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門下録

二十七.

「もし」
 観音を見上げていると、突然声が聞こえた。
「五村殿かな?」
 天の声が聞こえてきたのかとたじろいだが、そんなはずはなかった。
 声の主は、誠四郎の後ろに袈裟を着て立っていた。葬儀で居合わせた住職である。
「いかにも」
 誠四郎は痰(たん)を飲むようにして頷いた。
 ほほほ、と住職は笑った。勘が当たったことが嬉しいようだった。
「私に何か、用でしょうか?」
「ふむ。お主を招いておる者がおる」
「私を?」
 住職は深くうなづいて、誠四郎に付いて来るように言った。
 案内されたのは、庫裏の奥にある薄暗い部屋だった。外は陽光に満ちているはずなのに間に挟まるたった一枚の障子が黒い。ただ薄暗いのではなく、あえて薄暗くしているのだということには、すぐに気づいた。
「入りなされ」
 開けられた障子の前で誠四郎が二の足を踏んでいると、住職が促した。
 誠四郎は立て膝をついて、「失礼する」と頭を垂れた。
 視線の先に布団が敷かれている。
 そこには新沼藤次が横たわっていた。
 自分の目が信じられず、誠四郎は息を飲んだ。
 新沼は死んだように目を瞑り、息をしているのかも定かではない。声をかけて良いものか、思案する程だった。
「五村か」
 新沼の双眸がうすらと開いた。
「……はい」
 誠四郎は自分の目を信じられないまま返事をした。死んだはずの男が目の前で自分の名を呼んでいる。いや、加藤の話通り、死んでいなかったのかもしれない。だか、そんなことを考える余裕は今の誠四郎にはなかった。
「これは、一体どういう事です?
 私はもう亡くなられたとばかり……」
 誠四郎はうろたえつつ、新沼に寄った。
「ふりをしたまでだ。お前には騙したようで悪かった。
 しかし、手傷を負うたことは確かだ。この通り、動くことも叶わぬ」
 新沼は天井を見つめたまま話した。誠四郎を見遣ることもできないと言うかのように。それでも、誠四郎の納得を得るには十分ではなかった。
「……確かめても?」
「五村殿」
 怪我人ですぞと、住職は諌めたが、誠四郎は聞き流して新沼の返事を待った。
「それでお前が納得するなら、好きに致せ」
 新沼は目を閉じた。
 誠四郎は新沼の布団を捲って首回りを確かめた。
 喉仏の下から包帯が巻かれていて、隠された左右の鎖骨は釣り合いのとれない朽ちた天秤のようだ。首筋にかいたうっすらとした汗が斑状に浮かび、新沼の呼気に合わせて息づいている。
 誠四郎は歪んだ鎖骨に指を置いた。新沼は微動だにせず、息をしている。しかし、眉間の皺は小刻みにゆれて珠のような汗がにわかに額に浮いた。
「五村殿」
 住職がささやく。
 誠四郎がはっとなって指を退けると、その振動すらも響いたようで、新沼は小さく呻いた。
「躯はもっと酷いのです……」
 住職の言葉に、誠四郎は頷いた。
「どのようにしてここへ?」
「無論、一人で来た訳ではない」
 誠四郎は住職を見たが、かぶりを振られた。
「では誰と?」
「山口だ」
「何を……。
 山口は死んだとおっしゃったのは、新沼殿ではございませんか」
「あの場では、そう言わざるを得なかった。あの時、私は足に刃を突きつけられていたのだ」
 新沼が誠四郎と話す間、北見敏朗はその真横にいたと、新沼は言う。小山近衛を殺した白刃を新沼のふくらはぎに突き刺して、そのやり取りを聞いていたらしい。
「言ったとおり、北見は小山様を訪ねて来た。
 目的は、隠密方の活動記録だ」
 しかし、小山近衛や新沼が口を割るはずもなく、北見は小山を殺し、新沼を痛めつけて屋敷を去ろうとした。
 屋敷を出ようという時に、誠四郎が訪ねて来るのが見えた。誠四郎の目から北見を捉えることはできなかったが、北見は屋敷の暗がりから誠四郎を見ていた。
「お前が裏口に回るのを予測して、奴は戻ってきおった」
 北見は誠四郎が佐久間道場の人間と判ると、新沼のふくらはぎをじわりといたぶり、『記録を探させろ。さもなくば貴様ともどもそいつも殺す』と言った。
 新沼は応じざるを得なかった。
 自身の命に拘りはなかったが、誠四郎はこちらに気付いていない。木戸越しに刀を突けば、誠四郎の命がない。
「お前を巻き込みたくはなかったが、手立てがなかったのだ」
 誠四郎は唾を飲んだ。
「しかし、そのような手傷で、どうしてあのような長話を?」
 あの時の新沼の話は決して短くかなった。
「私の死を偽装する時間をかせぐ為だ」
 屋敷は山口もいた。大事に備えて納戸の裏に潜んでいたのである。
 新沼が誠四郎と話す間に、山口は同じように納戸に隠していた高橋久右衛門の死体を用意し、隣室の部屋に灯りを入れた。行灯ではない。光が外に拡散しないように、燭台に灯したまでだ。燭台は置き机の上にあり、その周りには油を染み込ませた紙が散乱させてある。あたかもそこが資料部屋のように見せるためであるが、狙いはそれだけではない。
「私がその部屋に逃げ込みながら燭台を倒せば、大きな火が起こり、屋敷は炎上する。端からは記録の隠蔽を図ったように見えるだろうが、それは本意ではない」
 新沼の死を確認させない事が目的であった。屋敷が燃え始めれば北見は退散せざるをえない。北見が退散したら、あとは火中から新沼を救いだして、久右衛門の死体を放り込むだけだ。
 しかし、事がうまく運んだ訳ではなかった。予想よりも長く北見が居座ったために、新沼も火傷を負い、斬りつけられたあちこちの傷もあって、山口が入った時には虫の息だった。ただただ、命だけをとりとめることができたのである。
「本当は私などではなく、小山様を助けねばならなかった。
 納戸には小山様の身代わりとする死骸も隠していたが、日の目を見なかった」
 話を聞いて誠四郎は鳥肌がたった。新沼の生還劇にではない。久右衛門という顔見知りの亡骸を道具のように扱う残酷さに対するものであった。

続く