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門下録

三.

「半刻前、北見敏朗(きたみとしあき)という男が来た」
 小山近衛に会いたいと、その男は言った。
 その名に聞き覚えはなく、会ったこともない顔であったから、新沼は警戒した。しかし、話している内に、北見の正しい身なりと物腰の柔らかさから、わずかに隙を見せてしまったらしい。
 新沼藤次と言えば、誠四郎や半重と同じ佐久間道場の仲間であり、その筆頭に名を置く剣の遣い手である。その腕は天才半重と並んで、誠四郎ごときには手も足も出ない相手であった。新沼が小山近衛の側近を務めていたのは剣の腕が大きく買われているからだという噂もある。小山近衛が最盛期であった頃の御家の中での新沼の存在は、腕はあっても役に就けない者たちを大いに勇気付けるほどだった。
 その伝説の男が隙を見せたと言うのである。
 だが、それもそうだろう、と納得はできた。新沼は誠四郎よりも三つか四つ年上で、剣士としては衰の時期にある。剣士として藩政の中心で小山家老を護ってきたとはいえ、小山が家老職を退いて経過した年月は、新沼に警戒という非日常的な緊張を忘れさせるに十分だと言える。
 ともかく、新沼は北見というその男に隙を見せ、不意に腹を斬られた。
 致命傷に至らなかったのは、鈍っても目録取りということか。わき腹に当てられた刃を引かせずに峰を押さえつけて体から剥がしたおかげで、腹の筋を裂かれただけで済んだ。
 北見はひるんだ新沼を横に、すり抜けるようにして廊下を走ると、夕日の影に落ち込む中庭を通り抜けて、向かいにある小山近衛の部屋に飛び込んでいった。滑らかな動きで、屋敷の間取りを知っているようだった。
 新沼が一度付きかけた膝に拳骨を加えて立ち上がるのにほとんど時間はかからなかったが、振り返れば部屋の障子は開け放たれて、奥から鍔鳴りの音と短い叫び声とが同時に聞こえてくる。
 背中に汗を、腹に血を滲ませて中庭まで行くと、小山の部屋の暗がりから血に染まった刀が覗いた。刃に付いた人の血と照りつける夕日に、太刀は妖しい光を放っていて、それを手にした北見は酔いしれるような表情だった。己の仕出かしたことか、刀の切れ味なのかは分からないが、北見の吊りあがった口元に危険を察知した新沼は、すぐさま抜刀した。
 北見と新沼の距離は中庭を挟んで五間弱。二人が中庭に降りた勢いで刃を交えることになる。
 新沼は正眼に構えていながら、右肘の内側でわき腹の出血を抑えているせいで、切っ先が不恰好に下がってしまっている。まずいと思って正眼から脇構えへと移したが、北見は目ざとく動き出すと、赤く光る刃はあっという間に距離を詰めて来て、新沼の左肩を喰った。
 今度こそ、膝をついた。
 北見は眼を細めて、うずくまる新沼を見下ろしている。
「これまでかと思った」
 新沼が振り返って言う。
「だが、奴はそのまま屋敷を出て行った」
 北見が夕闇に消えていくのを見届けた後、新沼は小山近衛の名を呼びながら這うようにして部屋へと向かった。戸口から覗けたのは、仰向けに倒れて動かなくなった小山近衛だった。
 己の衰えを悔いつつも、見開かれた小山の目を閉じていると、何者かが裏口に近づいてきている足音がした。
「良かった。お前で」
 新沼が言った。
「その北見敏朗という男は?」
「逃げたが分からん。屋敷の正面には回ったか?
 お前が真っ直ぐに裏口に来たのではないのなら、すれ違っているかも知れん」
「……」
 少し考えて誠四郎は、いえ、と言った。
「誰もいませんでした。私は屋敷の様子が気になって、ここへ」
 そう答えて、はたと思った。
 誠四郎はあの辺りで誰かの視線を感じていたのだ。
「誠四郎」
 視線のことを言おうか言うまいか思案するうちに、新沼が名を呼んだ。
「はい」
「隠密方のこと、半重から聞いておるな?」
 即答しかねる問いだった。
 誠四郎がそのことについて知っているのは、半重の呑み話に限ったことで、嘘がないとは言い切れない。正直なところ、半重の死から思い出されたような言葉なのだ。本人が生きていた頃は、家中の誰に話しても笑われるとさえ思っていた。半重の話しにしても、どれもが断片的であり、誠四郎自身が関わりを持とうと考えたことがなかったせいか、ある種の御伽噺に違い。
「名前ぐらいは……」
 苦々しく答えた。
「……隠密方にいた者は、皆、殺された。倉橋半重も、山口孝介も」
 誠四郎は驚きを隠せなかった。
 無論、半重が死んだことに、ではない。
 山口孝介の名が出たことに、である。
 山口も誠四郎と同じく佐久間道場の門下生であった。
 有名だが狭く、門下の数も多いとはいえない佐久間道場の中で、遣い手と言われていた、新沼藤次、倉橋半重、山口孝介と言った面々が、揃いも揃って隠密方にいたとなると、隠密方の存在を完全には信じてはいなかった誠四郎は、一体何なのだろう。
「驚くな、事実だ。
 あの道場は隠密方の人材を養成する役割を担っていた」
 新沼自身、それを聞かされたのは隠密方に入ってからだと言う。
「腕が達って、人が斬れる。
 そういう者を、小山先生が引っ張り上げ、隠密方を創った。
 最もお前は、万学先生の意で外したのだが」
 それを幸と捉える余裕は、今の誠四郎にはない。
 落とした視線の先で、黒い染みが広がっている。新沼の流している血だった。
 誠四郎は気を持ち直して訊いた。
「如何なさいます。目付けに訴えますか」
「よせ。我らは、秘密裏に処理するのがお役目。
 小山様が殺されたとあっては、せっかく築き上げた御家が、
 また危ういものになる」
「では……」
「北見を探せ。探して捉えよ」
 無理だ。
 誠四郎はかぶりを振った。
 相手は天才を殺し、秀才に重傷を負わせた剣客である。
「敵う相手ではございません」
「案ずるな。お前には確かに人を斬る気迫がないが、腕だけなら半重と並ぶ。
 少なくとも私は、そう見ていた」
「……」
 顔をしかめる誠四郎をよそに、新沼は続けた。
「修宗寺(しゅそうじ)の文楽(ぶんらく)を尋ねろ。
 かつて、隠密方の書室を仕切っていた男だ。
 文楽ならば、少なくとも北見家のことは知っている」
(聞いたこともない寺だ)
 誠四郎はそう思った。

続く