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門下録

二十.

 納刀しようとした時に手を震わせて落とした刀を、拾おうとして腰を屈めたところまでは覚えている。
 しかし、その後に続いた景色は自室の火鉢だった。
 誠四郎は屋敷に舞い戻っていた。
 外は半刻も待てば日が昇ろうという明るさで、火鉢を挟んだ誠四郎の向いで、いびきをかいた加藤が眠りこけている。加藤は、器用にもあぐらに腕組みをしたまま横になっていた。加藤も誠四郎も、雪駄を履いたままだ。
 誠四郎は何度か首を振って、徐々に色味を与えられていく部屋の中を見回した。
 昨晩のことは夢でも何でもなく、荒らされた部屋はそのままである。違いがあるといえば一つだけで、中身が半分になった火鉢が起こされていることぐらいだ。
 身を起こすと、誠四郎の右手が何かに乗っかった。
 山口を斬り殺した刀であった。山口が死んだかどうか確かめていないが、鯉口に付着している粘り気のある血が斬り込みの激しさを語って、その柄に触れただけで人を斬った夜の衝撃が小指の間接から手の甲へ走っるのが分かった。
「ふう」
 誠四郎は天井を仰ぎ見た。手に乗った刃の重みが、山口が最期にみせた表情を思い出させる。
 あれは怨念というよりも、悔いを残したような表情だった。その悔いが、自らの敗北に対してか、これまでの自身の行為に対してなのかは、誠四郎には分からない。だが、いずれにせよ山口が誠四郎を睨みつけて死んだことは紛れもない事実であり、そのうえ、佐久間道場の最後の猛者を自らの手にかけてしまったということが、誠四郎の心をなおも沈ませてくれた。
 しかし、そう言って悔やんでみても何も始まらないし、そもそもこの一件は何も片付いていない。
 今回の山口の件がどう関わってくるのかは分かっていない。山口は生き死にこそあやふやであったものの、尋ね人ではなかった人物だ。その死が、誠四郎の剣でもって証明されることになったのは皮肉以外の何者でもないが、そこから新しい変化が望めるわけではなかった。
 唯一つ、浮かんだ事実がある。
 半重も山口も、北見敏朗に殺されたと言っていた新沼の言葉に反して山口は生きていた。
 新沼が意図して嘘をついたのか。嘘をついたつもりでなかったとしたら、流言に惑わされたのだろうか。たとえば、北見敏朗自身が、半重と山口を手にかけたことを自慢していたとして、それを真に受けたとは考えられまいか。
 それならば説明はつくが、誠四郎の納得には至らなかった。
 新沼の話では、北見敏朗は小山様を斬殺した後、早々に逃げたはずだ。そんな言葉を残していくようには思えない
 いろいろ考えかけて、誠四郎はそれらを破棄した。
 いずれにせよ、事実はあやふやなのだ。
 確実に分かっているのは、誰かがどこかで何かを取り違えた事実があるということで、まだまだ、それらをこれから探っていかねばならないのである。
「起きたか」
 この先の徒労に不安を抱きながら火鉢を眺めていると、対岸の加藤が眼を覚まして言った。
 いつの間にか空は水色に染まって、雲ひとつない空が姿を現している。
 昨日の雪雲はどこかへ掻き消え、明けの空には冬鳥の鳴き声が木霊していた。小春日和となりそうな空だった。
「あの後、どうなった?」
「後始末を他の奴らに任せて、お前を運んできた」
 人を初めて斬った時は、自分でも気づかないほどに神経を磨耗するらしく、卒倒することは珍しいことではない、と加藤は言った。
「その上、昨日は寒かった。見たところ、夕餉を取っていなかったようだしな」
 散らかっている部屋を見れば一目瞭然なのだろう。加藤はそれでは倒れるのも当たり前だという顔をした。
「……山口は?」
 一拍の呼吸をおいて誠四郎が訪ねると、加藤は一度視線を下げ、鼻息を吐いた後で誠四郎を見た。
「死んだよ」
 淡い期待は捨てていたつもりでも、面と向かって言われると、やはり空砲の如く虚ろを響かせる衝撃が胸を打つのが分かる。右手の甲が、またびりびりと痺れた。
