです?」
「先生はもう息をしておらん」
「何ですと?」
 誠四郎が前のめりになってその真意を問いただそうとすると、新沼はどさりとその場に座り込んだ。いや、崩れ落ちたと言った方が正しい。
「新沼殿。怪我をしておいでか」
「大事無い。しかし……」
 小山近衛は半刻前に殺された。
 新沼のその言葉に誠四郎は絶句した。

続く