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門下録

二十三.

 文楽は万学。
 誠四郎は加藤と源祐が冗談を言ってからかっているのかと疑ったが、二人の表情には笑みの欠片も見当たらない。
「……正気か?」
 誠四郎は加藤に向き直って聞いた。
「冗談を言っている状況ではあるまい」
 毅然として言う加藤の顔を見て、誠四郎は気がついた。
 ついさっき源祐が小首を傾いで加藤を見たのは、通訳を求めたのではなく、加藤の許可を求めたものだったのではないか、と。つまり、文楽という人間が佐久間万学であると言う情報を誠四郎に伝えても良いのか、と。
「お前、知っていたな?」
「悪く思うな」
 加藤が誠四郎の糾弾を受け止めるべく、目を瞑った。
「なぜ隠した?」
「確信がなかったのだ。
 佐久間殿が文楽と名乗っていたことは確かに知っていた。だが、それが修宗寺の文楽とは限らなくてな。まあ、つまり……『かもしれない』ことをお前に伝えて、妙な不安を与えたくはなかったのだ」
 加藤の目がゆっくりと開き、源祐を捕らえた。
「源祐。修宗寺が訳合向を示すというのは本当だな?」
 加藤の問いに、源祐は二度うなづいた。
「そうなると、新沼の言う修宗寺の文楽という男は、佐久間道場の万学殿だと断定して間違いないだろうな」
 加藤は一息にそう言ったあとで、大きく気を吐いた。
「いやまて、加藤。
 佐久間先生が文楽と名乗っていると、どこで知ったのだ?」
 誠四郎は目付け方さながらに鋭い目つきで加藤に訊いた。
「……」
 加藤はすぐには答えなかった。
「……門下録か?」
 促すように誠四郎が言った。
 思い当たるものといえば、他になかった。少なくとも元(はじめ)に貰った後で、簡単に中を読んだ時にはそんな記載はされていなかったが、道場にいた誠四郎の耳にすら入っていない情報を目付け方が仕入れるにはそれ以外に考えつかなかった。
 加藤は無言でうなずくと源祐は見た。その視線を引き継いだ源祐は後ろの引き出しから冊子を二つ取り出して誠四郎の前に並べた。一冊は門下録、もう一冊は表書きのない冊子だった。
「お前が読んだとおり、門下録は門下生達の記録を書き残したものだ」
 加藤が二冊を前に解説を始めた。
「しかし、それだけではない」
 門下録が加藤の手で一枚ずつめくられていく。
「お前はこの門下録を読んで、記録されている門下生の数が多いとは思わなかったか?」
 確かにそうだった。
 何代分の内容をしたしめたのだろうと、誠四郎自身も不思議に思っていた。
 加藤は、そのことを見抜くようにして言った。
「やはりな。この門下録は、半分が正しい道場の記録で、残りの半分が秘密文書になっているようだ」
「秘密文書……?」
「お前の言葉を借りるなら、さしずめ『隠密方の記録』といったとこだ」
 加藤の指が、六枚をめくったところで止まった。
「この文章、妙だと思わないか?」
 示されたのは半重の記録だったが、間違ったことは述べられていない。この部分については、誠四郎も目を通していた部分だった。
 しかし、何度も読み返してみるとにわかに引っかかり始めた。
 可笑しいのは、文章というより文面である。筆の流れが切らせる必要のないところで、切れている。半重の勝ちの数を指した。五百三十二という数が、筆の流れを無視した書き方になっていて、五と三十二で分かれていた。
「この数字、五が門下録の枚数、三十二が途切れている節を数えている。つまり、この場合は、五枚目の三十二節ということだ」
 加藤の指が滑らかに動いて五枚目の三十二節を差すと、『文』という文字だけが上下と孤立して現れた。
「たまたま途切れたのかもしれない。あるいは、佐久間殿の筆癖の可能性もある。しかし、この“五”は書き始めの字だ。画数も少ない。墨を継ぐには早すぎる。となると、意図的にそうしたとしか思えん。
 そして、この門下録は随所にそうした“節”があり、後半になるほど増えていく。最後のほうは特にひどい。ほとんどが区切られていて、文とは思えんほどだ。おそらく、実在する門下生の記録だけでは文章を隠すに足りず、加筆する必要があったのだろう」
 佐久間多恵の死体を見つけた日にこの部屋で誠四郎から門下録を拝領した時、加藤はそうしたことに気づき、転写を請う振りをして源祐に解読を任せた。そして、源祐が解読して出来上がったものが、もう一冊の表書きのない冊子である。
 誠四郎はその無題の一冊を手に取り、一枚目をめくった。
『この書は、古き友、小山近衛の願いにより、隠密方の活動を記したものである。
 記に当たり、署名を文楽と改める』
 その記述で隠密方の記録は始まっていた。
「恐らく、その隠密方の中で、佐久間殿は佐久間万学ではなかったのだろう。文楽という通り名で書記を務めたのではないかな。文楽という関係のない名を名乗れば、佐久間道場と隠密方を繋ぐ鍵を隠すことができる」
「……加藤。お前は、隠密方を知っていたのか」
 加藤は首を縦にも横にも振らなかった。
「噂程度だ。
 小山様が、御家には隠密方とか云う表には存在しない謎の集団を使って、御家の権力者達を根絶やしにしようとしている、とな」
 その言葉とそのままに受け止めるのであれば、隠密方は御家にとっては害を生む存在だったということだろうか。
 誠四郎は落胆した。
 半重が聞いたらどう思うだろう。
 いや、半重は知っていたのかも知れない。
 役目を嘆いたあの日に、それを知り、語る気になれないと吐き出したのかも知れなかった。
(あいつの話をもっと聞いておくべきだったか……)
 半重の顔を思い浮かべ、誠四郎の小指の爪が掌に喰いこむほど、力が篭った。

続く