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門下録

七.

「門下録……?」
 道場に関わる物だというのは、題目からすぐに分かった。
 しかし、それを誠四郎に渡す真意は見当が付かない。
 誠四郎は意味を解さぬまま、中に眼を通した。
 門下録の中身を知るには、数枚をめくるだけで十分だった。考え込むまでもなく佐久間道場に通った門弟達の記録である。分からない訳がなかった。
 記述は簡単な文ながらも内容は細かく、万学がどれほど温かい眼差しで門下生を見守って来たのかがよく分かる。入門の日、目録を取った日はもちろん、勝った試合の数から連敗の記録まで、記せるものはすべて記したような中身だ。中でも元に関する記術は親心が多分に含まれたらしく、誠四郎の知らない見合いの記録まで残っていた。
 その門下録によれば、半重の勝ちは生涯で五百三十二。誠四郎の倍以上に上る。半重の記録は、門下生の中ではどれくらいに位置するのかと気になって調べ始めたが、予想よりも多い門下生の数とそれぞれの記述に、誠四郎は匙を投げた。
(そもそも何人いるのだ)
 流派は時代が変わる前からあったにせよ、道場という形になったのは近年のことだと聞いたことがある。佐久間万学の葬儀の時でさえ、顔を合わせた門弟は二十人に達するかどうかというところだ。
 しかし、門下録にある数は五十人を軽く越えているし、誠四郎の知らぬ名も多くある。
 誠四郎は冊子を閉じ、あぐらをかいて考えた。
 流派の開祖は佐久間万学ではない。室町の中期に上方から流れてきた剣士、八十岡一閃が広めた一閃流を始流に、この辺りの豪族であった山来久八郎が流派の基礎を組み上げたと伝わっている。八十岡の死後、流派は山来家に残ったのだが、山来家は女児しか生まれなかった。山来家の娘達は遺産を分け、流派の主権は長女が嫁いだ佐久間家に渡った。以来、佐久間一閃という名が流派を束ねる武士(もののふ)に許され、その名は五代目まで続き、その名を名乗るものは世が認めた剣士だと云われるほどだったそうだ。
 しかし、五代目の佐久間一閃が死去し、万学が襲名しようという頃、世の中は豊臣から徳川へと移ろいでいた。江戸期に入ると野武士達は流派という敷居を境に集まって道場という拠り所を築くようになった。その、血気盛んな剣士達の集まりに、佐久間一閃という別格の剣士を道場主として置くことは、一案するところだと万学は考えた。
 一閃の名は人と集めるには良いのだが、いずれその名で争いが起こりかねない。万学は道場の中にむやみに上下関係を生みたくないと考えていた。入門した順序程度の上下であれば良いのだが、より腕の立つものが一閃と名乗れるような仕組みにはしたくなかった。
 そうして、万学は一閃の名を継がずに単なる道場主になった。一閃の名は道場の正面に埋められた石碑に刻まれるのみである。
 誠四郎の知る佐久間道場の歴史はそれで全てだ。
 話しの中に、誠四郎の姓である五村は関わりもしない。“八十岡”を細かくすれば“五村”になるのかもしれないが、冗談の類である。
「さて、どうしたものか」
 誠四郎はぱたりと冊子を閉じるとそのまま後ろにひっくり返り、片付けていない布団に寝転んだ。頭の重さに押し潰された布団から、ぷすーと音を立てて空気が抜けていく。
 門下録のことは、元に聞けば済むことだ。それは複雑な話しではない。
 複雑になりつつあるのは、半重の死である。
 新沼の言葉から推測するに、半重は隠密方の仇として北見という男に殺された。その北見については、隠密方の記録係を勤めていた修宗寺の文楽という男がくわしいらしい。新沼はその言葉を最後に死んでしまった。
 新沼の遺言を信じて、誠四郎は文楽と修宗寺を探して回ったが、どちらも知る者がいなかった。
 いま、展望するような手がかりは何もない。
 頼れるものがあるとすれば、死んだ半重が遺した言葉ぐらいのものだ。
(元が来た時、俺は何を考えていたのだったかな……)
 風邪を引いた日のことが少しあやふやになっている。
 誠四郎は半身を起こして中庭を見た。石灯籠が雪化粧をし、池の氷は行雲を上下逆さまに映し返している。
 そこに思い出させるものは何もなかったが、ぽんと浮かんできたものがあった。
「そうだ、たき火だ」
 数年前に燃えたという寺のことを、どうやって調べようかと考えていたところに、元が妙な冊子を持ってきたのだ。
 視線が門下録に戻った。
(よし、まず元を訪ねよう)
 一番簡単な用事から片すことにした誠四郎のその日は、雪駄を探すことから始まった。

続く