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門下録

三十一.

 なぜ、深山道場なのだろう。
 日暮れが差し迫る中、道場を訪れた理由も忘れて誠四郎は考えた。
 隠密方の仕業で燃やされたと考えると答えはひとつで、北見派と道場が密接だったということになるだろう。
 しかし、その場合に気になるのは、全焼という焼け方の酷さである。道場主や門下生の一人が関係していただけならば、なにも道場を燃やす必要はない。道場関係者のすべてが関わっていたとすると、果たしてそんな道場と佐久間道場が親交を深めるだろうかという疑問も生まれてくる。
(あるいは、ここで何かを執っていたか……)
 道場とは関係のない者が集まって、何かをしていたと考えることもできる。ただ、いずれにしても深山道場と北見派が関わっていたことに変わりはない。
(いや、まて。そもそも半重が言っていた火事がこことは限らんではないか)
 誠四郎は、斜陽によって長くなった自分の影が、勝手に坂を下り始めたことに気がついて、我に返った。
 道場が燃えてしまっていたことには心底驚かされたが、それはそれである。先に目的を果たすべきだと考え直したが、この状態では、加藤の屋敷を聞くことはできない。
(いたしかたあるまい)
 明日、あらためて登城する他にはなさそうだった。
 そう考えて立ち上がろうとしたその時、焼け跡に人影が現れた。
(誰だ?)
 誠四郎はとっさに木陰に隠れた。
 長くなった影が遅れて身をひそめる。
 焦点を絞るようにして道場を訪れた者の顔を見つめたが、その人影は笠をかぶっているうえに、柱の影を縫うように歩いていて識別するには難しい。様子を見ていると、こちらに気づいている様にも見えた。
 人影はそのうちに廃墟を進んで、誠四郎の視界から消えていった。
 道場は、もともと丘陵だった土地を削って、平たくした地面に建てられている。誠四郎の知る限り、裏門はない。正面以外はよじ登るほどの崖に囲まれているはずだ。
 消えた人影が確かめられるところまで近寄ることも考えたが、それはつまり、今潜んでいる場所を捨てることでもあり、どんどん長くなっていく自分の影が足手まといになりそうだった。
 後ろの崖が昔のままなら、いずれ姿を現すだろうと誠四郎は自分を説得し、その場に身をひそめ続けた。
 人影が戻ってくるのは意外にも早かった。
 こちらに背を向けているせいで、よもや顔は確認できない。そのうえに空がどんどん色を濃くしていくせいで、人影が暗くなって、影そのものになりつつある。
(だめだ。わからん)
 その気になれば声もかけられたが、それはできなかった。余計なことを考えすぎたせいか、一歩が踏めなくなってしまったらしい。
 身をひそめながら、誠四郎はため息をついた。
 こうなってくると、誠四郎に残された選択肢は二つである。
 後を付けるか、何も見なかったことにするか。立ち去ったあとで焼け跡を調べるというのもあるが、日暮れを迎える今はその気になれない。
(後を付けて、様子を見ながら帰るか……)
 どっちつかずの身の振る舞いを決めて再び門を見たとき、笠の男がちょうど出てきた。
 そのまま、来た道を返していくのかと思ったが、男は足元をみたまま、固まっている。
(こっちを見るか?)
 男が周囲に気を配っているように見え、誠四郎は顔を見せろを願ったが、すぐに冷や汗に変わった。
 誠四郎の影が、再び坂道に飛び出している。動かなければただの風景だが、動けば気づかれかねない。影が冷や汗をかかないのが幸いであった。
 誠四郎は息を殺して、男の横顔を見つめた。
 枝の隙間から伸びた夕映えの日差しが、ゆっくりと男の首を上っている。こちらを向くか、そのまま少し居てくれれば、顔の凹凸ぐらいは判別できる。
