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門下録

三十六.

 誠四郎は心臓の音で何も聞こえなくなるほど走り、やがて、ついに走れなくなって雪の残る草むらに寝転んだ。ひんやりとした草の布団が、火照った体を柔らかく冷やしてくれる。
 見上げれば、天を覆っていた星々がいつの間にか影を潜め、空を雪雲が覆っていた。しばらくみていると白粉のような雪が空に散らばって、微塵の雪が舞い降りてきた。
 立とうとした時にしびれるような感覚があり、右肩の傷を思い出した。血はすでに止まり、傷口も乾き始めている。触れば痛むものの、傷自体は深いものではないようだった。
 辺りは虫の音ひとつ聞こえず、たまに吹くか風が草を揺らす音だけが鳴った。追っ手の気配はなさそうだった。
 加藤は会合があると言っていた。おそらく今は追わず、別の手だてを企てるつもりに違いない。加藤は目付方でそれなりの基盤を築いている。誠四郎ごときが騒いだところで、問題にならないのだろう。
(さあ、どうしたものかな……)
 誠四郎が相談できる相手はというと、泉命寺の住職しかいない。それに、長くはないと言っていた新沼も気になった。
 誠四郎の足はおのずと泉命寺に向いた。
 夜が三度の深雪を抱こうという刻限であった。月明かりが薄れたせいで、足元がおぼつかない。誠四郎は勘を頼りに夜道を歩いたが、なんどが脇の草むらに足を突っ込んだ。
 何とか泉命寺にたどり着き、あの急勾配の石段を足を滑らながら登っていくと、鳥居の前に誰かが立っていた。
 住職出ないことはすぐに分かった。老人独特の背の丸まりがないのである。どこかで見たような背格好だが暗がりで顔が見えず、特定することはできなかった。だが、相手は確実にこちらを見ている。
 誠四郎は鯉口を死角に隠して引き寄せた。すると男は、暗闇に消え込むようにしてどこかへ去って行った。
(何者だ?)
 誠四郎はそのまま境内に上がったが、警戒を解かずに庫裏を目指した。
 少し進むと、庫裏から漏れる灯りが庭園の松に積もる雪を照らしているのが見えた。
「御免」
 その一言で、誠四郎は住職に迎えられた。
「新沼殿は?」
 誠四郎が聞くと、住職は首を横に振った。
(逝かれたか……)
 覚悟は決めていたが無念さがこみ上げて来、白い布越しに新沼と対面した時には、誠四郎は涙腺を湿らせていた。目を瞑っても瞼は涙を吸ってはくれはせず、それらは筋になって目尻から垂れた。
「いつです?」
「半刻前に」
 誠四郎が深山道場にいたころである。
 帰らずに止まるべきであったかと、後悔した。
「……最期はなんと?」
「いえ。何も。
 ふっと、笑われたようでした」
 拝顔すると、笑ったようにも悔やんだようにも見える表情だった。見る者の心を写す御仏のような面である。念のために確かめたが、脈はなく、心音はもう聞こえなかった。
「お別れが御済になられたら、部屋を変えましょう」
 住職が言った。
「いや。このままで」
 この部屋に居座る必要が全くないのは分かり切っているが、誠四郎はこれからの住職との話を新沼の耳に入れておきたかった。墓前で語るのと同じように。
「少し、進展がありました」
 誠四郎は寺を出てから戻るまでの顛末を、一つも漏らすことなく“二人”に語った。
「……ではその、加藤治兵衛と申す者が皆を?」
「殺したとまでは言いませんでした。しかし、ほぼ間違いないものかと……」
「左様か……」
 住職は黙った。
 誠四郎は住職の口から今後の振る舞いを指示されるのが一番楽なのであるが、住職としても考えがあるはずはなかった。隠密方は文楽や木念といった正体不明の人物から指示を受けていたことが知れている。この件はどう考えても住職の手に委ねられるものではないのだろう。
 待っていても答えが出るはずはない決め、誠四郎は聞いてみた。
「……文などは来ていませんか?」
「文? ああ、木念殿からの御達しでございましょうか?」
 住職が無理なら、その御達しにかけるしかなかった。誠四郎がここに来ることを予測していたなら、可能性は見込まれる。
「残念ながら……」
 淡い期待は瞬時に掻き消え、誠四郎はうなだれた。
 木念といえど、この一刻の間の顛末までを言い当てるほどの人物ではないということだろう。そう考えて、少し安堵した。木念も人間なのだ。
(木念か。
 ……会ってみるしかあるまいな)
 もはや誠四郎の知る限りで、全てを知り得ている人物は木念を除いていない。ここまで来たからには会わねばならないだろう。
 とはいえ、所在も知らない人物はどこを訪ねればよいものか。誠四郎には手がかりがなかった。
「ご住職。文は何処から参る?」
「さて……。それに繋がるような内容は一切ございませんでな」
「文を返すことは?」
「それも……。何せ木念殿からの文は一方的で、方法も鳥であったり矢であったり……」
「……鳥。その鳥はどの方角に帰ったか、覚えはありますか?」
「方角……。
 ああ、一度、夕日に向かっていったことが」
「西、ですか」
「少し北寄りのような気もしますな。あれは確か、真夏の大きな夕日でした」
 西北西にある目ぼしい土地というと、訳合向である。道場から出てきたと考えるのが自然だが、話が終わってしまう。それでは文楽が佐久間万学であったというのと大差がない。つかみかけた手がかりが、一瞬にして蒸発した。
「どうかされましたかな?」
「……いえ」
 違う探し方をしなければなるまいと、そう考えた。
 誠四郎の首が垂れたその時、庭の方から物音がした。枯れ枝が踏まれて割れる音である。
「――」
 誠四郎と住職の間に緊張が走り、一瞬の目配せの後で誠四郎は行燈を吹き消した。

続く