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門下録

三十八.

(こいつなのか……?)
 誠四郎の目の前に立つ男は、新沼が語った北見の様相そのままだ。
 たしかに加藤は北見敏明を名乗ったと白状しなかったし、誠四郎もそこまで聞き出せてはいなかった。
 一瞬そのことに気を取られたが、今はそれに構っている余裕はない。
 誠四郎の後ろには、傷を負ってのたうつ男。池に落ちてもがく男。崩れはじめる家屋。そして、強まる雪。辺りを取り囲むすべてが風雲急を告げている。
 誠四郎は構えを正眼に落ち着かせた。
 しかし、男は構えない。抜かれた刃は右手からぶら下がっている。その手に持った刀の角度が絶妙で、辺りの炎が揺らめいているせいもあり、こちらからは刀身の長さが図れなかった。
 誠四郎は手首だけを返して男の鼻先を狙って斬り、相手の剣を誘ったが、男は動ぜずに、太刀筋を静観するに留まった。
(もう一度……)
 今度は左から、そのまま続けて右から同じように男の鼻先を狙うと、男は片手握りのままで誠四郎の剣を跳ね返し、半身を入れ替えた。相変わらず正当な構えをしようとはしない。
 ならばと誠四郎は一気に距離をつめ、打ち合いに持ち込んだ。
 男の剣は柔軟だった。
 誠四郎の剣を絡め取り、合間に急所を突いてくる。五合ほど交えて離れた時には、誠四郎の腕には三筋も傷跡ができていた。いずれも腕の内側である。一つ誤れば、腹を刺されていたかもしれない。
 男はやはり右手を下げている。構えないのではなく、それが得意とする構えなのだろう。それを悟ると同時に、相手の方が上手であることを誠四郎は悟った。
 勝負を焦るのは危険だった。
 庫裏はもう、半分以上が火に包まれている。幸い住職の悲鳴は聞こえていない。あるいはかき消されてしまったのかもしれないが、うまく逃げたことを願うまでだ。
 誠四郎はゆっくりと構えを下段に移した。
 男の構えが誠四郎の打ち込みを誘っている。誘いに乗って間を詰めても、先ほどと同じような手ではこちらの生傷が増えるだけである。挙句に、今になって加藤に傷つけられた右肩が痛み始めて、誠四郎の気を散らし始めた。
 誠四郎は攻め急がず、男の出方を辛抱強く待った。
 庫裏を焼く炎が天を焦がし、二人の周りの雪が雨に変わる。
 ついに男が動き、忍びが遣う剣術のような鋭く短い太刀筋がいくつにもわかれて胴を襲って来た。
 三つまでは余裕をもって外に弾き返したが、次第に早くなる男の剣に手が間に合わず、誠四郎は一気に押され、二歩も三歩も後づさった。危うくなる前に辛うじて間を取り戻したつもりだったが、着物も襦袢も穴だらけになって血が滲んでいた。挙句に出血が膝の震えを招いている。
 男は例の構えをやめて切っ先をまっすぐに誠四郎の顎に向けた。跳ね返したいが、腰が引けて体の均衡が保てず、睨むことしかできなかった。
 その後も一方的に男の攻めを負う身になった。男と体を入れ替えるたびに傷を増やし、終に膝をついた。血を失いすぎて、指先に力が籠らない。
「教えてくれ。倉橋や新沼殿を斬ったのはお主か?」
 苦しくなって会話に逃れたが、男は口をつぐんだまま誠四郎を見下ろしている。
 やがて辛うじて聞き取れる声で、こう言った。
「いかにも」
 男の剣が振り下ろされ、誠四郎は何とか左に逃れた。しかし、体制を立て直すほどの力は残っておらず、そのままよろけて雪中に転げた。
 男は身悶える暇も与えずに誠四郎にまたがり、刀を垂直に振り下ろした。
 誠四郎は咄嗟に手元の雪をつまんで男の顔に当て、紙一重で男の突きを避けた。
 苛ついた男が舌打ちをしながら、そのまま誠四郎の首を切り離そうと刃を押し当ててくる。もはや刀で押し返すこともできず、迫りくる刃を左手で直につかんで堪えた。左手の肉が切り開かれていく感覚が生々しく髄に刻まれ、周囲の雪の上に赤い花が散る。
(これまでか……)
 友の仇を目の前にしながら、食いしばる歯に力が失せてきた時、誠四郎の目が立ち尽くす一人の男を捉えた。
(――!)
 加藤だった。
 通りすがったかのように、つっ立っている。
「加藤」
 誠四郎はうめき声を上げた。
 瞬時に男も加藤を見た。
「平太! 良いところに来た! この男の首を撥ねるのを手伝え!」
 男は加藤の旧名を呼び捨てた。
