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門下録

三十.

 住職に記憶と言われて思い返したものがあった。半重の語っていた火事の一件である。
 ただ、誠四郎がすぐにそれを思い返したわけではなく、帰りがけに見た千魂観音がそうさせたものだった。瓦礫から突き出した幾本の手という半重言葉を連想させたせいである。
 半重にとって、火事はやましい思い出であった。
 火事場を見かけただけではあるまい。おそらく、隠密方の所業と大きな関わりがあったのだろう。建物を燃やし、住人を焼き殺していたとすれば、人を斬る以上の罪悪感を伴うはずで、半重があのようにため息を漏らしたのも、納得がいく。
 正直なところ、親友が人を殺して食い扶持を稼いでいたことを信じたくない気持ちが、未だにある。
 しかし、これまでに聞かされた話は、決定的な証拠にかけるものばかりではあるが、半重が悪しきことに手を染めていたのは疑いようがなさそうだった。なにより、半重本人が後ろ暗さを誠四郎に伝えていたぐらいなのだ。
 腹をくくって、半重たち隠密方が誰を焼打ちにしたのかと考えれば、答えは一つしかなく、北見家に関わる者たちになろう。そうすると、焼失したと考えられる建物は絞られるはずである。
 問題なのは、その建物を探り当てるのに、手だてがないことだった。
 新沼の話の通り、目付方の中に北見派の息がかかった者がいるとすれば、もはや目付方は頼れない。それに加藤とは意見が割れたばっかりだ。それを余所にして教えてくれとは虫が良すぎるだろうし、誠四郎自身も気の進まないことだ。
 しかし――
(門下録はどうするか)
 新沼の話どおりであるならば、隠密方の記録が目付方にあるのはよろしくない。
 だが、文楽は佐久間万学ではないという住職の話をもとにすると、門下録は偽りの文書ということになり、目付方に渡っても問題のないものである。
(……いかん)
 誠四郎の思考が絡み合う糸の塊に化けるのはすぐだった。
 誠四郎は首を回して雑念を散らすと、そのまま空を見上げた。
 訳合向の空が、白から黄色に染め直されていく。朝から城下を歩き回ったせいか、誠四郎の足は鈍り、帰宅するまでには黄昏を迎えそうだった。
『お前を監視している』
 黄昏という言葉から逢ヶ魔時を連想した時、脳裏に新沼の言葉がよみがえった。
 首を回す素振りのまま周囲をぐるりと見回してみたが、見張られているような雰囲気はない。もちろん誠四郎が気づけるようなら、監視されているとは言わないのだが。
(……)
 鑑みると、間違いなく目付方には監視されていた。
 それは加藤が確かに自白したことだから、偽りではない。誠四郎が不審者だと思っていたために監視していたという明確な目的も聞いている。
 しかし、一概に誰かを白だ黒だを決めることができないのは、これまでの事の運びから明らかだった。そう考えると門下録のこともあって、やはり、加藤と会って話さなければならないような気がするのだ。
 とはいえども、やはり登城する気持ちにはなれなかった。この先は行動を起こすにしても、ちくいち人目を気にしなければならないだろう。
(ならば……)
 屋敷を訪れる他にはないか、と誠四郎は考えた。
(……加藤の屋敷?)
 誠四郎の足が止まった。
 里岩平太の家を訪れたことは何度かあって、場所も確かだが、加藤治兵衛の屋敷は全く知らない。下城の時刻を待って後をつけるのも手だったが、役目柄で定刻という概念が薄そうな目付方に待ち伏せが有効な手段とは考えづらい。
 悩みかけた誠四郎が思いついたのは、里岩の通っていた深山道場だった。深山道場は佐久間道場と同じ訳合向にある。ここからなら少し歩けば着く場所だ。誠四郎が訪ねるのは随分ご無沙汰だが、うまく顔見知りを捕まえることができれば、加藤の屋敷を知ることができるかもしれない。
 誠四郎の足は直角に曲がり、深山道場へ抜ける小道を進み始めた。
 緩やかな上りの後に急こう配の下りを抱く小道である。冬が進むと凍結して滑り落ちるような斜度で、幼いころ十畳ほど滑った記憶がある。それよりも懐かしさを思い出させるのは、親善試合の折にこの坂の頂に上って、深山道場を見下ろしながら握り飯を食った記録だった。半重はもちろん、平太とも共有する思い出である。
(もう少しのはずだが……)
 以前は、緩やかな上りが終わる頃に地面から深山道場の屋根が生えてきた場所なのだが、その屋根がなかなか見えてこない。
 何かまた一つ、誠四郎の中で嫌な予感がした。
 多恵の亡骸を見つけた時のそれに似ている。
(……どうしたことだ)
 下りの口に至った誠四郎を迎えたのは、焼け落ちた道場だった。
 家屋はおろか門すら形がなく、地面に刺さっただけの柱が道場の形をかろうじて保持している程度だ。
 ただの焼け跡ではないことは誠四郎の目でもすぐに分かった。火の気のあるところから燃え始めたのなら焼け跡にむらがあるはずだが、道場はすべての壁がなくなるほどの燃え方をしている。意図的に燃やされたと様にしか見えなかった。
「ここか……?」
 ただの偶然かもしれない。
 しかし、誠四郎にはそう思えなかった。
 ただの火事であったのならば、立て直せばよいだけのものだ。それなのにこの深山道場は、まるで火事を受け入れたかのように放置されている。時代が、いやもっと具体的に、何者かの権力がそうさせたかのように。
(ここなのか? 半重……)
 誠四郎は坂の中腹で腰を膝をかがめ、ただ、眉をひそめた。

続く