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門下録

二十六.

 雲ひとつない空の下、誠四郎の足は迷いに迷った。
 喧嘩別れをして飛び出してきたのだ。これからどうするかなど考えているはずもない。
 誠四郎はせめて気持ちの整理をしよう試みたが、加藤は半重を殺した者を山口と決めつけたことは歩いているうちに納得が行くようなものではないし、異論が湧く訳でもなかった。
 気がつけば、じきに昼餉の時刻だ。
 誠四郎は思考を止めて、行きなれた食事処に入って昼餉を取った。
 白米は腹を膨らませてくれたし、大根の味噌汁は冷えかけた心を暖めてはくれたが、先々のことに期待が膨らむようなこともなく、誠四郎は食事を済ませるとくつろぎもせず店を出た。
 誠四郎の足は界隈を雑に巡った後で泉命寺へと向かった。
 佐久間万学と新沼藤次が眠っているはずの寺である。元と多恵の葬儀はまだ済んでいないはずだから墓参りとは言えないが、一家の墓石はすでにある。気は早くとも失礼にはならないだろう。
 墓参りの酒は今しがた手にした。もう一度、元の死んだお堀に捧げるつもりで買った一本である。この前に置いた場所が荒らされているのを目の当たりにして、泉命寺参りを思い立ったというのが、実のところだ。
 寺に向かう道は握り飯が転がるほどの上り坂がある。城下を高台から見下ろせる場所に貴族が眠るからだ。
 うろついていた城下は久しぶりの晴れ間とあって賑わっていたが、この辺りにはさすがに人がいない。朝冷えで柔く凍った雪の階段は足跡の斑点もなく、高潔を保っていた。高く青い空が、白い鳥居に切り取られている。
 誠四郎は冷えた石段に雪駄を乗せ、滑らないように慎重に歩いた。
 無言で居座る本堂の横に千手観音の錫杖が見える。新沼の屠られた共同墓地の観音像であった。
 この時期になると千手の指の隙間に雪が詰まり、それらが人の魂を掴んでいるように見えることから、千魂観音とも呼ばれるその像を、誠四郎は見ないようにして佐久間家の墓へ向かった。
 泉命寺の霊園はこのあたりで一番広く、たまにくるとすぐ参拝路に迷うほどだ。ましてや今日はこのところの雪のせいで、墓石の高さが誤魔化されて、景観が普段どおりではない。誠四郎は二度三度小路を間違え、霊園に足跡を撒いて歩いた。
 佐久間家の墓石は何事もなく立っていた。何代も続いているだけあって、不変の流れを感じさせる荘厳な石である。
 誠四郎は敷地の入り口でひざまずいて深く礼をし、酒瓶を供えた。
 供え物は持ってきた酒のほかにも、笹団子が置いてあった。それは多恵が好んで食べていた店のものだと、道場のものなら大概は知っている。
 いつの間にか多恵殿の葬儀も済んだのか、と誠四郎は気になったが、墓石に彫られている埋葬者の名前は佐久間万学で最後である。まだ多恵と元は葬られていない。
 佐久間家の筋の者か、あるいはどこかで聞き入れた道場の者か。加藤かもしれない。
(悪いことではないしな)
 そう思い、深く考えることは止めた。
 墓前で手を合わせて成仏を願うと、長居は無用と敷地を出た。
 改めて霊園を眺めてみると、足跡は誠四郎のものばかりではないようで、幾筋か人が歩いた後が見て取れた。しかし、墓参りに来たかというとそうではないようで、他の墓のお供え物は皆一様に雪を被っている。
 それを見て誠四郎はハッとした。
(さっきの団子はどうだった?)
 青々とした笹が目に焼きついている。目の記憶では雪など被っていなかった。
 誠四郎は駆け戻って確かめたが、自分の目に間違いはなかった。
 雪がやんだのは丁度一日前である。ほとんど行動をともにしていたことを考えれば、加藤ではない。いや、加藤はおろか、目付け方のほとんどは山口の件で奔走していたはずで、こんなところにくる余裕はなかったはずである。
 それによく考えれば、佐久間多恵が死んでからはまだ二日しか経過していない。佐久間家の筋の者が葬式を疎かにして、先に墓参りに来ることなど到底考えられなかった。
 触れて確かめてみると、団子はわずかな弾力を残している。毎朝霜柱が降りるこの時期に一晩放置すれば、団子など頭を打てる硬さになる。
(今朝のものだな……)
 誠四郎は立ち上がり、墓地ということも忘れて、無作法に駆けた。
 目付け方でも身内でもなければ、道場筋のものとしか考えられなかった。
(だとすれば、新沼殿の共同墓地にもきっとあるはず――)
 しかし、墓地に手向けられたものはなかった。花の枯れ茎も線香の灰すらも残っていない。
 葬儀にも参列した手前、石に新沼藤次の名前があることは確かめるまでもないことなのだが、誠四郎の目はそこを見ずにはいられなかった。
 名前はもちろん彫られていた。小指の爪程の小さな文字である。
 誠四郎は千魂観音を見上げた。
 手につまった雪の塊が今日の陽射しで溶け出して、青錆を吸いながら手首を下り、または滴っている。人ならざるものの流す血のようであった。

続く