「加藤! 目を覚ますんだ! こんなことをして何になる?」
 男に抗いながら、誠四郎は精一杯に叫んだ。
 どちらの呼びかけにも答えず、加藤は棒立ちでこちらを見ている。
「何をしている、里岩!」
 男が怒号する。
「貴様、叔父貴の恩を忘れたのか!」
 『叔父貴の恩』と言われて、誠四郎の勘が一気に働いた。
「お主、深見道場の……」
 男が、はっとしてこっちをみた。
 押しつけられていた刀が軽くなるのを感じて、誠四郎は思いっきり左手を振り、男の顔をめがけて血を飛ばした。血塊が男の右目で弾ける。
 誠四郎は右足を男の股下から抜いて腹を蹴り、半身を起した。だが、反撃までには至らず、額の真上でまたもや押し合いになった。
「加藤」
 男を睨みつけながら、誠四郎が言った。
「お前にやれることは他にあるだろう。
 終わった縁に振り回されるな」
「だまれ!
 貴様に我らの何が分かる!」
 男の力が一層強くなった。
 誠四郎が終に力負けをして雪の上に横倒しになった時、加藤の影が覆いかぶさった。業火を背中にして刀を持った加藤は、不動明王のようであった。
 そして、途端に誠四郎の腕が軽くなった。
 加藤の刃が男の腹から突き出している。男は多量の血を吐きだし、誠四郎の前身頃を汚した。
「貴様、何を。平太、里岩!」
 男が語尾を引きづりながら雪の上を這いまわる。刀を振り回そうと踏ん張っていたが、やがてポトリと雪に落ちた。
「……」
 あっけなく男が絶命する様を、加藤が冷たく見下ろしている。
「加藤……」
 誠四郎が呼びかけた時、加藤もその場に崩れ落ちた。
「おい、加藤!」
 加藤の背中に触れた誠四郎の掌にぬめりとしたものがあった。雨とは違う、人の体液である。かすり傷のような生易しいものではなく、今もまだ出血の止まらない深い刀傷だった。
「これは、どうした?」
「……油断した」
「油断?」
「五村……お前に山口を斬らせた借りは、これで返したぞ」
「馬鹿が。そんなことを気にしていたのか」
「……剣士にとって、同門の友は宝だ。励ましあって生きてきた。お前だって同じだったろう。それを知りながら、お前に山口を斬らせたのが、ずっと気に障っていた。
 俺も、もはや往生際。この世の未練は断って逝きたい……」
 加藤は呻き、大きく息を吐いた。
「……しかし。兄弟弟子を斬るという、のは、――い、ものだ……」
 加藤の声よりも吐いた血の量が多くて最期の声は聞き取れなかったが、誠四郎には十分だった。悲しい、切ない、むごい、どの言葉も当てはまることは身に染みている。
「加藤」
 誠四郎は加藤の肩をゆすったが、口からだらしなく血が垂れるばかりで、返事はなかった。
「すまん。おかげで助かった」
 誠四郎は力なく加藤を引き寄せ、礼を言うと、その場に寝かせた。
 加藤の足元では、男が白目をむいて事切れている。
(内藤六郎太――)
 今さら男の名を思い出した。加藤と同じく深山道場に出入りしていた人間で、深山の甥にあたる男である。その身の上を踏まえれば、偽名を使ったのも納得がいった。面識が薄いとはいえ、道場には必ず名札がかかっているのだから、親交のあった道場の門下生の名は言われれば思い出す。
 誠四郎自身、内藤と直に剣を交えたことはなかったが、何度か加藤と一緒にいるのを見たことがあった。今となっては、二人がどのような仲だったのかを知ることはない。だがこの様を見れば、二人は腐れ縁だったと言って間違いではないのかもしれない。
 誠四郎は静かに内藤の目を塞いだ。
 北の風が怒りをまき散らすかのようにして火の粉をばら撒き、庫裏から本堂に燃え広がっている。屋根はところどころ崩落してしまったが、まだ全てではない。大規模な崩落が起こる前にこの場を離れた方が良さそうだった。
 誠四郎は立ち上がったが、すぐにめまいがして屈みこんだ。足元の雪はほとんどが赤く、内股を血が這っているのが分かる。
 逃げようという気持ちと裏腹に、誠四郎の足はもたついて雪中に転げた。立ち上がろうとしても動悸がどんどん激しくなり、視界が暗幕に押しつぶされて、轟々と響くのは炎の音なのか、耳鳴りなのか判別ができなくなった。
 経つ力が絞り出せずにあがいていたその時、誰かが誠四郎の腕つかんだ。
 力強い腕だった。住職のような初老の腕ではない。
(誰だ?)
 声すら出せないまま、誠四郎はぐいっと引っ張られ、その男に担がれた。

続く