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門下録

二十九.

 しかし、考えてみれば隠密方としては部外者なのだ。ここまできて、憂いてもいられまい。そう考えて、誠四郎は顔を上げた。
「住職殿。
 北見家のことで、何か存じておられることはないか?」
 住職は微笑んだが、首は横に振られた。
「わしらは皆、駒に過ぎんかった。新沼殿も、万学殿でさえの」
 誰一人確かな繋がりを持っていたわけではないと、住職は言った。隠密方としての会合などは一度もなかったし、生業に関わる面々と知り合うのは現場が初めてだったと住職はいう。
「しかし、そのような実態では、何も成せぬのではありませんか?」
「いや。全てを鳥瞰し、指示をする者がおるのです」
「……小山様でしょうか?」
「いや」
 連雀寺の木念です。
 住職の口から、また新しい名が湧き出て、誠四郎は思わず力が抜けた。
「連雀寺の、木念。ですか」
「そうじゃ。文楽や木念ならば、北見俊朗について知りうるのかもしれぬ」
「いや、しかしながらご住職。
 文楽は佐久間先生の筆名でござった。ご存知と思われるが、先生はもう生きては居られぬ」
 誠四郎が何か変な事を言ったのか、住職の眼は丸くなった。
「万学殿が文楽とな?
 それは何かの間違いであろう」
「いや、隠密方の機密文章にはそのような記述がござった」
「それは……間違いなく本物ですかな?」
「元がわざわざ私に届けた物です。偽物とは思えない」
「いや、しかし五村殿。
 新沼殿は文楽からの文で倉橋殿の死を知り、貴方を呼んだと仰せじゃった。
 つじつまがあいませんぞ」
 住職の言葉通りならば、文楽は少なくともここ一月まで生きていた事になる。万学の死とは三年もの差があるのだ。
「そんな馬鹿な……」
 門下録は偽物だったのか?
 誠四郎の思考は耳から味噌が出るほど錯綜した。
「ふぅむ……」
 住職は誠四郎と同じ素振りをして唸った。
「しかし、文楽が健常であるかは分からぬが、少なくとも木念はまだ健常ですな」
「といいますと?」
「一昨晩、五村殿をお迎えするように文が来ました」
「一昨晩ですか?」
 住職は深々とうなづいた。
 山口を斬ったのが昨晩で、一昨晩というと目付け方の調べを受けてそのまま城に泊り込んでいた頃になる。目付け方の記録によれば、元も多恵も死んでいる。新沼には文を書く余裕はない。可能性があるとすれば山口だ。
 元とは逆に、剣ばかりで筆など取らぬ男であったから、山口の筆ならば一目で見分ける自信があった。
「その文、確かめさせていただけますか?」
 住職は大きく二度もうなづいて、隣室に入って行った。持ってきたのは三つ折りの一筆だった。一目見て、山口のそれではないことが知れた。
 どうやら、誠四郎の知らない木念という男が、連雀寺にいるらしい。
 気を取り直して目を通すと、文の内容はこうだった。
『近くに、五村誠四郎という男が蓮南寺を訪れる。
 佐久間道場の門下生にして、倉橋半重と並ぶ腕の持ち主だ。
 そして、今回の件においては、大きな役割を果たしている男でもある。
 もし五村が訪ねて来たときには、迎え入れて新沼と引き合わせろ』
 預言者のような申し立てに奇を覚えたが、それ以上に違和感を覚えることがあった。
 住職は文楽と木念が同じような役割のような言い方をしていたが、木念の文は記録係などという、いわば事象の結果を追う者としての役割をはるかに超えているのである。
(いや、確かに今、ご住職は“指示をする者”と言った。
 隠密方へ指示を出すのは小山様ではなかったのか?)
 小山屋敷の時、新沼は文楽のことを書室を仕切っていた男だと言った。それはただの記録係だと思っていたが、そうではないということになる。
 もう一度、書面に目を通すと、木念は小山近衛と呼び捨てている。木念は少なくとも小山近衛よりも位が上だったということだ。
 それが分かると、誠四郎の隠密方に関する概念が崩れ始めた。飯原派の手先として動いていたはずの隠密方。小山近衛が頭を務め、新沼や半重、山口といった剣豪たちで脇を固め、佐久間万学が記録を抑えていたはずの隠密方。どちらも誠四郎の誤った理解であったということになる。
 誠四郎は自失した。
 新沼と再会したことで、終着地が見えてきたような気がしていたのだが、いままで疑っていなかったことが裏返り、考えの拠り所が霧散してしまったのである。
「どうされたかな?」
 住職が心配そうな顔で見つめている。
 誠四郎は取り繕って、木念の文書を返し、正座を解いて立ち上がった。
 考えるに、新沼は何かを知っていそうだった。誠四郎がここへ来ることを達観していた感がある。しかし、反対に住職は何も知らないようだった。おそらく、誠四郎と新沼を引き合わせるためだけに遣われたのだろう。だとすれば、今ここにいる用はあまりない。次にいつ目覚めるか知れない新沼を待っていても、その間にまた何かが起きて、誠四郎の知りえたことが不意になってしまう不安もある。
「私は一度出直します」
「さようか」
 長居するつもりはなかったが、日は既に傾き、一刻も立てば没そうという頃合になっている。
 住職は丁寧に寺の門まで送ってくれ、最後に言った。
「お主が何を信じるかは、お主の勝手じゃ。しかし、疑ってばかりでは気も折れよう。その時は己の記憶を信じなされ。記録は嘘をつこうが、記憶は嘘をつくまいて」

続く