「……そうか」
 誠四郎は口元で言った。
「気にするな、五村。
 山口は、ここ半年で二十人以上の命を奪った辻斬りだった。ずっと手配していたが、ことごとく逃げられて、我らの目付け方の被害も大きかったのだ。
 お前がやってくれなかったら、俺も死んでいたかもしれんし、この先に何人殺されていたかも知れぬ」
 誠四郎の落とした肩を加藤は言葉で叩いたが、誠四郎は何も言えず、気持ちを整えようと額を押さえるをに精一杯になった。
「それにしても」
 加藤が声を変えた。
「お前の屋敷は何だ?
 独りだからといって、これは如何だろう」
 どうやら加藤は、誠四郎が散らかしていると思ったらしい。
「馬鹿を言え。火鉢が倒れるほどに住処を荒らす輩がいるものか」
「では、これはどうしたことだ?」
「荒らされたのだ」
 言ってすぐにしまったと思ったが、手遅れだった。
「なんだと?
 誰の仕業だ?
 心当たりはあるのか?」
「……」
 すぐには答えられなかった。
 門下録といえば、間違いなく取り沙汰される。そうなると、道場の悪事を晒すような気がして、口が開けなかったのである。誠四郎はばつの悪い顔を隠せなかった。
「……門下録だな」
 白状するまでもなく、加藤は静かに言った。
 目付け方を前に隠し通そうという考えが浅はかだったことを思い知りながら、誠四郎は小さくうなずき、おとなしく次の言葉を待った。
「五村」
 加藤の声が、優しくも厳しくもなく、誠四郎の垂れた頭に降りかかる。
「正直に言うと、俺はお前を見張っていた」
「……何?」
 いきなりの話しに誠四郎が顔を上げると、加藤は逆に目を伏せていた。
「あれは、……小山屋敷が燃えた晩だ」
 その日、加藤は手がけていた事件を調べていたが進展を得られず、下城の鐘を聞くなり早々に城を出た。源祐を引き連れて、自棄酒でも流し込もうという魂胆だった。歩くにつれて、周囲は宵闇に紛れ、提灯明かりが増えはじめるころだった。
 加藤が誠四郎とすれ違ったのは、その真っ只中だった。
 すぐに誠四郎だと気づくことはなかった。十年も会っていない誠四郎の顔は、加藤にとって判別しがたいものである。
 加藤の目を引いたのは、誠四郎本人ではなく、日暮れに提灯も持たずに早足で歩き去る怪しげな男が目の前を通ったという状況だった。
 覚えのある顔だ。あれは誰だったか――
 そんなことを考えながら、加藤は誠四郎の後をつけた。辺りはすっかり暗闇だが、加藤の前を歩く誠四郎は灯りらしきものを持つ素振りを見せずに、西町へと消えていく。やがて誠四郎は小山屋敷の門前に脚を向けた。
 あやしい――
 そう思った加藤は足元の石を拾い、ためしに誠四郎に向けて石つぶてを放ってみた。すると、誠四郎の足はふいにピタリと止まり、つぶては誠四郎の目の前を通って手桶の山にぶつかり、一部を崩した。
 加藤はしまったと思い、とっさに身を潜めて竹垣の間から誠四郎を観察した。
「お前はその後、裏口を訪ね、その場で何かをした後、屋敷を去った。
 火が出たのはその直後だ」
 加藤の眼が誠四郎の目を捉えた。それから、ゆっくりと顎を突き出すようにして誠四郎を見据えた。
「悪く思うな。
 無論、鼻っから疑っていたわけではないが、小山様と新沼殺しの件に関して、お前は怪しまれても仕方のない行動をしていたのだ」
 誠四郎は黙ってうなずいた。
 話しからすれば、加藤は多恵の死体が見つかった後に誠四郎を尋問する前から、屋敷や身柄のことを調べていたのだろう。考えても見れば、高橋久右エ門が書面上に存在しないことや、誠四郎が高橋ではなく佐久間家の家士と扱われていることは、あらかじめ調べていなければ分からないことだ。
(俺は怪しまれていたのだな……)
 素直にそう思った。
「さて、五村。疑いを晴らす意味でだ。
 あの日の小山屋敷から始まった事、それから門下録について、知っていることを全て話してくれないか」

続く