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門下録

三十五.

「なんだと?」
「かつて隠密方にいた御老人が言っていたよ。その書は一つの命令の下に書き起こされた紛い物だと。むろん、全てではないだろうが、どこまでが真実を伝えているかは怪しいものだ」
「馬鹿を言え。その証拠はどこにある?」
「……文楽は最近まで生きていた。佐久間先生ではない」
「……」
 加藤にとっては衝撃的な事実であったろう。視線が地面に沈みこんでいくのを見て、誠四郎は哀れな気分になった。皆の仇であるはずの加藤を憎むことができないのは、奪われた者という同じ立場から漂う同情のような憐みがそこにあるからかもしれなかった。
 しかし、その憐みもそこまでだった。
「本物はどこにある?」
 加藤の口からこぼれたのは、まさしく残念な一言だった。
「何?」
「本物の記録はどこだと聞いた」
「知るわけがないだろう!
 すべてはもう闇の中だ!」
「ではその老いぼれがどこにいるかを教えろ。
 直接聞きだしてくれる」
「いい加減にしないか、加藤!」
 言葉で言ってもきりがないと思い、誠四郎は加藤に歩み寄った。
「現実を見ろ!
 今さら一介の役人が騒ぎ立てたところで、御家がひっくり返るものか!
 お前の無念さは俺が解してやる。それだけでは足りないのか?」
 誠四郎が加藤の肩を揺さぶろうと手を伸ばすと、加藤は誠四郎の手を払いのけて、鞘で押し倒した。尻をついた誠四郎の顎に、加藤の手から伸びる白刃がピタリとついている。
「その老いぼれのところへ案内しろ」
 野良犬のような目で、加藤が言った。
「……」
 誠四郎は黙った。鼻息が震え、誠四郎の首下に伸びる加藤の刃を白く曇らせる。
「言うつもりはない、というのだな」
 そう言うと加藤は刃の切っ先を筆のように跳ね上げ、誠四郎の頬をひっかいた。頬骨の下を温かいものが流れていく。
「貴様も、元と同じように死ぬつもりか?」
「御老人は……、御老人は先ほど亡くなられた」
「嘘をつくな!」
 加藤の剣先が誠四郎の顔をめがけて飛んできた。
 誠四郎は地面を蹴って跳んでかわし、転げながらも加藤の追撃をかいくぐって距離を離した。
「目を覚ますんだ、里岩」
 誠四郎は務めて冷静に言った。憎しみなどとは無縁だった少年の頃に戻ってほしいという願いも、その言葉に掛けて、加藤の旧名も呼んだ。
「良いか。
 本物の記録が存在するかどうかは、今や誰も知らん。
 仮にあったとしても、藩制はもう、私やお前の手で動かせるようなものではないのだ」
 この場は口で収めるしかないと考えたが、言葉を言い連ねても加藤の目は変わらなかった。
「今からでも遅くはない。復讐はここで止めて、罪を償うんだ!」
「いまさら止められん。これ俺一人の意志ではないのだからな。
 それに、俺たちがどれほど血にまみれているか、お前にも分かっているだろう。
 俺たちはやらなければならない。邪魔立てするのであれば、お前とて例外ではない」
 加藤の凶刃が誠四郎を襲い、誠四郎は後ずさりしながら避けたが、朽ちた木材に足をとられてかわせなくなり、やむなく抜刀して受けた。
 加藤の鍔と誠四郎の唾が重なり、カチカチと音をたてる。そこには加藤の渾身の力が込められていた。
「やめろ、加藤」
 誠四郎は加藤に懇願しながら、左手を峰に移して圧しきられまいと踏ん張ったが、今度は雪駄の皮が破れて足が滑り、右膝が土と接して、加藤の刃が右肩を喰った。
「くっ」
 加藤は力を緩めずに圧倒してくる。誠四郎の着物に染みた血が加藤の刃を伝い、競り合う鍔がそれらを小さくまき散らして二人の着物を汚した。
「……」
 加藤の目は阿吽の像のように血走っている。
(このままでは力負けする)
 そう思った誠四郎は、とっさに加藤の足元に潜り込み、加藤の内腿を蹴り上げて真後ろに投げた。加藤は一回転してすぐに体を起こし、二人は中腰のまま剣を挟んで対峙した。肩から流れ出た血が脇を通り、むずりとさせる。
「ふん、さすが倉橋の稽古相手。受けの天才と言われるだけのことはある」
 佐久間万学が門下録に書いた誠四郎の評を引用して、加藤が言った。
「だが、逃げてばかりでは終わらんぞ」
 以前にも同じようなことを言われた記憶が、にわかによみがえった。稽古中に誠四郎を別室に呼び出した万学が、唐突に受けの立ち回りを褒めた時の記憶である。
 しかし、誠四郎は万学のその言葉を喜べずに恥じた。逃げ回ってばかりで手を打てていないと自省したからである。
 万学に呼び出されたことを誇れなかった誠四郎は、技を教わったなどと嘘をついて逃げた。やがて、その噂が一人歩きをして、誠四郎はますます胸が張れなくなった。その時に、誠四郎を諭したのはやはり万学だった。
 思い出すのも恥ずかしい記憶である。だが今になって、そこには万学が託した気持ちがあったことに気がついた。
(逃げてばかりでは終わらない、か……)
 立ち会いの最中であるというのに、そんなことを思い出して心が温かくなった。いつの間にかそれが顔に出ていたらしい。
「何がおかしい」
 加藤が冷たく言った。
「……加藤」
「何だ? これ以上の問答はせぬぞ。お前が話すか、斬り合うかのいずれかでしか終わらぬ」
「私には、お前を斬れない」
 誠四郎はため息とともに腕を下ろし、静かに刀を納めた。
「さあ話せ。その老人はどこにいる」
 誠四郎は加藤の後ろを指さし、加藤が首をひねるのを見るなり走りだした。
『五村。逃げ回るのは悪いことではない。
 勝ち続けても衰退する流派があるように、時には常に流れがある。
 時によっては、流れを受け入れ、戦いを避けるのもまた大事なことなのだ。
 分かるか? 誠四郎。
 必要なのは戦うべき時に戦い、勝つこと。
 避けられる時にはな、逃げるが勝ちだ――』

続く