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門下録

十九.

「山口……」
 誠四郎の口から漏れた言葉に、山口孝介が振り向いた。
 その隙をついて、加藤が八双から斬り下げる。
「いかん!」
 誠四郎が叫んだ。
 山口は誠四郎に顔を向けたまま刀をなぎ払い、加藤の一太刀を跳ね返した後、空いた胴に突きを繰り出した。
 加藤は息を止めて身をよじり、突きを交わした。
 突きは加藤の懐を襲い着物を引き裂いたが、肉までは及ばなかった。
 しかし、無理に体を捻ったせいで足を滑らせ、加藤は尻餅をついた。
 誠四郎がすぐさま刀を抜き、加藤と山口の間に入る。
「五村」
「下がっておれ」
 うごめく加藤を一瞥し、誠四郎は両腕を静かに正眼に下ろした。
 山口の太刀筋は異端だが一繋がりの流れがある。まともに遣りあったのでは、そこらに倒れている者達のように対処を知る前に敗れてしまう。だが同じ道場でその太刀を見続けたものならば、その対処も心得たものだ。
 加藤はそれを察し、そのまま後退して様子見に入った。
 間合いの中で、誠四郎は山口の真意を探ろうと思ったが、それは無用だとすぐに分かった。
 山口はすでに誠四郎の知る人物ではない。
 眼は切れ上がって、頬はこけ、人相そのものが変わってしまった。血走った双眸からは、殺気しか窺えず、何人もの血を吸った漆黒の刀は山口の腕から生えているようだった。
 誠四郎が山口の初動を見切って、半歩後ろに跳ねた。
 山口は一歩を踏みながら、突き、払い、突きと出してきた。
 それを受け流すようにして切っ先を三度重ね、誠四郎は着地した。
 山口の攻撃は、突きから入って突きで締めるのは熟知していた。
 山口の口が不気味に笑っている。
(相変わらずだ……)
 そう思っている間に、山口の剣は先ほどと同じようにして誠四郎を襲い、誠四郎もまた同じようにして山口の剣を受け止め、あるいはいなした。
 その交差が三度続いた。
 誠四郎は、どこかでけりをつけねば終らない、と思ったが、そう思い切れない迷いがあった。
 山口は遣い手だ。誠四郎の剣がどこまで及ぶものか、考えたことはない。それに、同門の人間と刃を交えることは、できるならば即座にやめたいという願いがある。
 しかし、山口は構えを解こうとしない。顔は相変わらず笑っている。この状況を楽しんでいるのだ。
(一体何があったのだ、山口……)
 剣を交えるにつれ、誠四郎はそう語り掛けたい衝動に駆られた。
 加藤にはその様子が見て取れたのだろうが、黙って誠四郎の為に灯りを掲げている。
 誠四郎は此方から構えを解くか、いっそ踏み込んで勝負に出るかに悩んだ。
 短い膠着の後、先に動きを変えたのは、やはり山口の方だった。
 じりじりと丸まった体を伸ばしつつ、寝かせていた剣を揺り起こすようにして八双に移しはじめた。
 ごく、ありふれた八双だった。
 しかし、山口が八双を構えた姿を、誠四郎は知らない。
 山口は誠四郎の知らない間に身に着けた剣で、終らせようというのだろうか。
 誠四郎は固唾を呑んで、構えを下段に移した。
 山口の肩が動いた。
 誠四郎は刃を返し、下段から一気にすり上げると、山口の放とうとした袈裟斬りの出所を押さえるようにして、鍔迫り合いに持ち込んだ。
 だが、それは読まれていた。
 山口は刹那に右手を切羽から離すと、兜金を逆さに持って鍔をぐるりと反転させた。
 迫り合いに持ち込んだはずの誠四郎の力はあらぬ方向に飛び出し、誠四郎の剣は間合いの外の弾き出された。
 追い討ちをかけるようにして、足元の雪が誠四郎の体を滑らせる。
 山口の狂剣は誠四郎の腹の下だ。
「五村!」
 加藤が叫ぶ。
 しかし、山口の刀は誠四郎の懐を切り裂いた。
 斬られた――
 誠四郎は体の勢いを殺せぬまま、捻り倒されて雪の中に崩れ落ちた。
 あらわになった腹を雪が攻め、しびれるような感覚が全身を駆け巡る。
 視界は急に真っ暗になり、冷たい雪の布団が永遠に連なっているように見えた。
(俺も多恵殿と同じように、腹を斬られて死ぬのか……)
 そう思った。
 しかし。
 妙なことに、指先にはまだ力が残っている。
 痛いと思った腹も、感じていたのは雪の突き刺すような冷たさだけで、慣れればなんのことはない。
 誠四郎は寝転んだまま、懐を探った。
 着物は確かに裂けている。
 だが腹には一切の傷がない。
 ふと、指先に当たるものがあった。
 足裏の皮が破れた、一組の雪駄であった。
 山口が斬ったのは、腹ではなく一昨年の雪駄だったようだ。
 一昨年の雪駄に、誠四郎は命拾いをしたらしい。
「おのれ!」
 後ろから聞こてきた加藤の声に気を取り直した誠四郎は、手元に転がる刀を取り、起き上がった。
 加藤の足元に転がる灯りが此方まで届かないせいで、山口も加藤も、誠四郎が生きていることに気づいていない。
 加藤は山口に押され、塀を後ろにしたまま、耐えている。
 山口の丸まった背中はこちらに向けられ、隙だらけであった。
(迷うな、誠四郎――)
 己に言い聞かせながら、静かに歩み寄る。
(あいつにはもう、同門の情はないのだ。
 何のためらいもなく、斬ってきたではないか。
 もはや遠慮をしている場合ではない。
 これは殺し合いなのだ。
 ならばお前が、兄弟子として終らせろ)
 誠四郎の足が、灯りの照る白雪を踏んだ。
 それに気づいた加藤と誠四郎の視線がぴたりと合った。
 その視線の変化に気づいた山口が振り返るのと、誠四郎が左から右に刀をなぎ払ったのは同時であった。
 山口が、ばっくり開いたわき腹を押さえて、二歩、三歩とよろめくその間も、誠四郎は目をそらさずに見届けた。
 山口は苦り潰した表情を浮かべながら、なおも右手に握った刀で誠四郎を斬りつけようとしてきたが、それでも誠四郎は微動だにせず、じっと山口を見た。
 四歩目を滑らせて山口は辻に崩れ散り、提灯が照らす光と夜が埋める闇の境に、漆黒の刀が落ちた。
 山口の目は、なおも見開いて誠四郎を見ている。
 それは誠四郎も同じだった。

続く