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門下録

十六.

「依然にお会いしたのは、いつだったかな?」
 よく覚えていることを、誠四郎はとぼけて聞いた。何を言ってよいか分からず、思いついたことを口に出しただけであった。
「祝言のお祝いをいただいた時にございますから……、もう随分になります」
 もう十年以上も前になっている。長屋に行くまいとした誠四郎の意思の賜物であろう。
(十年も経って、俺は何をやっているのだ……)
 一途な未練を苦み、誠四郎は恥じた。
「ですが、五村様のことは主人から良く聞かされておりました」
 紗世が言った。
 半重は役目のことをほとんど紗世に話さなかった。言えぬことが多かったのだろう。紗世にしても、あまり自ら話す性分ではなく、夫婦の会話はほとんどなかったのだという。
「主人が五村様の話をする時は、楽しそうでした。
 何といいますか……主人は、五村様が羨ましそうで」
 誠四郎には寝耳に水だった。自分のことが倉橋家の食卓に出ていたと言う話しに出ていて、それを半重が羨んでいたとは思いもしなかった。
「私なぞ、羨まれるようなことはしておりません」
 誠四郎は自嘲した。
 誠四郎にしてみれば、むしろ逆なのだ。半重には妻もいれば、充実した役目もある。人間としても役目としても宙ぶらりんな誠四郎とは違って、生きがいというものを手にしている。そう思っていた。
 しかし考えてもみれば、半重と紗世の間に子はいない。
 他所様の家庭に口を挟むつもりはないが、良い家庭だったのかという疑問が浮かばないでもなかった。
「この先は、いかに暮らしてゆかれるつもりだ?」
 なんだかまた嫉妬しているようなことを考えるのが嫌になり、誠四郎は話の矛先を変えた。
「考えているところです」
 紗世は視線を落として言った。
 そうした物憂い表情を快く見ているわけではいないが、紗世の場合は、明るく微笑むよりも、ずっと伏目に魅力がある。誠四郎にはそう見えた。
「暮らせる程度の余蓄はあるのか?」
「はい。当面は主人の財がございます」
「財?」
 誠四郎が思わず紗世の顔を見ると、紗世は視線を合わせ、口元で微笑んだ。口元だけなのに、輝くような笑みだった。
 誠四郎はすぐさま、伏目に魅力があるなどという先ほどの愚考を取り消した。
「金(きん)を、襖に隠していたのです」
(金……?)
 役目で得たものだろうが、普通なら禄は米で貰うものだ。金塊となると出所が限られる。その辺りの情報にとんと疎い誠四郎には検討がつかないが、半重はそうした人間とつながりがあったということだろう。
(いや、俺は先ほどから何を詮索しているのだ)
 誠四郎はすぐに考えるのをやめた。
 どうであれ、暮らす金があるというなら、問題にすることではない。
「ならば、しばらくは養生なされ。
 半重が死んで、心に負うたこともあろう」
 誠四郎が紗世に向かってぎこちなく笑うと、紗世はふふっと笑って凝り固まった誠四郎の笑顔に応じてくれた。
「戻られるか?」
「ええ。五村様は?」
「私は帰る。長屋まではお供いたそう」
 誠四郎は紗世と並んで歩き出した。
 傘は紗世の一本を共にし、誠四郎が持っている。
 雪が本格的になり周囲が冷えゆく中、誠四郎はもんもんとした気持ちを抑えるのに精一杯になった。
「五村様は……」
 長屋の前まで来て別れようという時に紗世が言った。
「主人を殺めた人を探しておられるのでしょうか」
 言葉の続きに浮つく誠四郎に平手を打つような言葉だった。
「誰がそのようなことを?」
「佐久間元様が、主人が亡くなってから五村様のご様子が可笑しいと」
 確かに、半重の葬儀には出ないわ、笠もかぶらずに雪に濡れて風邪を引くわ、元から見れば可笑しな所だらけだったろに違いない。
(だが、わざわざ紗世殿に言うことはないであろう)
 そうは思っても、元はもうこの世にいない。
「次は墓前で報告できれば良いのだがな」
 誠四郎は溜息混じりに呟いた。
 紗世は昼餉の食卓に誘ってくれたが、誠四郎はこれ以上はと思い、あいにく用事があると嘘を言って断った。
「そうですか」
 紗世はひどく残念そうな顔をした。
「紗世殿。寂しいお気持ちは分かるが、まだ供養の中であろう。
 しばし辛抱されぬか。半重にあの世で寂しい思いさせてはならんぞ」
 紗世は奥歯を噛んで、はいと頷いた。
「では、私はここで」
 立ち去ろうとすると紗世が再び呼び止め、誠四郎に笠を差し出した。むろん、半重の編み笠である。
 雪はしんしんとなり、止む気配がない。
 誠四郎は一礼して笠を拝借し、その場を後にした。
 昼餉を取りに繁華街の割烹に入った時には、昼八つ(午後二時頃)を少し回っていたが、朝が遅かったせいか、それほど空腹を味わうことはなかった。
 通された二階の座敷で待つ間、外に目をやると、実信城向きの窓から城の石垣の手前に広がる東堀が見えた。
 元の死骸が見つかった御堀である。
 誠四郎は昼餉を済ませて御代を払う際に酒を一瓶もらい、堀へ向かった。元が具体的にどこで見つかったのかは知らなかったが、堀を覗き込めば人が立ち入ったような形跡があり、その場所はそれとなく分かった。
 御堀の周囲に張り巡らされた柵伝いに、その場所に近づいていくと、こつんと、つま先に何かが当たった。
 酒瓶であった。
 誠四郎と同じことを考えた佐久間道場の人間がそこに置いたものだろう。同じようにして誰かに蹴られたのか、他に五本の瓶が転げている。酒瓶はどれも霜焼けする様な冷たさだ。
 誠四郎はその一本一本を雪に突き刺して立て、横一線に並べた。並べている途中から、酒瓶に書かれたそれぞれの店の文字が滲んで読めなくなってきた。
 半重も元も死んでしまった。
 木剣を振っては喜び、悔しがり、時には喧嘩もした日々が懐かしい。
 仇は、必ず。
 誠四郎の涙は、一つ残らず雪に吸われていった。

続く