(こっちだ。こっちを見ろ)
 誠四郎の目が飛び出しそうになった時、男は一瞬だけこちらを見た。
 燕が過ぎ去るがごとく、一瞬のことであった。
 しかし、<見知った顔>を判別するには十分すぎる時間だった。
(加藤だ……)
 深山道場の跡地という場所を考えれば、里岩平太だと言ったほうが正しいのかもしれない。
 いずれにせよ、影の主は加藤治兵衛だった。
 深山道場の門下生であった加藤がこの場所を訪れるのは何ら不思議なことではない。もともと加藤の屋敷を訪ねるつもりで見に来た深山道場である。すぐにでも加藤を捕まえれば、誠四郎の目的も果たせるのだ。
 しかし、盆でもないこの時期に道場の跡地を訪れて何の意味があるのか。誠四郎はそれについての解釈を持っていない。今この場所で、加藤に接触するのは、どこか危険な気がした。
『私がお前に文楽を探させた以上、奴は必ずお前を監視している』
『目付け方には北見派の息がかかった人間が紛れている』
 誠四郎の頭の中でよみがえったのは、いずれも新沼の言葉である。
 もし、新沼の示唆する人物が加藤なのだとしたら、誠四郎は監視を通り越して、観察されていると言うことになる。
(新沼殿は、接触してくることも見通していた)
 加藤が北見とつながっているとすれば、どうなのだろう。
 門下録はすでに北見の手に渡ったということだ。
 住職の話では門下録は隠密方の記録ではないが、それは北見にとって知りえぬ事なのだから、純粋に隠密方の記録を手に入れたと思っているだろう。
 すると誠四郎の役割は果たされたと思われているはずである。
 そう考えると、今朝、喧嘩気味に目付方を飛び出してきたのは、加藤が仕掛けた罠だったのではないかと思えてくる。
 加藤は門下録を入手したことで、誠四郎が不要になった。誠四郎がこれ以上深入りしては邪魔になる。だから、誠四郎の気分を悪くする言葉を連ねて、出ていくように仕向けた。
(あとは門下録を北見敏朗に渡すだけだ。
 あるいは、もう渡してきたのかもしれない……)
 矛盾は無いように思えた。佐久間道場が飯原派と密接だったように、深山道場もまた北見派と密接であったとするならば、目付方に紛れ込んだ北見派の人間は、加藤が最も適合する。
(……さて、どうする?)
 自問しながら、すでに答えは分かっていた。
 声をかけるしかない。
 加藤はまだ、道場の前で仁王立ちしている。
 やがて、ため息をつくようにして肩をゆすり、ふたたび道場の奥へ入っていった。
(誰かと待ち合わせているのか?)
 だとすれば、誰とは考えるまでもなさそうだった。おりしも加藤は、今朝門下録を手に入れたばかりだ。ここで待ち合わせて渡そうという相手がいるならば、北見敏朗を除いてほかにいまい。
(待てよ? 北見はどこからくる?)
 今、誠四郎が身をひそめている坂は隠れ場所とは呼べない。道場から死角になっているだけで、普通に歩いていても丸見えだ。他にひそめる場所があるかといえば、全くなかった。
 道場裏の崖に上るには、面識のない人の屋敷を突き抜ける必要がある。こんな時間に不審に思われずに通るのは無理だろう。
 逆に通行人の振りをして、北見とすれ違うとも考えはしたが、北見は誠四郎の顔を知っている可能性がある。かち会えば穏便には済まされないだろう。北見と加藤を同時にあいてにすることだけは何があっても避けなければならない。>
(ここで待つのは危険だ)
 誠四郎は意を決して立ち上がった。
 偶然を装って加藤に会えば、後から北見が来たとしても遠巻きに様子を伺うだろうと考えた。
 暮六つの鐘が鳴った。影は長くなりすぎて、今まさに地面に溶けてようとしている。
 誠四郎は長い方の鞘が緩まない様に腰帯を締直し、道場跡へ入った。

続く