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門下録

九.

 死体を見るのは初めてではない。
 生を全うした老人に始まり、果し合いに負けた男、盗賊に襲われた女、さらには暴れ馬に蹴られた子供まで、多かれ少なかれ死んだ人間を見たことはある。
 しかし顔見知りの、しかも殺された亡骸となると心を廻る思いの数が違った。
 多恵は右手で腹の傷をかばいながら、左手で土を握って死んでいた。腹を斬られて死んだのだ。
(惨い……)
 人は後ろよりも前に神経が集中していると聞かされたことがある。実際、痣だらけになった道場での日々を思い出せば、背中を打たれたときよりも腹を打たれた時の方が、いつまでも痛みが消えなかった。
 多恵はもがき苦しみながらに元の部屋に視線を向け、精一杯に伸ばした手に土を掴んで、息絶えたのだ。
 その多恵の手を汚している土は、雪が降る前に殺されたと言うことを伝えている。
 雪が降ったのは元が門下録を渡しに来た日だ。忘れるはずもない。あの日の雪暮の空の下で風邪を引いたのだ。しかしその一方で同じ頃に多恵が殺されていたと思うと、誠四郎はまた胸が苦しくなった。
(あいつはどこへ行ったのだ)
 気がかりなのは、元の所在である。
 誠四郎を訪ねてきたあの日、この屋敷を出る前に多恵が殺されたのか、あるいはその逆なのか。つまり、屋敷から門下録を持って逃げてきたのか、あるいは屋敷に戻った後でかどわかされたのか。いずれにせよ安全な状況ではなさそうだ。
 あの日の元の様相は記憶していないが、雪の中をわざわざ訪れてくると言うことは、少なからず急いでいたと言うことだ。門下録にはそれほどの重みがあるのだろうか。
 そこまで考えた時、誠四郎は自身が手持ち無沙汰であることに気がついた。屋敷の中が気になって上がりこんだ時に、上がりかまちに置き忘れてきたのである。
「御免。誰かおらぬか」
 門のほうから聞こえたきた声だった。その方向に口をあけている屋敷はないはずで、佐久間家の来客になる。
 後先を考えると、聞こえなかった振りをしてやり過ごすのが正しい選択だと判断した誠四郎は息を殺すようにして庭に潜んだ。
 しかし――
「目付け方の加藤治兵衛と申す。誰かおらぬか」
 来客者はそう継げた。
 まずい、上がってくる。
 にわかに脂汗が額を伝った。
 上がりかまちには誠四郎の雪駄がある。脱いだばかりの雪のついた雪駄は在宅であることを伝えているようなものだ。それに、置きっぱなしになっている門下録も、家を空けるには不自然な状況を演出している。
 居留守を通せる状況ではない。
 道場に回り裸足で出て行くこともできるが、もし目付け方が一人ではなかったら誠四郎は不審者になり、家に帰されることがなくなってしまう。
「誰もおらぬのか?」
 不在を打診する声だ。
 次は上がってくるだろう。
 目付け方には報せるなという新沼藤次の遺言が気にかかったが、あの約束は『修宗寺の文楽』の件についてであって、門下録についての命ではない。そこに眼を瞑れば、目付け方に対して後ろめたいことは何一つないのだ。
 誠四郎は一番自然に見える居場所を探し、多恵の遺体の傍で合掌することにした。
(すまぬ、多恵殿。亡骸を利用するような愚行を許してくだされ)
「そこで何をしておる!」
 入ってきた加藤治郎兵衛は、廊下から庭に佇む誠四郎を見るなり罵声を浴びせてきたが、誠四郎はそれを無視した。というより、念仏を心読していたせいで本当に聞こえなかった。
 加藤は廊下から跳ねて中庭に飛び降りると、誠四郎の横に駆け寄ってきた。
 だが、凄んで寄って来たのは一歩目だけで、その後は速度を落とし、辺りを嘗め回すように観察しながらだった。誠四郎と同様、積もった雪の状況から今の凶行ではないと視て、緊張を解いたのだろう。
「佐久間多恵の亡骸か」
 誠四郎は、加藤の顔も見ずにうなづいた。
「惨いことをする者がいたものです。
 廊下に血の痕がありました。腹を斬られて逃げた後、庭で力尽きたようです」
「ふむ。いや、どうであろう」
 すると加藤は多恵を覆う雪の中に手を入れ、背中側の雪を払い始めた。
「正面から薙いで一太刀だが、死に至らしめているのは脊髄を砕いている背中の傷だ。居間の畳には血はついていなかったことを考えると、まず廊下で腹を斬られ、中庭へ逃げたところを後ろから袈裟に斬られたということになる。
 あの庭草履は倒れたときに跳んだものだが、地面対して少しだけ斜めに立っているから、雪はある程度積もっていて、上手い具合に冷え固まった。つまり一昨日の夜だ」
 早口に加藤が言った。
「左手の土は……?」
「植え込みの間は積りが浅い。非力でももがけばすぐに付着する。多恵殿の体は植え込みの中ではないが、左手の届く範囲に植え込みがある。多恵殿は土と雪をあわせて握ったが、体温で雪は融けて流れて左手が泥遊びをしたように汚れた。その証拠に、小指の下の方は泥の流れた痕が縞状についている。
 仮に雪が降る前にもがいたならもっと土が付くはずだ。それこそ、爪が真っ黒になるぐらいはな」
 誠四郎は関心を覚えながら、しかしそれ以上に、その話し口に引っかかりを感じた。
 そんな口調の知り合いが一人いた。
「ところで、失礼だが、お前さんはどこの誰だ」
 加藤が誠四郎の顔を改めて見た。
「お前……」
 細く開いていた加藤の目が丸く開いていき、口がわなわなと震えて、
「五村じゃないか!」
 そう言った。

続く