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門下録

十三.

「どうした?」
 佐久間元の記述に震えていると、いつの間にか多恵の記録を書き終えた加藤がこちらを見ていた。
「いや、何でもない」
 何でもない素振りにはなっていなかっただろう。誠四郎の背中には隠しようのない汗が止め処もなく流れ落ちてくる。
 元の身の危険は予期していたが、加藤と犠牲者の数字が合っていた事に一安心したばかりだった。それのに、目付け方の記録では既に殺されている。元と話したのはたった三日前のことだ。
 拷問を受けて堀に捨てられ、見つかったのが四日の朝だとすれば、さらわれたのは門下録を渡した後のことだ。状況からして、誠四郎は最後に元と会った人間だろう。何の目的かは分からないが、その人間は元をさらった後、佐久間屋敷を訪れて多恵を手にかけた。何かを探すために。
(門下録だ)
 その危険な冊子が、今は目付け方の手にある。
「五村……」
 加藤が呼びかけたその時、また暗闇から眼が覗いた。
「おい」
 源祐だった。
「ちょっと来い」
 源祐は加藤を呼び出すと、二人共に暗闇に消えていった。
 二人の話は、門下録についてのことに違いない。
 源祐が転写している最中に何かに気づいたのかもしれない。今更ながら門下録の全てに眼を通さなかったことが悔やまれた。そしてそれ以上に、あの時風邪を引いて寝込んだことに苛立ちを覚えている。のうのうと休んでいる間に元はさらわれ、多恵は殺された。
「五村」
 加藤はわりと早く戻ってきた。
「あの門下録とやら、やはりこちらに貸せぬか」
 内容が濃く、写すのに手間取っていると加藤は言ったが、それだけのことを伝えるのであれば、わざわざ源祐が加藤を呼び出す必要はない。建て口上だというのはすぐに分かった。
 しかし、誠四郎は二つ返事で応じた。
 元や多恵の死に門下録が関わっていることは一言も伝えていないのだから、目付け方は門下録が関係していることを知らない。それならば、目付け方に預けておいた方が外に漏れることはないだろうという考えと、持って歩く怖さが一致したものだった。
 念のため、転写を何に使うのかを聞いておこうかととも思ったが、また建前を聞かされるのが通例だろうと踏み、誠四郎は黙った。
「今日はもう遅い。
 俺も泊り込むから、お前も泊まっていけ」
 加藤は卓上に広げていた書物をしまって行灯の火を燭台に写すと、誠四郎を寝屋へと案内した。
「俺は暁七つ(午前四時半)には起きて朝餉を取るが、お前はどうする?」
「……少し疲れた。目覚めた時間に出て行くとするよ」
「そうか」
 床板がぎしぎしと鳴り、そのたびに燭台の炎が収縮を繰り返した。
「倉橋の奥方が会いたがっていたぞ」
 唐突に加藤が言った。
「紗世殿が、俺に? 何の用だ」
「知る者が少ないらしい。話し相手が欲しいのだろう」
 意外だった。
 面識がないわけではないが、ちゃんと話しをしたことはほとんどない。
 紗世はこの辺りでは一番といっていいほどの美人だった。話す機会があっても、そうしたことに慣れない誠四郎では相手が務まろうはずもない。実のところ、半重の葬儀に出なかったのも紗世が原因である。
 だが、その紗世は話し相手として誠四郎を望んでいるという。
「話し相手なら、お主が務めたら良かろう」
 誠四郎は気が向かず、跳ね除けるような言い方になった。
「馬鹿を言え。
 俺には女の欠片もないが妻がおる。あんな美人と一緒にいては、噂がたって仕方がない。お前はまだ独りだろう。いっそ嫁に貰ってはどうだ?」
(それだけはならない)
 誠四郎は強く思った。
「お前こそ、馬鹿を言うな。
 俺は行かぬ」
 誠四郎が語気を強めて断言すると、加藤の足が止まった。
 寝所に着いたかと思いきや、燭台を思い切り誠四郎の顔に近づけて睨みつけてきた。
「良いから行け」
 加藤の眼にはひどく力が篭っていた。
 それは決して蝋燭の火が熱いからではない。
 誠四郎を脅迫していた。
「お前が何をしているのか知らないが、直線的な行動は危険を招く。だから、一度一連の行動の流れから外れるのだ。その上で、身の回りに異変が起きようものならば、今度はその形跡を辿り、お前を追い詰めようという連中の背後に廻りこめ。
 お前の力でどうにもならん時は、俺を訪ねてかまわん。だがお前が求めるまでは、此方からは一切手を出さぬ。他流とは言え、一緒に腕を競った昔なじみの情けだ。良いな」
 最後に念を押した加藤の目は、目付け方の鋭いそれではなく、里岩平太の思いやりの篭った強くて優しい眼差しだった。
 誠四郎は眼を瞑って二度うなずいた。
「さあ、ここだ」
 加藤が寝所の戸を開けた。
 すでに寝入っている先客の寝息が、そこここから聞こえてくる。
 ほのかに酒の臭いもした。
 暗室で横になりながら、誠四郎は加藤の言葉を思い返した。
(そうまで言われては、一層、頼れぬではないか)
 加藤のいびきを右耳に、月の欠けた夜が更けていった。

続く